砂丘と神域
小径を東から西へ
草を抜きながら進むと
引き抜く手応えで
敷地の土が
徐々に粘土質から
やわらかい砂地に変わってゆくのがわかる。
この上質な砂地は
新潟砂丘と呼ばれる
地形の一画にあり
やや黒褐色で
豊かに養分を含み
いまも
新潟平野の沃土を成している。
河がもたらした恵みと
この土地への畏敬を忘れて、
われわれは
その生を営むことは出来ない。
小作のくらし
村で唯一の原姓をなのるわが家は
もともと
いまの中学校の近くの土地持ち、
原藤兵衛のもとで小作をしていた。
それが
どういういきさつで引っ越してきて
この土地の庄屋、O氏の小作になったのかは
わからない。
ただ
「イモグロイイモチ」といって
親族ではないものの、小作が
主家と同じ姓を許されることは
よくあったことで
農民が姓を名乗ったのは明治であるから
移住は明治初期、
私の高祖父(ひいひいじいちゃん)のころかと思われる。
(一説に私で8代目にあたり、江戸期1800年ころの分家ともいう)
O氏より与えられた家は
いまも街道筋とよばれる
寺の門前通り沿いで
村中がうっそうとした竹林にあるなかで
わずかな敷地に
板葺きの小屋を建てた。
現在の家が建ったのは大正12年、
だいたい100年ほどまえになろうか。
当時4歳だった母方の祖母(一昨年他界)が
建前がものめずらしくて
近くで見ていると
曾祖母に
「あぶねぇすけ、あっちいけ!」
と怒っこらったと、のちに回想している。
この時も
屋根は板葺きの簡素なもので
屋根瓦になったのは
昭和初期、大叔母が
滋賀の紡績工場に奉公にいった給金で
やっと載せたのだという。
砂丘のもとのすがた
昭和40年代まで、
家のすぐ裏は
一段土地が高くなっていて
砂丘の斜面がだんだんと
階段状に
いまよりゆるやかであったという。
しかし
農地改革のあと
田地を失ったO氏は、
祖父と田んぼ一反で
砂丘の斜面の竹林を交換する。
この一画には
味噌小屋と牛小屋を建てていたが
その小屋を解体するとき
解体費用いくばくかの代わりに
祖父が
ダンプカーで何杯か
その上質な砂を売ったため
砂丘の一部は
無残にえぐられてしまう。
強欲とたたり
それからというもの
わが家には不運がつづく。
こぶとりじいさんでも
花咲じいさんでも
強欲にかられた者の末後は
まるでテンプレートのようにいっしょである。
祖父は借金に追われ
家を出て行ってから
末期がんで亡くなる直前まで
家に帰ることはなかった。
砂丘を削った業者は
その後
どこかの組に入り
足ぬけの際に
近所の建築屋で鑿(のみ)を借り
そこで小指を詰めたが
のちに大雪の夜、
車で電柱に激突し
即死した。
神域を預かる
この砂丘の
ゆるやかな高台一帯は
低湿地がひろがる周囲の土地に対し
「おかがた」とよばれるぼど特異で
古くから霊場をなしていた。
いまも周辺には
鎌倉~室町期の
石仏が多くのこり
田んぼからは
鎌倉時代の瓶子のなかに
ぎっしり詰まった北宋の古銭が
出土している。
私はいま、
ここを自分の土地とは思っていない。
こういうと
土地の登記がどうのこうのと
心配してくれる人がいるが
土地は、私の名義になっている。
いいたいのは
私の直感というか(シックスセンスというか)、
この眉間に感じる
神から与えられた使命のことである。
私が感じるのは
ここを、土地の神様からお預かりしている
ということだ。
私は何も所有しないし
私の目的が私欲であってもならない。
小さな庭に埋まったゴミの
掘り起こしをすすめながら
並行して
私は砂丘一帯に捨てられたゴミを
拾い始めている。
霊場を清めてのち、
私の活動は
阿賀野川流域すべてに
広がってゆくだろう。
そして逆説的にいえば
私はこの神域を、
この河の流域すべてを
「所有」している。
なぜなら
その土地を清め、守り伝える者に
神は微笑むからだ。
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