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彼方の図書室

 残暑が厳しい秋の薄く霞んだ青空に、緋色の孔雀が飛んでいる。
 私は鉄筋コンクリート造の巨大な建物の入口に向かう。自動ドアが開き、外とは違って肌寒さを感じる、薄暗い屋内に入った。
 窓はない。
 左右にドアが並ぶ廊下は、歩くのに困らない程度の間隔に設置されている光に照らされている。
 私は目的の場所も経路も知っている。
 正面はむき出しのコンクリートの壁。廊下は左右に伸びている。右に進む。
 長く薄暗い廊下。左右には等間隔にドア。ドアの中からは何も聞こえない。廊下は音がしない素材なのか仕掛けが施されているのか、歩く音もしない。
 沈黙の中を歩く。
 天井の光がほぼ届かない暗い場所で、ふと十字路になった。真っ直ぐ行くと行き止まり。右は遠くが少し明るい。左はあいかわらず薄暗い廊下が続く。私は左に曲がった。
 むこうから白衣を着た女性が歩いてきて、すれ違いざまにおつかれさまですと言われたので、私も返した。その後も男女数人とすれ違ったが、いずれも白衣を着ていて、私におつかれさまですとだけ言ってすれ違った。全員下を見て歩いていた。
 長い廊下は左に曲がっていた。急に明るくなったと思うと、少し先にガラスの大きな観音扉がある。扉の向こうも明るい。その明るさは電灯ではなく、外の光の明るさだ。
 観音扉を開けて中に入ると、幅十メートルほどの部屋で、左右、天井がガラス貼りになっている。部屋の左右と中央にはぎっしりと人が座っている。あぐらをかいている人、正座している人、膝を抱えている人、中には横になっている人もいる。人の群れの中に、ぽつぽつと出店があって、土産物やおでん、お好み焼、りんご飴、それぞれが色々なものを売っている。中央の人の群れの左右に一メートルもない幅で歩くスペースがまっすぐに続いている。人々は誰も何もしていない。すべての人が下を向いて座っていて、顔が見えない。横になっている人の顔は見えるが、寝ている。そんな中、出店からは元気に呼び込みの声が聞こえている。しかし出店の店員も声は大きかったが、誰もが下を向いていた。
 ガラスの外は青空。室内には陽の光が降り注いでいる。それなのにここは、薄暗いような、重く暗い淀んだ空気に満ちている。
 私は早くここを出ようと、反対にある出口に足早に向かった。
 部屋を出ると、再び両側にドアが並ぶ廊下。さっきの廊下よりも暗い。たまにすれ違う人も、すぐ近くにならないと影が歩いているように見える。そして再びここでも、すれ違った数人から、おつかれさまですとだけ言われた。
 まっすぐに続く廊下を進み、左に曲がる。向こうに再び明かりが見える。
 あそこだ。
 私はやっと目的地の近くまで来たことを知り、ほっとした。
 
 そこは階段だった。階段を登らずに隣のわずかに空いている所へ行く。そう、私は知っているのだ。目的の場所へ行くためには、こちらの階段を登らなくてはいけないことを。
 正面の壁に古い木製の、頑丈なドアがある。私が近づくとかちりと鍵が開く音がした。その音は大きく、階段の上や廊下にも響く。真鍮のノブを回し、ドアを開けて中に入り、しっかりと閉める。振り向くとそこには木製の螺旋階段。壁は臙脂色。上を見ても階段が続いているのが見えるだけだ。いつできたのかわからないが、とにかく古い。造りはしっかりしていて、手すりはまったくがたつかない。一段登ると、さすがに木の軋む音がした。
 空気が流れている感じはない。
 この階段を登れるのは僅かな人しかいない。
 その中の一人だということに、改めて喜びと誇りを感じた。
 どれだけ登ったのだろうか。上も下も螺旋しか見えない。さすがに息が上がってきたので、座って休むことにした。
 すると、手すりを支える支柱から見える、少し下の階段の壁が開いた。向こうに引くようにドアがあるらしい。ドアから濃紺のスーツを着た若い男が顔を出して、私に言った。
「大丈夫ですか。もしあれでしたら、こちらから出れますが」
「いや、大丈夫。上に行くよ」
「一応ここの鍵、開けておきますので、帰りに必要になったらここから出てください」
「ありがとう」
 男は出ていって、ドアを閉めた。
 罠だ。
 何度も来ているのに、まだあんなわかりやすい罠を仕掛けてくるのか。
 あのドアから出ると、ここには戻ってこれない。そして、二度とこの階段を登ることができなくなる。いや、それだけではない。この建物に入ることすらできなくなる。
 あのドアの向こうには、こことの繋がりを切る者たちがいる。ここのことを潜在意識から消去できる者たちがいる。しかしこの階段に足を踏み入れることはできない。だからあのように、開いたドアから身を乗り出して言うことしかできない。
 呼吸が整ったので、再び立ち上がり、階段を登る。
 汗は流れない。喉も渇かない。ただ、息が上がる。脚を上げるのも辛くなってきた時、階段に終りが見えた。
 踊り場には円形のペルシャ絨毯。そして再び褐色の古く頑丈な木のドアがあった。今度は鍵が開く音がしない。真鍮のノブを回すと開いた。
 中に入りドアを閉め、振り返る。
 五メートルはありそうな書棚が左右に並び、向こうは右に弧を描いて曲がっていて、その先は暗くて見えない。どこから入っているのかわからないが、光が届いている。書棚には金糸で編んだ表紙や、茶や赤や青の皮の表紙の分厚い本がぎっしりと埋まっている。どの本にも背表紙には何も書いていない。一冊取り出してページを捲ったが、思った通り私には読めない言葉が並んでいる。これだけの本があるのに、私に読める本は限られている。それはここに来ることができる者に共通した制約だ。失われた言語、未来の言語、地球以外の言語で書いてある本が並んでいるのだから。
 通路の少し先に、木製の円形のテーブルと椅子があり、テーブルの上に一冊の本が置いてある。
 椅子に座り、本を引き寄せる。
 深紅の皮に金の太い線で縁取り、内側に細い金の線が縁取っている。ここにある本の中では新しい。何度か深呼吸をして、表紙をめくった。
 そこには私が今いる世界の創造と破滅の繰り返しが、私の魂の転生の記録が、今の人生に起きたことすべてが、これからの人生で起きること、この世界でこれから起きること、この世界から他の世界へ行く方法、この人生での目的、この世界がどうにもならないと判断した時に行ける世界のリストなどが小さな字で書いてある。私は以前ここに来た時に読んだところまでめくり、続きを読む。ここには時間はない。ひたすら読み続けるだけだ。
 本に没頭して読み続けていると、急に暗くなりだした。
 そろそろ戻れという合図だ。
 私はぎりぎりまで読む。
 部屋はどんどん暗くなる。
 もう字を判読できなくなった時、本を閉じて立ち上がり、部屋を出た。
 ドアをしっかりと締めて、長い長い螺旋階段を降りる。性懲りもなくさっきの男がドアを開けて顔を出し、笑顔でここから出ませんかと声をかけてきたが、丁寧に断ると笑顔のままそうですかと言って、出ていき、ドアを閉めた。
 階段を降りきり、ドアを開けて外へ出て、ちゃんと閉めたのを確認して、来た道を戻る。鍵が閉まった大きな音が聞こえた。
 広い空間では、人々は俯いたままだ。出店の店員も下を向いたままだ。横になっている人は本当に寝ているのだろうか。もしかしたらすでに息絶えているのではないのだろうか。確かめることもせずに、明るいのに息が詰まりそうなその場所から出て、廊下を進み、自動ドアの外に出た。
 
 暑い。
 陽の光と熱を感じながら、自転車置き場へ向かう。
 自転車に乗って、綺麗に舗装された道を進む。道は急な登り坂になる。道の左右には草原が広がっているだけだ。
 自転車から降りてひっぱりながら坂道を登る。
 坂の頂上までたどり着くと、今度は急な下り坂が続いている。
 自転車に乗り、坂道を下る。
 どんどん加速していき、周囲の景色が歪んでいく。
 また来よう。
 私の意識が遠のいていく。

   終


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