四月の雨
カーテンを開けるとくもりガラスの向こうは灰色だった。
二重サッシの内側を開けると、窓ガラスいっぱいについた雨粒の向こうに一面の鈍色が広がっていた。僕は今日のために久しぶりに買ったマールボロに火をつけ、深く煙を吸って、ため息と共に一気に吐き出した。
桜は散ってしまっただろうか。それともまだぎりぎり満開前で持ちこたえているのだろうか。仕事の休日と満開の予定日が重なっていたので、久しぶりに弘前公園に見に行こうと決めていた。
今年は桜月(さつき)の七回忌。桜月が癌で、この世界のどこにもいなくなってから、誰とも付き合っていない。意識していたわけではなく、縁がなかっただけだ。おかげで毎年この季節になると桜月を思い出す。
「四月の雨ね」
あの日も朝から雨が降っていた。僕たちは相合い傘で、弘前公園に追手門から入って歩いていた。それでも人は多く、傘と傘がぶつからないように、他人同士が譲り合い、気をつけながら歩いていた。
「四月の雨は、九月の雨よりはましだな」
「なんで」
「どっちもしとしととした長雨だけど、九月の雨は寒くなる。四月の雨も気温は下がるけど、九月ほどじゃない」
「春と秋の違いかな」
「気持ちの問題かもしれないけどね。それに、四月の今の時期の雨は雨とはいえ、こうして桜も見れる。しかも祭り期間なのにいつもより人が少ない」
「そしておかげで、どうどうとこうして歩けるしね」
桜月はそう言うと腕を僕の腕に絡ませた。
薄い曇り空なら桜も霞んで見えるけど、ここまで黒に近い雲だと、逆に色が映えて見える。これはこれでいいものだな。雨さえ降ってなければ。
南内門をくぐると、右に進めば本丸へ、左は西濠へ向かう。
「どっちに行く」
僕が聞くと桜月は西濠に行くと言った。
「本丸に行っても、人が多いし」
「西濠だって多いだろ」
「今日みたいな雨の日に、西濠で立ち止まっている人はいないんじゃないかな」
そう言いながら僕たちは自然と西濠へ向かっていた。
あの日と一緒だな。
午前中に掃除と洗濯をすませて昼食を取り、読書中に耐え難い睡魔に襲われて昼寝。夢に黒鳥が出てきて、さあ行こうと言ったのを聞いて目が覚めた。
午後16時55分発のバスに乗りながら、桜月と桜まつりにいったときのことを思い出していた。あの年の前の年も次の年も快晴だった。あの年だけが、今日とまるで同じ天気で、もしかしたら自分は今、過去にタイムスリップをしているのではないか、公園の入口に行くと、傘を差した桜月がいて、僕を見つけて、あの笑顔を見せてくれるのではないかと、誰でも考えつくような小説のようなことを考えていた。
一人で追手門から中に入る。
入ってすぐを左に曲がると市民会館と市立博物館へ向かう。真っ直ぐ進むと左手は広く開けた市民広場、右は植物園になっていて、白神山地を模した林が再現されていて、ブナの木が並んでいる。突き当りを左へ。右には辰巳櫓が見える中濠、左には何件か祭り期間だけの小店が並んでいる。未申櫓を見ながら杉の大橋をわたり、南内門をくぐる。あの日と同じく右へはいかず、西濠へ向かう。
急に雨が上がり、空が明るくなってきた。
「なんか、嬉しいような残念なような」
僕が傘を閉じると桜月は微笑みながら言った。
「雨は上がっても、腕はこのままでもいいんじゃないかな」
桜月はそうだよねと微笑みながら言った。
木々の向こうに蓮池が見えた。夏になると池の半分が蓮で敷き詰められる。なぜかわからないが、残り半分には蓮が咲かない。蓮池は西の郭に隣接していて、ここには立派な木があり、桜も幹が太く大きなものがある。秋には樹齢推定三〇〇年、高さ一五メートル程の根が露出している、根上がりイチョウもある。幹周は五メートルを超え、秋には鮮やかな黄色の葉を見せてくれる。
ここでたまに道を間違えるのだが、真っすぐ進んでしまうと西濠から一本奥の道へ続いている。左に曲がり、弘前工業高校の裏手に出て、道なりに進むと西濠、通称桜のトンネルへ辿り着く。トンネルの反対側にある春陽橋からの眺めもいいが、僕はこちらがわ、貸しボート乗り場から見る西濠の桜の方が好きだ。濠の両側に大きな桜が並び、満開の花から無数の花びらを舞わせ、はらりと濠に落ちていく。
さっきまでの雨が嘘のように上がり、雲がなくなり、弱い風が吹いてきた。公園内は多くの木々、草花のおかげで公園外より気温が低い。ここはこれからライトアップされ、絢爛な景色に変わる。それもいいのだけれど、僕はここよりも好きな場所がある。桜が舞い散るトンネルを歩き、そこへ向かった。
あの時は春陽橋を渡って西濠を往復するように歩き、来た道を戻った。今日は演芸場と護国神社がある四の丸を通ろうと思い、進んだ。桜まつり期間中、最も店が集中しているのが四の丸だ。シートを敷いて飲み食いしている人たちが密集している。それらの人たちが広げている食事と、店からの様々な食物と飲物のにおいが混然と混じり合っていて、やはりここには来なきゃよかったと思いながら、脇目もふらずに護国神社の大きな石鳥居をくぐって、四の丸を抜ける。すぐ左にお化け屋敷があり、独特な言い回しとスピーカーからの悲鳴が聞こえる。空はすっかり日が落ちているが、ここら一帯は昼のように明るい。
賀田橋を渡り、本丸へ続く急坂を登る。坂の途中の店で、スーパーより二倍はするであろう値段のビールを一本だけ買い、坂を登りきった。真っ直ぐ行くと本丸だが、弘前中央高校側に出る左へ曲る。左手に緑の相談所、僕は右のピクニック広場へ行く道に入った。
桜が広い間隔で植えられているピクニック広場は、日中はそれなりに飲食を楽しむ人達がいるのだが、夜は出店も少なくライトアップもされていないため、電柱の明かりに照らされた桜があるところにぽつぽつと座っている人たちが静かに花見を楽しんでいる。
誰もいない、明かりも届いていない、けれどそこそこ大きな桜がある。その桜から少し離れたところに、東の空が見える草の上に直接座った。
「どうしてここに座るの」
「あともう少しだから、ここで少し休もう」
桜月とビールを開け、乾杯と言いながら缶を軽くぶつけて、一口飲んだ。他愛のない話をして時間を過ごしていると桜月が、あっとつぶやいた。
向こうの松の木の上に満月が見えてきた。
「これだったんだ」
夜空に浮かぶ満月。松。満開の桜。
「明かりが少ないここで見るからこそ、幽玄で綺麗だろ」
桜月は微笑みながら見ていていた。横顔が美しかった。
「ありがとう」
桜月は景色を見ながらそう言った。
にゃあ。
視線を下ろすと白猫が前脚だけ立てて僕を見ていた。すぐに視線を外して見ないようにすると、僕のあぐらの上に乗ってきて丸くなった。
「あの」
今度は視線を上げた。
デニムのワンピースに白いカーディガンを羽織り、白いシューズを履いた背の高い女性が僕を見ていた。小さな栗色の皮のバックを肩に下げている。
「あの、その猫、あなたが飼っているんですか」
「いえ、たったいま出会いました」
「そうなんですか。ずいぶん慣れているように見えるので、もしかしたらと思って」
「どちらかというと馴れ馴れしいですよね。初対面なのにこの態度は」
僕が微笑みながら言うと、女性も微笑んだ。
「一目惚れされたみたいですね」
「猫、好きなんですか」
「ええ。実家では二匹飼ってます。私の部屋はペット禁止なので。私、ここに来たばかりで、中央高校側の入口から入ったら、この子が私を待っていたように、前脚を立てて私を見ていたんです。それで目が合ったら、こっちだみたいにここまで歩いてきたので。そうしたら、あなたのところに来たというわけなんです。あなたは猫は好きなんですか」
「猫も鳥も虫も、人間以外の動植物は好きです。犬は好きなのに、なぜか九割方むこうから威嚇モードで吠えられるんですけどね」
「人間は嫌いなんですか」
「嫌いな人の割合が多いだけです」
「あの、隣、座ってもいいですか。私のことが嫌いでなければ」
「あ、座ってもいいんですけど、何か敷くものを」
「大丈夫です。気にしないので」
そういうと女性は僕の左に脚を向こう側に横に崩して座った。
「あの、ビールを買ってて、温くなるといけないので開けてもいいですか」
「私も一本だけ、途中のコンビニで買ってきたのがあるんです」
僕たちはそれぞれのバックからビールを取り出し、プルタブを開けて乾杯した。一口飲んで僕は女性に言った。
「あの、もしよかったらなんですけど、丁寧語はやめて話しませんか」
「良かった。私もそう思ってたところなんです」
「いや、それ、丁寧語だから」
「あ、もういいんだ」
僕は腕時計を見た。
「そろそろ、あの松の上に月が昇ってくるよ」
「それでここに座ってたんだ」
「うん」
「元カノとの思い出の場所なの」
「正解。今年で七回忌なんだ」
「私はこの場所じゃないけど、今年で元カレの七周忌」
僕は女性を見た。女性は淋しげな微笑で僕を見た。
「猫といい、お互いの元恋人のことといい、古くて安い恋愛ものみたいな偶然だね」
「ほんと。あるんだね、こういうこと」
僕たちはしばらく黙って桜と夜空を見ながらビールを飲んだ。猫は僕の脚の上で丸くなったままだ。おかげで僕は温かい。
「ねえ、寒くない。けっこう気温下がってきたし、ビール飲んだし」
「ちょっとだけ。でも大丈夫だよ」
「いや、そろそろ重くなってきたから、こいつを渡そうと思って」
僕は猫を持ち上げた。暴れるかと思ったら、静かにしているので、そのまま女性に差し伸べた。女性は、私でいいかな。この人のほうがいいかな。と言いながら自分の脚の上に乗せた。猫はしばらく女性の顔を見ていたが、僕のときと同じように丸くなった。
「こいつ、野良猫なのかな。首輪はしてないけど」
「案外、神様の使いとかかも」
「僕と君との縁をつなげるためのってこと」
女性は猫の胴をなでて、もしかしたらねとつぶやくように言った。
お互いビールを飲み干した。
「こうなることがわかっていたら、二本買ったのに」
「私も」
「あの、これは社交辞令でもなんでもなく、ほんとに聞きたいから聞くんだけど、もしよかったら連絡先交換してくれないかな」
「よかった、先に言ってくれて」
僕たちはスマホを取り出し、ラインとXで繋がった。
「安心して。メッセージを送ったら見ず知らずの人から返信が届いたりしないから。ちゃんと私が返信します」
「そういう経験ないから、それならそれで話のネタが増えるだけだけれどもね」
猫が起きて、女性の膝から降りた。僕と女性を交互に見ると桜の方を向いて、にゃあと一声鳴き、ゆっくりと向こうへ歩いていった。
「ついていけばいいのかな」
僕は女性と猫、両方に話しかけるように言った。猫は振り返りもせずに真っすぐ歩き、木々の影に消えた。
「もうお役目は終わったみたいね」
「うん。だってほら」
満月が松の上に顔を出した。明かりが届いていなかった桜を月が照らし、浮かび上がる。
「綺麗」
女性は出会ってから一番の微笑みで、その光景を見ている。
急に後ろから一陣の強い風が吹いた。僕たちの背の桜たちが花びらを散らせたのだろう。月光で光りながら無数の花びらが舞い降りた。女性は微笑みのまま目を細めて言った。
「四月の雨ね」
終
●この作品はHearty soundさんの曲『四月の雨』を聴いてインスパイアされて書きました。
Hearty soundさんのページはこちら。
Hearty sound | https://note.com/hearty_sound
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