牛小屋のこと
村の各所にのこる小屋は
牛を飼っていたころの名残で
母方の祖母の家では
いまも家人に「牛小屋」と呼ばれている。
土間造りに石の基礎を置き、
柱を立てた簡素なもので
藁混じりの土壁が美しい。
人糞を肥(こえ)にしていた時代の名残で
便所がドッキングしており
路面沿いに建つそれは、
牛も肥もすぐさま田畑に運べるよう
作業の効率を第一に考えた造りである。
私の記憶に残る牛小屋は
祖母の家の母屋を建て替えた昭和50年代、
床を張って物置になっていた牛小屋を
仮の住居にして寝起きしたことだ。
祖母は簡易な流し場で
お雑炊(おぞせ)などを作り
私に食べさせた。
夜はせまい場所に布団を並べ
吹き抜けの高い天井をながめて眠り
なんだか秘密基地のようで
うれしかった思い出がある。
昭和をもう少しさかのぼって
牛と人との暮らしを見てみよう。
農耕と牛
農耕機械のなかった時代
田畑は牛で耕された。
しかし
貧しければ
牛を飼うこともできない。
人の手で行う田(たぁ)ぶちは
大の男で
夜明けまえから
日暮れ過ぎまでかけて
三本鍬(さんぼんがぁ)で
やっと1反(10㌃)が精一杯というほど
重労働であった。
とすれば
仕事を共にする牛は
貴重な労働力であったのである。
牛と子供たち
牛を飼えば
それに伴う世話が必要だ。
牛を河川敷に連れていき
草を食ませるのは
小学校高学年くらいの子どもの仕事で
遊びに夢中になれば
当然ほったらかしだ。
つながれた場所から逃げ出した牛に
貴重な稲穂を食べられて、
大人から大目玉を食らうなどは
日常茶飯事で
何事もおおらかな時代であった。
「爪切り場」と「倶楽部」
昭和30年代まで
村には牛の爪切り場という
公共の場があり
決まった日に街から
家畜の専門家が呼ばれたものだろうか、
牛を連れて行き、のびた爪を切った。
板敷の小屋で順番をまつ間
近所の人たちは
茶飲み話に花を咲かせた。
それより古く
昭和15年から戦後まもなくまでは
この場所は倶楽部とも呼ばれ、
保育所の役割も果たしていたらしい。
手前をながれる用水路は
まだコンクリート護岸がなく
川幅がいまの倍ほどあり
こどもたちは泳いだり
藻をとったりして遊んだ。
これは
老朽化で倶楽部の屋根が落ち、
保育所が近くの尼寺に移るまで続いた。
消えた記憶
牛特有の嚥下作用は、げっぷを伴い
げっぷで出し切れない気体は
牛の胃にたまり
腹を膨らませて苦しんだ。
獣医などよぶ現金のない農民のこと、
とうぜん
民間療法で荒療治が行われた。
竹竿を鋭利にとがらせ、
牛の腹に突き立てて
ガスを抜くのである。
大人たちが集まり騒ぐ中で
まだ幼かった母の記憶は
そこで飛んでいる。
かわいがっていた牛が苦しむさまは
年月が母の記憶から消し去ったのであろう。
いずれにせよ、
そのような荒療治では
おそらく傷口から
感染症などをおこし
牛は助からなかったことだろう。
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