黒アゲハ
「蝶は変化変容の象徴なんだって。でもね、もうひとつあるの。何だと思う」
妻が洗濯物をたたみながら言った。俺は床に横になりながら、たいしておもしろくもないテレビを眺めていた。
わからないよと言った俺に妻は続けた。
「黒い蝶は縁のある誰かの魂らしいの。ちゃんとあなたのことを見てるよ、ちゃんと守ってるよって知らせに来てくれてるんだって」
俺はへえと答えただけだった。
「ねえ、薄明光線って知ってる」
洗濯物をたたんでいたはずの妻は俺の隣の布団に入っていて、体を横にして俺を見ながら言った。俺も今の床に横になってテレビを見ていたはずが、寝室の布団に寝ていた。
俺はひどく眠たかった。妻になんだそれはと言った。
「天使の梯子ともいうんだって。曇り空だったのが、突然、雲に切れ間ができて、太陽の光だけが何本も差し込む時があるでしょ。あれを見たら、ちゃんと守られてるから安心しなさいっていうことなんだって」
俺は、そうなんだ、まあほんとかどうかはともかく、あれは綺麗だよな。
そう言うと睡魔に耐えられず眠りに落ちた。
目を覚ますと居間の仏壇の前で寝ていた。
仏壇の前で寝てしまった時は、たまに妻の夢を見る。
またやってしまったなと思いながら起き上がると、体のあちこちが痛い。テーブルの上には、昨晩食べた値引きシールが貼ってある惣菜や、ビール缶が置いてあった。
仏壇の前に座り、線香を立てて手を合わせた。
怒らないでくれよな。最近また仕事が忙しくてさ、自分で作るのがめんどうなんだよ。仕事が落ち着いたら、晩飯くらいはまたちゃんと自分で作るから。いや、今日は休みだから、このあとスーパーに行ってくるよ。
パンとヨーグルト、バナナで朝食をすませ、髭を剃り、外出する準備を整えた。
ドアを開けると、暑い風が入ってきた。8月が終わろうとしているが、秋の気配はない。空を見ると、あいにく曇りで青空はどこにも見えない。
財布とスマホ、スーパーのポイントカードを持ったか確認して、なんとなく車ではなく自転車で移動したい気分だったので、玄関前に置いてある自転車に乗ってこぎだした。
あちこちでモンシロチョウが飛んでいる。信号待ちをしているときにはトンボが飛んでいた。暑さはまだまだだが、秋は確実に近づいている。
今日は予定もないし、掃除は明日にするか。
ゆっくりしたい気分だったので、スーパーへ行くのはあとにして、このまま公園へ行くことにした。
公園の駐輪所に自転車を停めた。
公園の中は少し気温が下がっていて、それが心地いい。思っていたよりも人がまばらで、ゆっくりと散歩ができた。
木々も花も草も、まだ緑が濃い。あちこちから様々な鳥と蝉の鳴き声が聞こえる。
結婚前も結婚してからも、2人でよくここを歩いた。季節が変わっていくのをここで感じた。結婚後もここでだけは、手を繋いだり腕を組んで歩いたりもした。
蓮池が見えた。蓮の花がいくつも咲いている。
妻と散歩していたときから、空いているときは必ずそこと、いつの間にか決まっていたベンチに座った。
お前がいなくなって、もう1年になるのか。
「言えるうちに言っておくね。出会ってくれてありがとう。見つけてくれてありがとう。一緒にいてくれてありがとう。ご飯、スーパーで売ってる惣菜や弁当ばかりじゃなくて、ちゃんと自分で作ってね。あなたといた時間は幸せだったよ。それと」笑顔のまま涙が流れた「それと、私が先になってごめんね」
そう言ってくれた1週間後だったな。
この1年間、ずっとどこか現実感がない。ずっとどこか夢の中にいるような日々が続いた。両親や長年付き合った友人がそれぞれ逝ったときも、こんな感覚はなかった。
そんな自分を見かねたのか、ある日、友人がこう言ってきた。
「お前、奥さんの部屋、そのまましてるだろ。こんな言い方しかできなくてわるいけど、奥さんはもう戻ってこないんだから、遺品を整理したほうがいい。いくら時間がかかってもいいから、お前が1人でやったほうがいい」
服はとっておいてもどうにもならないだろうと、思い切ってすべてを処分した。
次はどこをと思って、なんとなく化粧台の引き出しを開けたら「あなたへ」と書いた封筒が入っていた。
「あなたがこの手紙を読んでいるということは、私はもういなくっているのね。
この手紙は、一時帰宅したときに書いたんだけど、あなたのことだから、読んでいるのは、あたしがいなくなってからずいぶん過ぎてからでしょ笑
あなたへお願いがあるの。
次に書いていることを守ってね。
あなたのためでもあるんだから」
手紙にはちゃんと掃除をしろとか、できてある弁当や総菜ばかり食べるなとか、ゴミを出す曜日、日ごろ使うものがどこにしまってあるかなど、日常生活に必要なことが書いてあり、こう続いていた。
「まだまだ言いたいことはあるけど、このへんにしておいてあげる笑
そうそう、私がいなくなって好きな人が現れたら、私に遠慮なんてしないでね。どれだけ探しても、どれだけ待っても、私はもうあなたの前には現れないから。それに、私が出てきたら怖いでしょ。
じゃあ、私がいうのも何だけど、健康に気をつけて、幸せに暮らしてね。
私がいなくなったからって、ふらふら生きちゃだめよ。ちゃんと生きてね」
ああ、そうか、そうだったんだな。
お前がいなくなったことを、俺はまだ受け入れられていないんだな。
そう思ったとき、何かの影が見えた。影はふわりと飛んでいて、やがて右腕に止まった。
黒アゲハだった。
黒アゲハはこちらを見て止まっている。
「お前なのか」
羽を一度広げてまた閉じた。
「ごめんな、向こうに行ってまで心配をかけて」
微笑みながら言った。
黒アゲハはそれを聞くと、すっと腕を離れ、またふわりと飛んでいった。
目で追い、空を見ると、雲間から何本もの光が差し込んでいた。
立ち上がった。
大きく深呼吸をして前を向き、一歩一歩、しっかりと踏みしめて歩く。
さあ、今夜は何を食べよう。何を作ろう。
明日は晴れるだろうか。
晴れたら布団を干そう。
すべての窓を開けて掃除をしよう。
そして掃除がすべて終わったその時、仏壇の前に座ることにしよう。
終
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