原飛鳥
物置でみつけた戦没者名簿をたどると、村から出征したなかに、大叔父と同じく中国福建省沖の輸送船上で戦死した人が数人いた。ほかにも激戦で知られる硫黄島や、沖縄での決戦、8月15日の全面降伏のあと、シベリアの収容所で命尽きた人もある。これは、それら負け戦とわかっていながら、神という名のもとに、無駄に死んでいった人たちへの鎮魂の旅である。
その土地が持つ磁場というものがある。それは生物、森羅万象を惹きつけて止まない磁力。大地は隆起し、風が吹き抜け、河が滔々と流れる場所。古くから、王や神官と呼ばれる者が、その土地を護り清める役割を与えられてきた。これは一つの砂丘をめぐる物語である。
私の曾祖母は、つい近所の 藍染業をいとなむ家からヨメにきた。 実家は「紺屋(こんにゃ)どん」とよばれ、 「どん」と敬語が付くのは 金回りが良く 村内のヒエラルキーの上位にある家を指したから 曾祖母が嫁入り道具として持参したタンスは 桐材を使い立派なものだったという。 しかしその桐タンスは 敗戦後、満州から 命からがら逃げ帰った末娘をあわれがり 曽祖父がくれてやったため、 いまは家に残っていない。 なぜ開拓民となったのか その末娘、私の大叔母は 同
村の各所にのこる小屋は 牛を飼っていたころの名残で 母方の祖母の家では いまも家人に「牛小屋」と呼ばれている。 土間造りに石の基礎を置き、 柱を立てた簡素なもので 藁混じりの土壁が美しい。 人糞を肥(こえ)にしていた時代の名残で 便所がドッキングしており 路面沿いに建つそれは、 牛も肥もすぐさま田畑に運べるよう 作業の効率を第一に考えた造りである。 私の記憶に残る牛小屋は 祖母の家の母屋を建て替えた昭和50年代、 床を張って物置になっていた牛小屋を
小径を東から西へ 草を抜きながら進むと 引き抜く手応えで 敷地の土が 徐々に粘土質から やわらかい砂地に変わってゆくのがわかる。 この上質な砂地は 新潟砂丘と呼ばれる 地形の一画にあり やや黒褐色で 豊かに養分を含み いまも 新潟平野の沃土を成している。 河がもたらした恵みと この土地への畏敬を忘れて、 われわれは その生を営むことは出来ない。 小作のくらし 村で唯一の原姓をなのるわが家は もともと いまの中学校の近くの土地持ち、 原
新潟平野に点在する「潟」とは 河川が氾濫し、堰きとめられた 低湿地・湖沼であるとは 前節「潟のなりたち」で紹介した。 本節は 人々が掘削し、現在の姿になる前の 二つの大河、 信濃川と阿賀野川の流路と 潟に伝わる伝説から舞い降りた、 ひとつのイマジネーションである。 信濃川と阿賀野川 海岸付近の砂丘の堆積により 約1000年前、 阿賀野川は河口をふさがれ、 流れが西上し 信濃川と合流して 海にそそぐようになる。 二つの大河が半身を一つにし 海
世界各地に パワースポットと呼ばれる土地があります。 大宮盆栽村とよばれる 老舗盆栽園の集まる地域もその一つ。 界隈にはまだ 原生林をおもわせる大樹が残っており、 先人が、自然豊かなこの地に 居を構えた理由にうなづかれます しかし その土地を護り清める者がなくなれば やがて土地のパワーは衰え すたれていきます。 盆栽村の今昔に思いを馳せました。 風土 新潟から上越新幹線に乗り 雪国のトンネルを抜けると 忽然と、晴れわたる青空が広がります。 日
新潟の冬は 絶え間なく降り続く雨に なすすべもなく やがて雪へと変わる時間が ただひたすらに流れてゆきます。 庭を眺めていると 雨水が流れ、土地の低い場所に溜り ゆっくりと浸み込むさまが見られます。 砂地にしみ込んだ雨水は 時間をかけて地下水となり 近くを流れる河川の伏流水と ひとつになるのでしょう。 そう、ボンサイ・マムの庭は 河が長い年月をかけて形成した 新潟平野の一帯にあるのです。 潟とは? 新潟平野には 潟とよばれる湿地帯が点在し