もういちど一緒に。それだけ。
霞がかつた青空に、斑のような雲。
先週降り積もった雪はすつかり溶け、春のような陽気が三日続いています。林檎も木蓮もすつかり葉を落とし、木蓮の枝には白く短い毛に覆われた冬芽が出ていました。春に綺麗に咲いていた紫陽花は花も葉も枝も全てが焦茶色に染まつています。
黒のロングコートのポケットに入れてきた手袋は必要なさそうです。
車も自転車も歩行者も少く、時折見かけるだけ。自転車に乗ろうかと思いましたが、なんとなく歩きたい気分で買い物も少ないこともあり、散歩がてら外に出ました。
みやあ。
どこからともなく猫の鳴き声が聞こえた直後、今度は頭上から鴉の大きな鳴き声が聞こえました。見上げると真上の電線に一羽止まっています。視線を下げて周囲を見ましたが、猫は見つけられませんでした。
歩き出そうとした時、急に気温が下がり、冷たく強い向かい風が吹いてきました。空は急激に曇り、一面鈍色になりました。
強風に乗って大粒の雪が舞い、色鮮やかだった世界は白に埋め尽くされ、一面の白に黒のロングコートを着た自分。とにかく目的の店に入ろうと、モノクロの中、吹き付ける雪ですでに冷たい顔をどうすることもできずに歩きました。せめてもの救いは、手袋を持つてきていたことだけです。
歩いているときにふと気付きました。
音が消えています。
雪の隙間から家や建物は見えるのですが、先程までたまに通つていた車も自転車もまつたく見ません。人もいません。そして、これほどの強風なのに、風の音もしていないのです。
雪がすべての音を吸収しているようでした。
雪は吹き付け、舞い降り続け、アスフアルトに落ちると同時に消えます。
みやあ。
さつきの猫の声が聞こえると同時に風がさらに強くなり、思わず下を向いて立ち止まりました。風が弱まるのをじつと待ちました。
ふつと風が止みました。
大粒の雪は降り続き、世界は白のまま。
顔を上げると、女がこつちに向かつて歩いてきます。
胸のあたりまでまつすぐ伸びた黒髪。キヤメルのロングコート。マフラーとブーツは黒。垂れ気味の大きな目。思わず見惚れてしまいましたが、あまり見ていては失礼だろうと思い、視線を右に移しました。歩いてすれ違えばいいものを、なにもないところで立ち止まり右を見たところで振り続ける雪しか見えないのだから、不自然極まりありません。
女は目の前で止まりました。
「あの」
よく通る声で女は言いました。どう見ても私に話しかけているので、女を見ました。頬を赤らめ微笑んでいる女を見て、私は美しいと思いました。二十代後半から三十代前半でしょうか。
「どうしました」
私はそう言うと、高鳴る鼓動を落ち着けようとして、女に気付かれないように深呼吸をしました。女のコートはよくみると、縦にうっすらと白いラインが数本あります。
「お久しぶりです」
女はそう言うと会釈をしました。顔を上げた女を見ましたが、全く記憶にありません。これほど美しい人なら忘れるはずがありません。
「いえ、覚えてなくて当然です。この姿は仮の姿ですから」
一瞬思考が止まりました。
仮の姿とはどういうことでしょうか。
「一緒に歩きましょう」
女はそう言うと私の返事を待たずに来た方を向いて歩き出しました。私が気づかなかっただけなのかもしれませんが、女はいつの間にか持つていた赤い傘を開きました。
「頭だけは濡れずにすむと思いますが」
「おじゃまします」
そう言つて私は、私が持ちますと言つて傘の柄を握りました。女はありがとうと言うと私に傘を任せ、こちらに近寄りました。
相変わらず大粒の雪は降り続き白い世界に包まれています。私達はその中、赤い傘の下で寄り添つて歩きました。しかし車一台通りすぎず、誰ともすれ違いません。音もありません。私たちが歩いている雪を踏む音も聞こえないのです。聞こえるのは女と私の声だけでした。
暫く歩くと女は林檎畑沿いの舗装されていない細い道に入りました。車が通るには狭い、歩いていたり自転車に乗つているときに使う、一つ向こうの道への抜け道です。女は立ち止まり、横を向くと、すでに枝に雪が積もり始めている林檎畑を見ながら言いました。
「ここです」
私は女の左に立ちました。
「そう、三年前のあの時もあなたはわたしの左に立ち、そしてわたしが見上げると目を合わせ、しやがみました。そして他に誰かいないか辺りを見渡してから、私と同じ目線になろうと地面に両手をつけて│屈《 かが》んでくれました。そこまでしてくれる人は初めてでしたし、それがとても嬉しかつたのです」
三年前、ここでしゃがみ、さらにかがんだこと。
ふつと女の気配が消えました。右を向くと誰もいません。
みやあ。
足元から猫の声が聞こえました。そこにはキヤメル色で頭から後ろ脚にかけて白い筋が何本か等間隔に通つている猫がいました。
それで思い出したのです。
あの初夏の日、仕事が休日だつた私は今日と同じく何となく歩きたくなつて、買い物がてら散歩をしていました。そしてこの道を通った時、一匹の子猫が林檎畑をじっと見ていたのです。私が近寄つても猫は逃げず、私を見上げました。ねえと猫が言つたような気がしたので、どうしたと声に出して返しました。あれ何。そう言うと猫は再び林檎畑を見ました。私は猫が見たほうに視線を移しましたが、そこには林檎の樹と地面に生えている雑草しか見えません。ほらあそこ。猫は何かがいるかあるらしい方を見ながら言いました。猫の視線で見なければ見えないのかもしれないと思い、いちおう誰かいないか周りを見渡しました。このままでは怪しく思われるという自覚はありましたから。誰もいないことを確認し、地面に両手をつけて屈んでみましたが、やはり何も見えませんでした。
「ごめん、やっぱり見えないや」
そつか、人には見えないのか。
「もしかしたら見える人がいるかもしれないけど」
そうだね。あなたはわたしの言葉が聞こえてるみたいだから。聞こえない人のほうが多いのに。だからあなたにはあれが見えなくても、見える人がいるのかもしれないね。
「ところで何が見えているの」
透明なキラキラの羽をつけて飛んでいる小さな人。
「それは妖精だよ」
ふうん。
「まあ、妖精つて名前をつけたのは私たち人だけどね」
わたしのことを猫って言ってるみたいに。
「そう。でもいいな、私には妖精は見えないよ」
そうなんだ。蒲公英の上をとても楽しそうに飛んでるよ。
そう言つている猫を見ると、目つきが鋭くなつていました。
「たぶん、食べられないし、食べても美味しくないよ」
そうかな。
「たぶんね。じやあ私はそろそろ帰るよ」
うん。ありがとう。人と話したの久しぶりだつたけど楽しかった。
「私こそありがとう。またね」
うん、またね。
「思い出していただけましたか」
猫はまた女の姿になつて雪の林檎畑を見ながら言いました。あの時を思い出しているのでしようか、微笑んでいるように見えます。
「たしかに楽しかつたね。そういえばあれから見かけないけれど、どうしていたの」
「わたしはずつと、あなたを見かけるたびに、あなたを見ていたし、気を引こうと鳴いていました。けれどあなたはいつも疲れているような、何かを考えているような顔をしていて、私には気付いてくれませんでした」
言われてみればあの頃から私は仕事が忙しくなり残業が増え、結婚もせずに歳を重ねているうちに親が体調を崩し、慣れない家事もやり始めていました。仕事の日は残業で疲れ、休日は家事で疲れ果て、一年中疲れが抜けない状態が数年間続いていたのです。なんとか家事にも慣れてきて、仕事も落ち着いたのがつい最近のことでした。
「そうだつたんだね。ごめん」
「いえ、そういう人はたくさん見てきましたから。だから今日、少しでいいからと神様にお願いをして、こうして人の姿になつて、あなたの前に現れたのです」
「どうしてそこまでして。それと神様はよくその願いを叶えてくれたね」
「神様がなぜわたしの願いを叶えてくれたのかはわかりません。わたしが願うと、鴉が神様の代わりに、では今からしばらくの間だけ人にしてあげようと言つてきたのです。気がつくとわたしはこの姿になつていました」
「そうなんだね」
「なぜこの姿になつてまでというのは、簡単です。さつきも言いましたが、あなたはもうわたしの視線にも声にも振り向いてくれなくなつてしまいました。そしてわたしはあなたたち人より物事を覚えていることができません。いつしか忘れてしまいます」
そこまでいうと女はこちらを向いた。
「忘れる前に、もう一度あなたとこうして並んで、一緒に話したかつたんです。もう一度あなたとこうして並んで、なんでもない景色を一緒に見たかつたのです。ただそれだけなんです。できれば冬ではなく、あのときのように蒲公英が咲いている時、妖精が楽しそうに遊んでいるときが良かつたのですが」
私は子供の頃から人よりも動物や虫に好かれていました。猫や犬、鳥、蛙に蝶など様々な動物が私に寄つてきました。歩いている私の肩に蝶や蜻蛉が止まったりもしていました。なぜそうなのかはわかりませんが、悪い気はしないのでそのままにしていました。それに、実際はどうかはわかりませんが、何となく言つていることがわかるような気もしていました。周りに人がいないときは、よく話していたものです。
女は真剣な目で私を見ています。
「そうだつたんだね。じやあ約束しよう。またここに蒲公英が咲いたら、ここで並んで話をしながら眺めよう」
私が微笑みながら言うと女は嬉しそうに安心したように微笑み返しました。
「そうだ。そういえばあなたは野良猫なのかな。それともどこかの家で飼われているのかな」
「私は野良猫です」
それを聞いて私はどうしてもそうしなければいけない、今言わなければいけないという想いに駆られ、女に言いました。
「そうか。じやあどこかこの近くで待つていてもらえるかな。今から買い物をしなければいけないんだ。もしよかつたら、私の家に来ないかい。一緒に暮らさないかい。そうすれば、安心して眠れるし、食べ物も用意できる。体調を崩している親がいるんだけど、もしかしたら君と一緒に暮らすことで少しは元気になるかもしれない。それに一緒に暮らせば、いつでもここに来れるし、ここじやないところにも行ける。もつと話すこともできる」
「いいんですか」
女は目を大きくして言いました。
「もちろん」
「ではさつき会ったところで待っています。あそこの家の塀の裏にいます。あなたが来たら現れます」
鴉が頭上で大きく三度鳴いた。見上げると私たちの真上の電線に一羽止まつていました。私と目が合うと鴉はもう一度鳴いて、雪が降る中、飛んでいきました。
視線を戻すと女の姿はありません。
みやあ。
足元に猫がいました。
わたしはしやがんで猫の頭を撫でました。猫は目を閉じて頭を私の手に押し付けてきました。
みやあ。
もう一度鳴くと猫は私たちが歩いてきた方に戻つていきました。
さて。
私も歩きました。寒い思いをさせるのだから、早く買い物をしよう。そういえばあそこの店にはペツト用品は売つていたかな。揃えなければいけないものを考えていた時、ああ、まずは体を洗わないと。嫌がらないかななどと思ったりしながら、私は真白な世界を歩きました。
あれ。
ふと気づきました。そういえば赤い傘がありません。まあいいでしよう。
風の音がしました。それと共に雪が止みました。雲間から光が差し込みました。薄明光線です。通りには車が走りました。笑いながら話している子どもたちが通りの向こうを歩いています。
世界に音が戻ってきました。
終
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