人生を映す走馬灯
1
「おい、走馬灯って知ってるか」
高校時代からの友人が言った。
土曜日の夜の居酒屋は混んでいて、俺たちはカウンター席の一番奥に並んで座っていた。
友人と会うのは数年ぶりで、会わないうちにずいぶん太っていた。友人が言うには、ここ数年の感染病で、外に出ることがなくなり、必要以外の日は家にこもっていたそうだ。気がついたら取り返しがつかなくなっていたらしいが、家にいてもやれることはある。家で何をしていたのか聞いてみたら、読書やネットで動画を見たり、ゲームをやったり。結婚はしていないし、彼女もいないから、デートもない。料理も始めのうちは自分で作っていたが、面倒になり、スーパーやコンビニの弁当が主食らしい。
感染病が落ち着き、こうして久しぶりに会って、ここ数年のことを話すのが落ち着いた時、唐突に言ったのがさっきの言葉だった。
「走馬灯って、死ぬ直前に人生がすごい速さでよぎるっていうやつだろ。ああ、あれは例えか。言われてみれば走馬灯って知らないし見たことないな」
友人がスマホで検索して僕に見せた。
灯籠なのだが、枠が二重になっていて、影絵が回転しながら写るようになっている。色のついた和紙が貼ってある綺麗なものや、単純に内側は白い和紙、外側は影絵の形がくり抜かれた厚紙のものもある。
「で、走馬灯がどうかしたのか」
俺は友人に聞いた。
「さっきお前が言った、人生が終わる直前によぎるっていうの、あれを生きたまま見れるところがこの街にあるらしいんだよ」
「生まれてから今までここに住んでるけど、そんな話、聞いたことないぞ」
「それは、そういうところがあるのは、見たっていう人の夢だとか妄想だとかって言われてるからってのもあるらしい」
どうやらそこは店なんだと言う。小さな入口を開けると、大人一人がぎりぎり通れるほどの通路があり、左側にカウンターがある。カウンターは木の板で覆われ、小さな丸い穴とその下にお金をやり取りする程度のくり抜きがあり、カウンターの上にはコイントレーが一つ置いてあるだけだそうだ。
穴の向こうは真っ暗で覗いても何も見えない。その穴に向けて話すと、向こうからしわがれた男性の老人の声が、いらっしゃいませと言いながら、くり抜きからパンフレットを滑らせて出してくる。
パンフレットには何も書いていない。走馬灯の写真がいつくか並んでいるだけだ。その中から、自分が見たい走馬灯を選び、穴の向こうの老人に伝える。
「少々お待ち下さい」
老人の声が聞こえる。
しばらくすると、壁だと思っていた奥へ進む木の扉が開く。先に進むと三畳ほどの真っ暗な部屋の真ん中に、先ほど選んだ走馬灯が置いてあり、部屋中を照らしている。
部屋に入ると扉が閉まる。
ゆっくりと回る走馬灯を眺めていると、子供の頃の忘れていた思い出が浮かぶ。思い出は小学生から中学生、高校生、大学生と進み、社会人を経て、最後に自分が走馬灯を眺めていることに気づく。
楽しかったことや嬉しかったことだけではなく、苦しかったことや悲しかったことも思い出す。
「店を出ると、自分はまだまだ生きていけるって思えるんだよ」
友人が言った。
「お前、その店に行ったのか」
「ああ。数年前にここに帰ってきたときにな。でも、どうしてもどこにあるのか思い出せないんだよ。大体の場所はわかっているんだけど、あの時あった道が見当たらないんだ。スマホの地図アプリで検索しても出てこない。体験談をネットに載せている人もいるが、色々と書かれたのか、ことごとくコメントを閉じてるんだよ」
「まだまだ生きていけるって思えた結果がそれかよ」
俺は言いながら友人の腹を見た。
「最近、また運動を始めたんだ。週に二日、ジムにも通ってる。最後にお前と会った時と比べたらまだまだだけど、これでもけっこう体重は落ちたんだ」
その後、俺たちは会わなかった間に読んだ本や観た映画の話をした。友人は次は冬に帰ってくると言って、帰っていった。
2
数年後、俺は途方に暮れていた。
勤めていた会社が倒産し、仕事を探していたが、条件に合う仕事が見つからず、雇用保険の受給期間が過ぎ、貯金を崩して生活していた。
しかも父親は認知症で、看病していた母がみぞおちの痛みを訴え、検査の結果、癌が見つかり入院した。
両親の年金は介護と治療に必要になり、俺が稼がないと、このままでは生活が困難になる。貯金に余裕があるうちにと、毎日ハローワークに朝一番で通っていたが、この状況で働けるところがなかなか見つからない。酒はとっくにやめ、タバコは一番安いものに変えて、一日に三本。こればっかりはやめるにやめられないままだ。
毎日うるさいほど豪快に笑っていた父親は、すっかり静かになってしまい、縁側に座って何時間も庭を眺めている。おそらく自分が何を見ているのかもわかっていなのだろう。
父親と同じくらい笑い声が大きかった母も、抗がん剤の治療で疲れ果てていて、目の下のくまが色濃く、ずいぶん痩せてしまった。見舞いに行くと、それでも気丈に笑顔になろうとしているのが、逆に痛々しい。
父親には毎晩就寝前に軽い睡眠薬を飲ませている。足腰は丈夫で、まだその兆候は見えないが、夜中に徘徊を始められたら、今度は俺が寝不足続きで倒れてはいけない。
友人は結婚して子供ができ、仕事も忙しくなったようで、今年も帰省はできそうにないと連絡があった。
「経験者として言うけど、がんばって料理してくれ。弁当は楽だけど、あのときの俺みたいになるぞ。太るのは数ヶ月、戻すのは数年。仕事を見つけるのが最優先だと思っているだろうけど、お前の健康が最優先なんだからな」
友人はそう言ってアプリの電話を切った。
たしかにそうだと思い、ふと鏡の前に立って自分の顔を見た。毎朝、髭を剃ってみているはずだが、こうして改めて見ると、そこには疲れてくぼんだ目をした、青白く頬がこけてきた自分がいた。
部屋に戻る途中、父親の部屋から、いびきが聞こえてきた。
今なら少しくらいはいいか。
そう思い、俺は夜の散歩に出た。
空は晴れ渡っていて月がなく、おとなしい秋の星々がささやかな光を放っていた。
頭に血が上っていたのか、秋の夜の涼しさが心地よく冷やしてくれた。
ときおり通り過ぎる車。人は俺以外は誰も歩いていない。
こんな時間にふらふらと歩いている自分自身が、これでは徘徊だなと自虐的に思った。
リンゴが赤くなっている畑の前を歩いている時、大きな羽ばたきが聞こえた。驚いて見ると大きな白いフクロウが木に止まって俺を見ている。近くで見るのは初めてだが、思っていたより大きい。目が合うとホオと鳴いた。
しばらく目を合わせたままフクロウを見ていたが、その後は鳴かず、頭をくるくると回していた。
いいものを見たと思って、また歩き出した。
しばらく歩いていると、いつもは明るい道がやたら暗い。それまで等間隔で並んでいた街灯の間隔が急に広くなっていた。街灯と街灯の中間ほどまで来て、確かここに歩行者専用の細い道があったと思い立ち止まった。
歩道があるはずのそこには、細い平屋の家が建っていた。つい先日、ここの道を通ったはずだ。この短期間に家が建つはずがない。しかし、大人二人は並んで歩けるが、三人はきついほどの幅しかないのに、両隣の家の塀に挟まれるように、その家は建っていた。
敷地の数歩先に看板が立っている。暗いのでスマホを取り出してライトを点けた。その時に見た時刻は二十一時三分だった。看板を照らすと達筆な筆文字が書いてあった。
『あなたの人生を映す
走馬灯』
もしやと思って、そのまま古いがしっかりとしている引き戸の玄関の前に立った。玄関の周囲にはボタンも呼び鈴らしきものもない。開かなかったら引き返そうと思って手をかけると、それほど力を入れなくても、ガラガラという音と共に開いた。
中に入ると狭い通路があり、その真ん中に老人がいた。長く白い、豊富なあごひげに皺だらけの顔。生成りの野良着に小豆色のちゃんちゃんこ、紫色の頭巾に草履を履いている。
笑顔でこちらを見ているが、身長が一メートル程しかない。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
しわがれた声で老人が言った。
「あの」
俺が確認しようと言いかけたら、老人は遮るように言った。
「ええ、そうですよ、ここがあなたのお友達も一度だけいらっしゃった、走馬灯屋ですよ」
「友人の話とずいぶん違うんですが」
「ああ」と言いながら老人は笑った。「それはお友達が変えたんでしょう。ほら、まともに話しても誰も信じてくれないから。じゃあさっそく見てもらおう」
老人はそう言うと奥に向かって、突き当りの引き戸を開けた。中に入ると、やがてランプのような明かりがついたが、何かの絵が回っているようだった。
俺も奥に進み、部屋の入口から中を見た。
どう見ても寸法が合わない、六畳ほどの部屋があり、中には走馬灯以外は何もない。走馬灯はまさに茶色と白馬の絵が交互に回っていた。
「さあさあ、中に入りなさい。私は外で待ってるから、終わったら出てきなさい」
「あの、散歩に出てきただけなので、財布を持っていないんですが」
「ああ、気にしなくていい」
俺は部屋の中に入り、走馬灯の前に胡座をかいて座った。
「たまに眠ってしまう人もいるんだが、あんたも気にせず、眠くなったら寝ても構わないよ」
そう言うと老人は部屋から出て、引き戸を閉めた。
3
ゆっくり回る走馬灯を見るともなしに見ていると、睡魔が襲ってきた。
疲れているんだ。
父の世話、母の見舞い、慣れない家事、就職活動。先が見えない日々。生活に消えていく貯金。
このまま仕事が見つからなかったら、どうしたらいいのだろう。
耐えきれず俺は目を閉じた。
最初に見えたのは、両親が俺を見て笑っている記憶。なぜ笑っているのかはわからないが、両親の笑顔を見ていると自分も嬉しくなって笑った。笑った俺を見て両親はさらに笑顔になる。それを見て俺はもっと嬉しくなった。
次は初めて幼稚園に行く日。新しい肩下げカバン。中には母が作ってくれた弁当。俺は母と手を繋ぎ、送迎バスを待っている。暖かく晴れた空。
やがてバスが到着した。中から保育士が笑顔で出てきた。母が俺の手を離し、じゃあいってらっしゃいと笑顔で言った。俺は母の顔も保育士の顔も見ずに、下を向いたまま頷いた。母は、ほら、いってきますはと言った。俺は小さな声でいってきますと言った。
バスに乗り、一番うしろの席に向かって、靴のまま立ち膝になり、手をふる母に手を振り返した。離れていく母。俺は不安でいっぱいだった。
幼稚園の部屋に入ると、途中入園の俺のまわりにみんなが集まって、自分の名前を言ってから、俺の名前を聞いてきた。みんな、笑顔で俺を迎えてくれた。さっきまでの不安は一瞬で消え、俺はみんなと遊んだ。
帰りのバスを降りた俺を待っていた母は、幼稚園どうだったと聞いてきた。俺が笑顔で楽しかったと答えると、母も笑顔で、そう、よかったねぇと言った。
その後は時間がバラバラに、いろいろな記憶が出てきた。夜中に発熱して小児科に連れて行かれ、インターホンに向かって母が必死に何かを言っている。
小学校、中学校の入学式と卒業式に、校門の前で写真を写したこと。自転車で転んで膝を擦りむいたこと。中学生の時の友人と夜通し語り合ったこと。初恋の人が転校していったこと。社会人になって初めてミスをして叱られたこと。高校生の時に告白してふられ、映画のような大雨が降ってきて、ずぶ濡れになりながら歩いたこと。自転車に乗っているときに信号無視をした車にはねられたが、どこも怪我をしなかったこと。十年前に盲腸で入院したこと。定年した父の様子がおかしくなり、両親と俺の三人で認知症治療の研究に取り組んでいるという病院に向かっているときのタクシーの中の沈黙。結婚まで考えた人との別れ。友人と徹夜で飲み歩き、最後は財布の中が空になって歩いて帰ったこと。初めてのボーナスで調子が悪くなっていたビデオデッキを買って、親にプレゼントしたこと。癌の宣告を受けたときの母の表情。小学生の時に函館に行った家族旅行のこと。
覚えていること、忘れていたことが次々と展開していった。
ふと気がつくと、俺は走馬灯の前で横になっていた。
起き上がって再びあぐらで座った。
両親、その時その時の友人たち、かつての恋人たち。多くの繋がり。切れてしまった縁。楽しかったこと、嬉しかったこと、辛かったこと、苦しかったこと。
すべてがあって、今、俺はここにいる。こうして生きている。
まだ、俺は生きている。
高校生の時、放課後にクラスメートと話しているときに、俺が自分で言った言葉を思い出していた。
「死んだように生きるなんてまっぴらだ」
目を閉じて、ゆっくり息を吐き、一気に息を吸う。
そう、まだ俺は生きている。
俺は立ち上がった。
4
部屋を出ると老人はさっきと同じ笑顔で待っていた。
「うんうん、いい顔になってるな。大丈夫そうだ。いきなさい」
「ありがとうございました」
俺が頭を下げると、老人はいいからいいからと言って、もう一度、いきなさいと言った。
店を出て、道路に出た。後ろから老人が「もう二度と来るんじゃないよ」と言った。苦笑いして振り返ると、そこには細い歩道があった。
店は消えていた。
俺はスマホを取り出した。時刻は二十一時六分。あれほど長くいたのに三分しか過ぎていない。
チャットアプリを立ち上げて、友人に「今、電話しても大丈夫?」とメッセージを送った。
すぐにアプリの電話が着信した。
「今、走馬灯の店から出てきたよ」
俺がそう言うと、しばらく沈黙していた友人が言った。
「そうか、俺の話が半分作り話だったってバレちゃったな。でも」
「いや、いい。お前が作り話を入れた理由はよくわかったから」
「じいさん、元気だったか」
「ああ。あの人、何者なんだろうな。神なのか仙人なのか」
「どっちでもいいだろ。でも、お前があそこに行けてよかった。どうだ、今の気持ちは」
「ああ、お前が言ったとおりだよ」
そう言って夜空を見た。さっきは見えなかった満月がのぼって、夜空と街を照らしている。
俺は友人に言った。
「死んだように生きるなんてまっぴらだ」
友人は笑った。
「じゃあ、言うことはなにもない。来年こそはそっちに行くから、時間取れそうなら、ゆっくり話を聞かせてくれ」
電話を切る。
もう一度夜空を見て、深呼吸。
繋がり。縁。愛。
「さて」
俺は歩き出した。
終
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