翻案 蛇性の淫
はじめに
この物語は上田秋成『雨月物語』収録「蛇性の淫」を現代に置き換えて書いてみました。元が淫靡な作品なので、その要素はありますが、もちろんあからさまな表現はしていないつもりです。
最初に以上をお断りしておきます。 著者
翻案 蛇性の淫
1
あの夏の夕方。久渡寺の参拝の帰りなのか、麓の店の帰りなのか。ほとんどは車かバスに乗って行ってしまうのに、その人は晴れていて機嫌が良かったのか、微笑みながら空や周囲の山や畑を見ながら歩いていました。
彼を一目見て、ぜひとも交わりたいと、できることなら毎晩、何度でも交わりたいと思ったのです。ずいぶん長い間、あの忌々しい壺の中に閉じ込められていたのですから。
私は頃合いを見てすぐさま晴れた空に雨雲を出し、最初は小雨を降らせました。いきなり大雨にして、その人を濡らしては可哀想だと思ったからです。その人は雨を感じるとすぐに背負っていたリュックサックから傘を取り出しました。屋根のあるバスの停留所まであと少しというところで、傘が用をなさないほどに雨を強くしました。その人は走って停留所のベンチに座りました。そこにはベンチはひとつしかなく、三人がどうにか座れるほどのものでした。
池にいた魚の精に子供に化けるように言うと、私の言うことには断れないと悟ったのか、すぐに化けました。私はその人より年下だとわかる人間の女に化けて、雨に濡れて下着が透けて見えるように白の薄いシャツとズボンを身に纏いました。魚の精と共に停留所に向かいました。長い黒髪は雨に濡れ、毛先から滴が落ちました。
「すいません、隣、座ってもいいですか」
私は申し訳なさそうに眉間にほんの軽く力を入れてその人に言いました。その人は私とまだ幼い女の子を見るなりはっとした顔をしました。
「どうぞ」
そう言って席をぎりぎりまで詰めました。私はその人の脚に私の脚がぴたりとつくように座りました。その人が一瞬体をぴくりとさせたのが可愛く思いました。私はさらに腕もその人の腕につけました。雨に濡れて冷たかったその人の体が熱を帯びていくのを感じ、私は益々、いえ、今すぐにでもその人と交わりたい気分になりました。
「ひどい雨ですね」
濡れたシャツが体に張り付いて下着と体の形がわかるように姿勢よく座りながら、私は言いました。
「今日は雨が降る予報ではなかったんですけどね」
その人は言いながら私の顔を、そして見てはいけないと思いながらも自然と目がいってしまったように、私の胸の膨らみをみました。下着は深紅にしていました。
「ええ、ほんと。おかげで全身が濡れてしまいました」
媚のある目をしてその人に答えるように、自然と体の向きを変え、その人の腕に私の胸が触れるようにして言いました。その人は私の目をじっと見ています。呼吸が早くなっていました。私もじっと見ると、視線を外そうとして無意識に下を見ましたが、その視線は再び私の胸を見ていることがわかりました。
雨の音と雨が停留所の屋根に当たる音だけが聞こえました。まるでこの停留所が閉ざされた空間のように感じました。
「このあたりに住んでいるんですか」
気まずさを隠すためか、その人は言いました。
「ええ。このひとつ先の十字路を右に曲がり、すぐに右手に入る細い道の突き当りです。あともう少しだったんですが、この雨では」
私はその人の横から上目遣いに言いました。反対に座っている子が私の方に詰めてきました。
「もう、狭いんだからあまり詰めてこないで」
魚の精にそう言いながら、私はその人の体にさらに強く私の体を押しつけました。もういい頃だろうと思い、私は雨を小雨にしました。
「雨、落ち着いてきましたね」
私が空を見ながら言うと、その人もそうですねと言いました。
「あの、だいぶ濡れていらっしゃるので、もしよかったら、服が乾くまで私の家でお茶でもいかがですか。ここでこうして会ったのも何かの縁でしょうし」
「いや、この状況でこうして会えたのはたしかに縁だとは思いますが、さすがにいきなりお宅に伺うのは」
「私はかまいませんよ」
その人はちらっと私の隣の子を見ました。その人は迷っているような表情をしました。
「やはり今日はさすがに。あ、この傘、使ってください」
「私はすぐそこですから。あなたの方こそ必要ではありませんか」
「いえ、このくらいの雨は、私にとっては雨じゃありませんから」
微笑みながらそう言って、私の手に傘を握らせました。
「では、いつかこの傘、私の家に取りに来てください」
私は言いながら、その人の手の上に私の手を重ねました。その人は重なった手を見た後、私をまっすぐに見ました。
「わかりました。伺います」
私の目を見ている時、私は術をかけました。その人は私の家に訪れて、私と交わり、これまでに感じたことがない愉悦を感じる夢を見るように。
2
次の日の午後、その人は私が思ったとおり、さっそく私の家に来ました。昨夜、私がかけた術で見た愉楽の夢が忘れられないのでしょう、気を落ち着かせようとしている表情と共に牡の気の匂いが下腹部から漂ってきて、それが私をたまらなくさせました。私は魚の精に酒肴を持ってくるように命じ、その人と居間に向かいました。
この日この時のために揃えた豪華な家具。すぐ隣の部屋は寝室です。その人の牡の匂いに興奮を抑えきれず、漏れ出る牝の匂いもそのままに、私たちは隣り合って座りました。
「粗末な家ですが、来ていただいて嬉しいです」
「いや、傘を取りに来ただけなので、すぐに帰ります」
「まあ、そういわずに、お酒の一杯でも。それともお車ですか」
「いえ、昨日の停留所までバスに乗ってきました」
「では、次のバスと言ってもまだ時間がありますから。あの、お名前を伺ってもよろしいでしょうか。私は真(ま)女児(なご)と申します」
そこへ魚の精が酒肴を持ってきました。
「あの子はまろやと呼んでください」
「私は豊雄(とよお)といいます」
あのときのあの方の魂を持っているのはわかっておりましたが、今世でも同じ名前を持って生まれたとは。愛しい思いが膨らみ、私は豊雄に昨日のように体を寄せ、酒をお酌しました。
「昨日はお母さんがいいって言ったのに、無理やり傘を持たせたんだから、今日は私がお母さんの代わりに、あなたをここに止めておきます」
まろやが真面目な顔で言ったのがおかしかったのか、豊雄は笑顔でわかったよ、少しだけねと言って、刺し身を食べました。
あたりが薄暗くなってきました。三人で楽しく進めていた食事もあらかたなくなっていました。
「じゃあ、日が暮れる前に帰りましょう」
豊雄が言ったので、私は止めました。
「待ってください。どうでしょう、今日は泊まっていきませんか。まろやも今日は昼寝をしていないので、早く寝ると思いますし、一度寝たら朝までなかなか起きない子なんです。それに、こうしてお客様が我が家に来たのは本当に久しぶりで。夫が生きていたときは、たまには来客もあったのですが、今はもう誰も来ません。まろやと二人、慎ましく暮らしています。そこへ昨日、あなたと会って、今の今まであなたのことばかり考えていました。信じていただくことしかできないのですが、一目惚れしました」
私は豊雄の腕に私の胸を押しつけ、その耳に息を吹きかけるように続けました。
「お酒の力を借りなくては、恥ずかしくて言えない。でも、今言わなければ、もう二度とあなたと会うことはないかもしれない。お願いです。今日だけでも、泊まっていっていただけませんか」
そう言って豊雄の背中に腕を回しました。酒には私にしか作れない媚薬をふんだんに入れておきました。それに、豊雄は今日、私の家に来たときからここまでのことが、昨夜見た夢と全く同じことだと気づいているはず。このあと二人でどうするかもわかっているはずです。
「まろや、今日はお昼寝もしていないし、そろそろ寝たらどう」
「でも、お片付けがまだ」
「今日はお母さんがしておきます。ほら、眠そうな顔をして」
まろやは居間を出ていきました。
「あなたは私のこと、嫌いですか。なんとも思っていませんか。それなら仕方ありません。この想いは諦めます」
酒に酔っているように熱い吐息混じりに、豊雄のすぐ近くで言いました。
「いえ、私もあなたに一目惚れしたので。というか、なんだか話がうまく進みすぎて、夢ではないかと思っていたので。それにじっさい、昨夜、こうしてあなたの家に訪れて、あなたと過ごす夢を見たんです」
豊雄はお猪口に残っている酒をぐっと飲んで続けました。
「さっきから伝わっていますよね、私の鼓動が早くなっているのが」
「ええ」
私は豊雄の手に私の手を重ね、唇が触れる寸前まで寄りました。そこで豊雄は我慢できなくなりました。唇を合わせ、強く抱きしめてきました。あれから数百年、再び豊雄とこうして肌を重ね合わせ、交わることができるとは。私は快楽に身を委ね、貪り、何度も何度も、豊雄がもう勘弁してくれと言うまで交わり、豊雄の精を吸い取りました。
翌朝、豊雄が帰ると言い出したので、とめようと思いましたが、家族が待っているのでどうしても帰らなければいけないということだったので、私はではこれをお持ちくださいと、金貨を渡しました。
「いや、さすがにこれは受け取れません」
「私のことなら心配いりません。この金貨はほんの一部。懇意にしていただいた方へお渡ししているものです。奥にはまだまだありますし、のべ棒もあります。夫には先立たれましたが、贅沢さえしなければ、慎ましい生活をしていれば働かなくとも生活できます。それに夫が残してくれたのは他にもありますので。私が無理に泊まらせてしまったお詫びと、お礼として受け取ってください」
「そこまで言うのなら、ありがたくいただきます」
豊雄はそう言うと財布の中に金貨を入れました。私は豊雄が去る前にどうしても、もう一度だけ交わりたくなり、正面から豊雄を抱きしめ、口づけをしました。
「お願いです。お帰りになる前にもう一度だけ。それとも私では満足できませんでしたか」
私がそう言うと豊雄は何も言わずに私の背に両手を回し、力強く抱きしめてくれました。
「あなたに不満を持つ男がいるとしたら、それはこういうことが好きではない男だと思いますよ」
豊雄は昨晩、あれほど果てたのに力強く、互いに満足して帰っていきました。
3
豊雄が帰った三日後、ドアチャイムが鳴りました。
「すいません、警察です。いらっしゃるのはわかっております。聞きたいことがあるので、開けていただけませんか」
私はため息をつきました。また豊雄は私を裏切ろうとしているのか。いや、豊雄の家族が警察に行き、豊雄を連れてここまで来たのか。
仕方がありません。
私は寝室に座り、開いていますよと外に聞こえるように大きな声で言いました。
「うわ、気をつけろ、床が腐っているところがあるぞ」
「何だこの臭いは」
「ああ、生臭いというかなんというか」
私の家にひどいことを言いながら警察と豊雄の家族が入ってきました。最後に呆然とした表情の豊雄が家の中をきょろきょろしながら入ってきました。
足音はだんだんこちらへ向かってきます。
寝室のドアが開きました。
「ここはあなたの家ですか」
警官の一人が言いました。
「ええ」
「嘘をつくな。ここは数年前から誰も住んでいない。詳しい話は署で聞かせてもらいたい。ご同行願います」
今度は刑事がそう言って近づいてきたので、私は耳が裂けるような、雷が目の前に落ちたような音を鳴らし、人間が思わず目をつむり床に伏している間に蛇の姿に戻り、人間どもに気づかれないようにその家を離れました。数百年前のことがあったので、同じことが繰り返されるかもと思い、まろやは昨晩のうちに池に戻していました。
もしやと思ってはいたものの、似たようなことが繰り返されたのが悔しくて悔してくたまりませんでした。おそらく豊雄はもう私には会ってはくれないでしょう。いや、会いたくても家族や周りのものが会わせてはくれないでしょう。ならばあの時と同様に、豊雄がいずこかへ引っ越してもらうのを待つしかありません。豊雄はまだ私の術中にいます。初めは私を拒否するかもしれませんが、また私から誘えば、頭では拒否していても、心と本能は私を求めてくるはず。
私はその時を待ちました。
4
あれから一ヶ月。
豊雄はどうやら弘前駅の向こう、城東方面に引っ越したようでした。私は夜に蛇に戻り、土淵川を下り、豊雄の気配がする方へ向かいました。この家だと確信して、庭の茂みでじっと様子を見ていると、どうやら親戚の家の離れを借りているようでした。
私は親戚の家に行き、豊雄さんがこちらにいると聞いたのですがと、まろやと共に訪ねました。その時、まろやは離れの方を見ていたのですが、窓からこちらをうかがっている豊雄を見つけたようで、あそこに親切なおじちゃんがいると指を指しながら大きな声で言いました。
「駄目です。その二人に関わってはいけません」
豊雄は窓を開けてこちらに向かって言いました。
「豊雄、近所のことも考えろ。こっちに来なさい」
親戚がそう言うと、豊雄は私たちをなるべく見ないようにしながらこちらに向かってきて、玄関に立ちました。
「立ち話もなんだから、中で話を聞こうじゃないか。どうするかはそれからでもいいだろ」
親戚はそう言って、私たちを中に入れてくれました。
豊雄は、あなたのおかげでひどい目にあった。あの金は盗んだものじゃないか。パソコンが壊れたから、ちょうどいいとおもって換金に行ったら、警察が来た。家には他にも金があると言っていたが、あれも盗んだものだろ。それにあの日、あなたの家に行った時、突然大きな音がして、落ち着いたと思ってみるとあなたは消えていた。今のこの時代でありえないと思うが、あなたは妖怪や霊なのではないか。いずれにしても、あなた方にはもう関わりたくないと言ってきました。
「違うのです。私の話も聞いて下さい。あの金は亡き夫が残したものなんです。まさか夫が犯罪を犯していたなどと私はあの時まで思っていませんでしたし、今でも信じられない気持ちです。あれから数日後、また警察が来て、私も任意同行を求められました。私には身に覚えのないことなので、聞かれたことには素直に答えました。あなたが警察に連れて行かれたと聞いて、これは私のところにも来るだろうと予想して、急ごしらえで家を壊し、庭に生えていた雑草を床から生えているように見せ、実際に魚を床下に何匹かばらまきました。警察の目を私に向けて、あなたを救いたかったからなんです。あの金があれば、壊した家も、直すこともできるだろうと思ってのことでした。
あの音はまろやの案で、部屋の四隅においてあるスピーカーから出した音です。私は耳栓をしていて、みなさんが目を瞑って耐えているすきに素早く逃げたのです。どうか、どうか信じてください」
私は目をうるませながら、豊雄と親戚、交互に見ながら言いました。
「豊雄、警察にも呼ばれて話して、今ここにいるということは、この人は無実無罪ということだろ。しかもお前を助けたくてやったことだそうじゃないか」
豊雄が黙っているので、私は親戚に向かって続けました。
「元の夫が残した保険金はまだ残っていますが、これがあれば安心だと思っていた金貨や延べ棒は、もちろん警察がすべて持っていきました。この子の将来を思うと、不安で不安で」
「家はどうしたのかな」
「どうすることもできないので、解体してしまい、土地は売りに出しています。今はまろやと二人でアパート暮らしをしています」
「こればっかりは私だけでは決められないのだが、もし豊雄がいいと言うのなら、離れに一緒に住んではいかがですか。まろやちゃん、つまらないと思うけど、ここで待っててくれるかな。豊雄、この人と離れでゆっくり話してきなさい。私とこの子がいると話しにくこともあるだろうから」
親戚の者がその後いくらか話したところによると、離れは子どもたちが社会人になって家を出て行ったから、いつまでもいてもらってかまわない。豊雄はインターネットの動画投稿で広告収入を得ていて、質素に近いが生活できるほどの稼ぎがある。あとは親も親戚も結婚だけが心配だが、本人は今やっていることが楽しいから、結婚などをしてその時間がなくなるのが嫌だと言っている。
「では、私もお邪魔ですよね」
私は豊雄の正面を見て言いました。
「いや、真女児さんさえよければというか、仕事の時は集中しているので、その、会話とかはできないので」
「それはかまいませんわ。男性が真剣に仕事をしている姿は逞しく美しいですから、私、見ているのが好きなんです」
「では、その、向こうで少しだけ話しましょうか」
「ええ」
私はまろやを母屋に置き、豊雄の後をついて離れに向かいました。
離れのドアを閉めるやいなや、私は豊雄に抱きつきました。初めは抵抗しましたが、私が化けているこの人間の姿は豊雄の好みそのもの。そして、豊雄は私の性技を味わっているのです。再び私と情を交えることへの期待と欲望は抑えきれないはず。豊雄に魅惑の術の効果のある甘い息と共に誘惑の言葉を耳元で囁きました。あなたともう一度こうしたかった。あなたの体の熱を感じたかった。再びひとつになりたいと、そのことばかり考えていました。
事が済むと、豊雄は私から何も言わずとも、また一緒に暮らそうと言ってくれました。私は嬉しくて、再び豊雄を求めました。
幸せな日々が続いたある日、親戚がたまには二人でどこかへいってみてはどうかと言ってきました。夏が近づき、昼は暑さを覚える頃になっていたのもあり、豊雄は、岩木川の河川敷にでも行って、あの辺りで何か食べましょうと云いました。
二人で岩木川の近くにある昔ながらのアイスを作っている店で、ラムネ味を二本買い、私たちは小さなレジャーシートに暑い中、身を寄せ合って、川の流れを見ながら、せせらぎと鳥たちの声を聞きながらアイスを食べました。人として生きるのも悪くない。体を重ねなくとも、これほどの幸せを感じることができる。そう思っていたときです。
「ちょっと、そこのお二人」
男の声がしたので振り向くと、そこにはどこぞの寺の坊主が立っていました。私は身の危険を感じましたが、平静を装っていました。
「あなたは旦那さんかな」
豊雄は坊主の言葉にはいと返事をしました。
「お連れの方、人ではないようだが、承知の上ですか」
豊雄が黙っていると、坊主はこちらに来ました。
「旦那さん、あなたはどうやら憑かれておられるようだ。人ではないものと一緒にいても、なんとも思っていない。いや、むしろ一緒にいたいと思っておられる」
私は立ち上がろうとしました。
「逃さぬぞ」
坊主はこれまでとはうってかわって、腹の底から力を込めた声で言いました。
私を睨みつけると、手印を結び、経を唱え始めたのです。これは叶わないと思い、私は元の姿に戻り、川へ逃げ込みました。遠くから豊雄を見ると、坊主が豊雄に向って何かを言っているように見えました。どうやら、私の術は解けてしまったようでした。
まろやはそんな私の状況に感づいたらしく、親戚の家からこっそり抜け出したと、後にまろやから聞きました。
5
あれから数ヶ月が過ぎました。
木々の葉は紅葉し、冬が訪れようとしていました。
機会を伺おうと豊雄を見ていましたが、今度はもう私が近づかぬよう、親戚が豊雄を人間の女と結婚させようと見合いをしていました。互いに気があったのか、ふたりは急速に距離を縮め、出会って三ヶ月も経たぬうちに結婚を決めてしまいました。
悔しい。
私の豊雄を奪うのか、私の豊雄と体を重ね、私の豊雄と微笑み合い、私の豊雄と毎日一緒にいるのか。
ほんの少し前までは私がそうしていたのに。
豊雄が女の実家に挨拶に行くことになったので、私はまろやを連れて、後を追いました。女の両親も豊雄を気に入り、二人の結婚は許されてしまったのです。その日、二人はそのまま実家に泊まることになり、女が使っていた部屋に一緒に寝ることになりました。宴が終わり、二人が部屋に入り、良かっただのこれからもよろしくお願いしますだの言っているのを聞かされ、私の怒りは強くなるばかりでした。ふと豊雄が立ち上がり、便所へ行きました。私は今だと、女に取り憑きました。
「なあ、信じてもらえないかもしれないけれど、私は少し前まで化け物に取り憑かれていたんだ。でも、偶然通りかかった住職に助けられて、今こうしてお前といることができる。あれもこれも、お前と出会うためだったのかもしれないな」
俯いている女、私に向って豊雄がずけずけと言いました。私は言ってやりました。
「何を仰っているのですか。私とあなたは一蓮托生。私の人生が終わるまで、ずっと一緒にいてください、愛しています。そう仰ったのは豊雄、あなたではありませんか。その言葉を信じて、こうしてまた会いに来ましたよ」
そう言って顔を上げると、豊雄はこれまで見たこともない驚きの顔をしました。
「そうですとも。お母様のこと、お忘れですか。今日はとても良い日ですね、お母様」
まろやが部屋のドアを開けて入ってきました。
振り返った豊雄は驚きから恐怖の表情に変わり、そのまま気絶してしまいました。
人間の体というのは不便で、どうしても眠らなければいけないようにできているのですね。翌朝目覚めると、頭痛がして、体を起こそうにも、どうにも思ったとおりに動かすことができませんでした。なんとか横を見ると豊雄の姿がありません。まろやは人の姿をしていることに力を使ったのか、ぐっすりと眠っておりました。
しばらくそうしていると、家の中が騒々しくなりました。私に任せなさいと大きな口を叩いている男の声がします。ひとつ驚かせてやろうと、私はドアいっぱいになるよう、自分の顔を大きくしました。
ドアを勢いよく開けた男は、どこぞの神主でした。
私を見るなり腰を抜かし、床にへたり込みました。私は呪詛の毒気を吐きながら言いました。
「身の程知らずめ。私を退治するだと。やれるものならやってみせるがいい」
毒気が強かったのか、男はそのまま気を失ってしまいました。他の部屋に運ばれる時に、女の両親に何かを言っていたようでしたが、声が小さすぎて私には聞こえませんでした。
豊雄の気配がありません。どこかへ逃げたのかと思っていた数時間後、戻ってきた気配がしました。
部屋のドアをノックして、そっと開けると私に言いました。
「私が悪かった。真女児、お前の気持ち、しっかりと受け止めよう。さあ、ここを出て私達の家に帰ろう」
嬉しかった。また豊雄と共に過ごすことができる。
そう思って気を抜いた瞬間、豊雄はどこから出したのか、私が嫌いな香の臭いがする袈裟で私をくるみました。
「豊雄、どうかお願いです。この袈裟を外してください。お願い。お願い」
私がそう言うと豊雄はさらに力を込めてくるんできました。隙間はどこにもありません。私は気が遠くなるのを感じました。
そこへあの河原で出会った和尚の声が聞こえました。
「おのれ和尚っ。今度はわらわをどうするつもりじゃ。やれるものならやってみせるがいい。人間なんぞにそれができるのならな」
「蛇というのはしつこいというが、本当だな」
そう言うと、呪文を唱えました。体が、心が苦しい。この袈裟もこの香も私を苦しめます。
「小癪なっ。私の何が悪かったのじゃ。私が何をしたというのじゃ。神が人を愛してはならぬと申すかっ。豊雄、豊雄、愛しい豊雄、これほどぬしのことを思っておるのに、これほど愛しておるのに。助けておくれ。豊雄。豊雄っ」
坊主は呪文を唱えるのをやめません。豊雄も袈裟を外してくれません。
力が抜けていく。
声を出す力すらない。
もう。
もう、何もできない。
そのまま私は気を失いました。
気がつくと暗闇の中。どうやら隣にはまろやがいるようですが、まったく動きません。
嗚呼、また私はあのときと同じ手口で封ぜられたのか。
そう気づくまで時間はかかりませんでした。
「私は仏の教えに従うもの。神主ではあなたを封じることは、そうとうな力をお持ちでなければ難しいでしょう。信仰するものが違う私だからここまでできたものの、それでもやはり信仰を持つものの弱点ですね。あなたを滅することは私にはできません。いや、邪神といえど厄神といえど神は神。しょせん人間ごときには限界があります。どうかそのまま、安らかにお眠りください」
坊主はそう言うと再び呪文を唱えました。
耐え難い睡魔が襲ってきました。
終
あとがき
この上田秋成の『蛇性の淫』には中国の『警世通言』第28巻「白娘子永鎮雷峰塔」という元ネタがあります。つまりは上田秋成の『蛇性の淫』がそもそも翻案物、再話であることは承知しています。
なお、青空文庫に『蛇性の淫』と「白娘子永鎮雷峰塔」を田中貢太郎が再話したものがあります。興味がある方はそちらも読んでみて下さい。
青空文庫:田中貢太郎『蛇性の淫』副題「雷峰怪蹟」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000154/card42319.html
さらに付け加えておくと、『蛇性の淫』に登場する真女児は白蛇の妖怪の位置付けですが、今回書いた私の中では意図的に神の扱いをしたことも、ここで述べておきます。
『雨月物語』に興味を持った方がいらっしゃったら、ぜひ一冊読んでみて下さい。今読んでもおもしろい話が収録されています。
尚、Wikipediaに『雨月物語』と収録された各物語の概要・あらすじがあります。ネタバレになりますが、そちらも参考にしたい方は一読されてみて下さい。
Wikipedia:雨月物語
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
著者