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町家大工の「決まりごと」と「隠し技」「町家は固めたらあかん」伝統建築の本質と背景を探る

最初に…

今回は、町家大工が伝えたい「決まりごと」や「隠し技」を紹介するにあたり、伝統建築の魅力とその背後に隠された知恵や技術の素晴らしさを少しでも感じていただけたなら、これほど嬉しいことはありません。
木造の文化は日本人の長年の感性と経験で育てられてきたものです。

私は、古くから受け継がれてきた建築技術や文化財の保護に関わる中で、現代に伝えたいことがいくつもあると感じてきました。私たちの先人たちが、試行錯誤を重ねながら築いてきた建物や構法には、単なる技術以上の精神や思いが込められています。それは決して過去の遺物ではなく、未来を創るためのヒントや礎になるものだと思います。伝統建築の耐震改修の観点からも考慮すべき内容であるため、取り上げました。


1:大工が見守ってきた町家

■京都の町家が守られてきたのは、「出入りの大工」がちゃんと決まっていて、1年を通してメンテナンスがされていたからやと思います。

■昔から「年数が経っただけもつ」といわれています。五年経った職人やったら五年しかもたへん。十年経った者やったら十年持つ。それくらい職人の腕が上がってくるということです。削り方にしても手間をかけて綺麗に削るもんですから持ちが良い。鉋(かんな)をきれいにかけた場合、水を垂らしますと水が「玉のまま」でいます。

■私はよく「Tの字形」って言うんですけど、広く浅く、いろんなことがわかって、自分の仕事だけは深く、最後まで研究できるような人をつくらんとだめやからね。

2:大工の決まりごと

■「間崩れ」

京町家は、畳の大きさを基準としているので、柱の間隔は均一ではありません。柱の間隔が均等ではない状態を「間崩れ」といいます。

■「石を据えるときは」

既存の地盤の上に小石を敷き詰めて、上から突き固めるんです。そこにパサ漆喰を置いて、その上に石を据える。ぐらぐらするんやったら[銭カイ石]で調整します。石屋がはつったときに出る石。ちょうど三角の、くさび状の石が出るんでそれを挟む。石は[石目]に合わせて割っているので強い。今の石は、斜めに目が走っている場合もあるので、「あんまり石の上で柱を叩くな」って言っています。

■「地耐力を判断」

私らは、1mくらいの9㎜鉄筋をハンマーで叩いて地面にどれくらいまで入るかを見て、地耐力を判断しています。

■「石場建て」

茶室などの柱と礎石のひかりこみのときに「髪の毛一本分ぐらいを透かせる」といいんです。しっかりと真ん中の芯のところで石にとんとつくのが一番いい。端だけでつくと、上から目方をかけて掛け矢(大きな木づち)でたたいたりすると、下がピッと割れて開くんです。
町家の場合は、ひかりこみはないんです。点でしかつかない。

石場建て:町家棟梁

■「墨付けと尺杖」

杖というのは、情報がきっちりはいっているんです。これが内法、これが軒高、二階の床レベルも、母屋も、棟も。これ一本あれば揃うわけ。杖をつくるときには、きちんと考えて頭をつかいますが、実際に墨を付けるときにはバカになって、尺杖通りにやりなさい。という意味で「バカ棒」と呼んだりもします。板図を書く場合もあります。看板板なんて呼んでいます。大きな板に必要情報を描き込んだものです。昔は建具も、ガラス戸か障子かなど。

■「刻み」

最近の仕事でも、上下込み栓打ちで、継手は全部、追っ掛け大栓という昔のやり方で、金輪継ぎで継いだりしていますが、そういうのはプレカット出来ず、手でやっています。

電動工具も使います。昔は、腕の疲れる順番に「一(きり)、二(のこ)、三(かんな)、四(のみ)、五(ちょうな)」といっていました。その順に電動工具が入ってきたんやね。体が楽になったかわりに、道具がたくさんいるようになった。

■「弁柄塗り」

事前のこしらえのときに塗ります。昔は、化粧で木地の場合は、砥の粉(砥石の粉末)を塗りましたね。それは、汗や手垢がつかへんからね。

■「継ぎ手、仕口」

最終的にはやっぱ手やね。機械だけでは、きれいにあがらない。プレカットでは15cmくらいまでは長枘(ほぞ)できるんです。でも20cmとなるとつくれない。登り梁の継手も大工が手刻みでつくる。町屋で使う継手・仕口の種類は少ない。蟻、鎌、金輪継ぎ、追っ掛け大栓、台持ち、それくらい。

継手・仕口の種類:町家棟梁

普通、間口が5Mくらい。4Mの木を使えば継手は1カ所。もし、継手をつくらなければ、もし近所に火事がいっても、打ち壊しをやって、また使える。

■「込栓の決まりごと」

柱・梁・框などの込栓は、見える方から打つのが基本。メンテナンスのためにも、そのほうがいいんです。見える方に打って、7㎜くらい残して、大面を取ります。それが込栓の基本的な打ち方。打つ位置にも決まりがあります。込栓は、枘の長さの半分の内側に入れるんです。30㎜のところに込栓があったら、枘の長さは、そこからあと30㎜あるとすぐにわかりました。こういう決まりをみなが守っていました。

込栓は、枘の長さの半分の内側に入れる:町家棟梁

■「ひかりこみ」

丸太と丸太をつなぐような仕口をつくって合わせる場合、穴と枘をつけるんです。隙間をつくらずに、形に合わせて加工することを、京都では「ひかりこみ(ひかりつけ)」といいます。一日に三カ所できれば一人前。

■「地足場組み」

イカダ足場は、丸太を立てて、二本の丸太を渡す簡単な方法。本足場は、二本の丸太の間に細かい丸太を入れて、足場板を載せる。括る(くくる)ときは藁縄(わらなわ)を使っていました。ねじって入れ込むだけなんやけど、上手な人がやると三ヶ月経っても全然緩まない。杉皮の大和葺きの上の竹をおさえるときに、最後に男結びで飾り結びをする。

■「柱立て」

大黒柱などの力を受ける柱は、大黒柱を据えてからは、石の上では叩かないように言っています。石が割れる。横で組んでおいて、石の上にあげる。京都はまだ花崗岩ですけど、大阪の場合は凝灰岩なんでもろい。棟上げに大黒柱の下の石が割れていたら縁起が悪い。

「塗り起こし」といいまして、壁の裏返し塗りをしたいところは、側壁を手前で組んで、竹で編んで、外側の土をつけてから載せる。あんまり石の上で叩かない。石の加工がたいへんでしたから、丁寧に扱っていました。

■「根継ぎと揚げ前」

「根継ぎ」をする場合は、4,5㎝の場合は鉄板を噛まします。厚みが3㎜から10㎜くらいで、120角の鉄板を二枚なら二枚、調整しながら入れます。挟み込むだけで固定はしません。若干隙間がある場合は、酸化して錆が発生し、さらに上から荷がかかり、上手く詰まってくれる。いいお家の場合、銅板を差して白蟻が上がってこないようにすることもあります。

10㎝くらいなら石を噛まします。30㎝以上になってはじめて「根継ぎ」をする。短い柱で継ぐと短柱破壊みたいに弱りますから、低いところで根継ぎはしない。柱の継手としては目地継ぎだけでも十分。金輪で柱を継ぐのは、石の天端から30㎝以上のところで継ぐ場合ですね。

柱が下がっている場合は、建物全体が水平になるように、柱を揚げて調整します。これを「揚げ前」と呼びます。その柱だけを一遍に揚げようとすると壁が落ちてしまうんで、廻りの壁によく水を含ませて、二、三日かけてゆっくり揚げます。初日は3㎝揚げ、次の日は6㎝とか。

■「構造・ササラ桁、二階床組み」

ササラ桁の仕口で、京町家の蟻首の長さは15㎜なので、短い。材が細いからかもしれません。蟻首に隙間ができている場合は、上部から篠差しでとめます。
「蟻落とし」というのは、ほぞを『あり』にして、2材をつなぐ。蟻掛けともいう。  ふつうのほぞのように突っ込んで差し込めない。ほぞを上から落としこむようにして接合します。そのため『落し』といいます。落し込んだ蟻が抜けないようにするために篠を仕口の際に差し込みます。

「ヒトミ梁」で角柱との仕口は、「小根枘付きの長枘差しに込栓」が基本。込栓の材を太くすることはありますが、何本も打ちません。一本だけです。遊び込栓を何本も打つと、どっちかが傷んでいますね。車知栓は町屋ではあまり使いません。
※「ヒトミ梁」とは、表の道路に面した部分の1階に入るの胴差で、蔀戸(しとみど)が、入っていたことから それが、人見(ひとみ)と変化したと考えられている。
※「枘(ホゾ)」とは、部材や位置、力の掛り具合によって使い分けられる木工品で、差物を柱に差す場合などに長枘として使用されます。
※「小根枘」は、柱と土台を組み合わせる際に使用されます。
※「込栓」は、柱と土台、または柱と桁などの仕口を固定するために、2つの材を貫いて横から打ち込む堅木材です。
※「長ほぞ差し込み栓打ち」では、桁や柱のほぞを長ほぞにして、柱が土台や桁から外れにくくします。これにより、地震の際も柱が抜けて家が倒壊するリスクを減らすことができます。

「長ほぞ差し込み栓打ち」建築を巡る話:故下山眞司

枘の長さは、だいたい柱寸法の九割で、枘穴は柱を貫通させます。穴から枘が見えます。枘がポコッと膨らんでいたら、込栓のところで割れているなとわかります。込栓の素材は梁と共材にするのではなく、堅いほうがいい。剪断力に強い「カシ」とか「サクラ」とかを使います。込栓は丸はだめ。四角の場合は、込栓が先に折れても、枘は折れない。丸だと、込栓より先に枘がおれてしまいます。

込栓:町家棟梁

■「構造・梁、桁」

京都の場合、「登り梁の台持ち継ぎのダボの長さ」が短いんです。書院造のダボは6㎝くらいあるんですめ。そやけど、京都の場合は3㎝か3.5㎝ぐらいしかないんです。地震のときは10㎝以上は上がりますからダボでは安心できません。上と下を一体化させるために、長いボルト金物をつけて、登り梁と桁を止める。登り梁は一体で動く方が良い。

登り梁は一体で動く方が良い:町家棟梁
長いボルト金物をつけて、登り梁と桁を止める。:町家棟梁

■「構造・母屋、棟木、側繋ぎ」

側繋ぎの高さは、胴差しより3尺ほど高くします。組みやすく、仕口も重複せず、断面欠損が小さくてすむ。

側繋ぎ:京都家作事組
側繋ぎ:町家棟梁

改修の際は、歪んだ建物をロープなどで引張り、元の状態に戻す「イガミ突き」をします。「イガミ突き」をして、仮筋違いを打って、ひと梅雨越せば、めり込んでいた枘が戻ります。そうすれば、仮筋違いを外しても大丈夫。枘の痩せたところもひと梅雨越すと膨れるんです。木材は復元力があるんです。年数がそこそこ経っている木であれば、湿気を吸えば元に戻ります。だから木を大切にしてあげないと。

京町屋の架構(網部分は「蓮台」という構造の要):町家棟梁

■「屋根下地の技」

今は、屋根の「野地板」は詰めて貼りますが、昔はどんないいお家でも「二五貫」でやりますた。屋根用に2寸五分の貫があるんです。約7.9㎝の小幅板です。それを1本おきに同じ分だけあけて木返し(見付けと空きが同じ間隔)にうちます。

「垂木の鼻」は、垂木に対し矩(かね:直角)に」切ります。縦水(地面に垂直)にすると、傷みやすい。垂木の鼻先は、広小舞より、15㎜出して、瓦座は広小舞より12㎜控えて取り付けます。

「上り桟(登り淀)」は破風板より12㎜出して打ち付けます。今は、瓦が破風から40㎜も出ていますが、水切りがいいからでしょうね。昔は20㎜くらいしか出ていませんでした。

「破風板」は、軒先が120㎜以上で上部は2メートル当たり30㎜増します。京都の町屋の破風はものすごく狭かった。ひどいとこやったら90㎜ほどしかないもんね。

「ベタ野地化粧の場合」は、「そげ羽」に削って。水下から張り上げます。最近は、相決り(しゃくり)を使います。決りが逆さまな場合はそこで雨漏り。
「瓦水切」は、できるだけ「木熨斗」(きのし)を使い、上部にGL(ガルバ二ウム)鋼板を張りますが、柱や束などど水切り欠きをして、コーキングを先に打ってから取りつけてほしい。柱に水割れが入った場合に水が入らないように。
GL鋼板は少し返しをつけて、そこに上から漆喰が被さるんです。古くなると、漆喰と鋼板の間に隙間が空きます。

「瓦水切」:町家棟梁

■「杉皮葺の屋根」

今、「檜皮」(ひわだ)や「杮」(こけら)を葺こうとすると、坪12,13万かかります。杉皮やったら3万。「ヘギ」を揃えるのが大変なんです。茶室をやるときに「ヘギ」を使うんですが「サワラヘギ」が平米1万4千円くらいします。(2011年現在)

耐久的には「杉皮」が一番持ちます。(50年位)上の押さえの竹は変えなければいけませんが、杉皮の塀がありますよね。あれは、竹は変えても、杉皮は50年経っても補修でいけますからね。田舎の家なんかで、「瓦の下は杉皮にして」とおっしゃるところもあります。杉皮が一番強いし、杉皮が凹凸しているので、土との付きがいいんですね。屋根の下でも、杉皮で瓦の下をやる場合は二枚程度しか重ねません。雨が降ったら湿気で膨れピタッとくっついて漏れない。

京都の場合、北山の丸太の杉皮が厚みが薄くて節がなくて「大和葺き」にはすごくなじみがいいんです。大和葺きの屋根は、杉皮を下向きが2枚で、上が3枚くらい、中に野地板を入れます。そしたら雨は漏らない。杉皮って見た目はゴツゴツしていますが、良い材料です。
押さえの竹、特に塀の杉皮の押さえは女竹(忍竹)です。少しやわらかいのであまりもちませんけど、竹だけ取り替えたらいつまでももつ。
ただ、捨て張り(詰め張りにした杉皮の下地)をしておかないと、中から風が入って杉皮が暴れる。もともと丸い形やったから元に戻りたがる。だから下には板を張らないといけない。板は腐っても、杉皮は大丈夫。

■「バッタリ床几」

バッタリ床几(しょうぎ)は、ミセ床几とも言いますが、もともとは、「小売りをしますよ」という印です。表に蔵があるところなら、卸も小売りもしますという意味で、バッタリ床几の上に商品を並べてお客様に見せるんです。お商売をされていない卸屋さんのところについている場合は、夜遅く、お客さんが帰るときの行燈(あんどん)置場なんです。

バッタリ床几:AI概要

■「小屋組の貫と束」

貫に「クサビ」を打つときに、通常は貫の上に打ちますが、登り梁のすぐ上の貫に打つクサビは貫の下に打つんです。登り梁のすぐ上の貫は、「渡り欠き」をしません。貫を固めてしまうと、登り梁が動いたときに、登り梁と貫の間が短いので、貫が膨れたりしてよくない。登り梁のすぐ上の貫は、動いてもいいような工法で留まっている。他の貫は渡り欠きをして、動かないように留めてあります。動いてもいいようにしてある貫は、クサビを下に打っておくと、これは動いてもいいやなってわかるわけ。
渡り欠きは上にするか、下にするか統一するので、渡り欠きを下にする場合、貫の下にクサビがあったら、そこは渡り欠きをしてないよという目印になります。我々の常識なんです。
束も動いてもいいように、少し大きめに掘ってあります。

クサビは目印:町家棟梁

■「壁下地編み」

壁下地は「竹小舞」が基本です。京都では割竹を使います。新しく壁をつくる場合、工期が短いときは、そこ壁の下地は「ラス貫」を4㎜空きに打ちます。
雨のかからない外壁や内壁の下地は、「木摺」「ラス貫」の半割を、同じく4㎜前後空けて打ちます。貫なんで、二本ずつ釘が打ってあっても動きます。

壁下地の「貫」は、木裏を外側にします。端が跳ねると壁が割れるんです。セメントは固まってしまうんで、気になりませんが、「漆喰」は水分を吸い込むので、必ず木裏を表側にします。壁が乾いてくる段階で、細い亀裂が入ります。

壁下地の「貫」は、木裏を表側にします。:町屋棟梁

今は「木摺」の値段が高い。昔は手で製材し、端の細いところが残り、木摺りにしましたが、今は端材がない。買い手も少ない。

■「杉の焼板」

雨が降れば「焼杉」は濡れて、焼いているところに水分がいつまでも残り乾燥しにくいので腐りにくいと言われている。今の町屋に使う焼板は、きれいな、炭のついていない焼板ですが、炭がついているほうが良い。庭の丸太は全部焼く。昔からそういうふうに確率されてきた。

消防署が「焼板は1㎜で1分もちます」と言います。焼板12㎜を張っていたら、内側まで火がいくのに12分かかるので、12分もちます。それまでに消防がきますので、鉄板にしないで「焼板」にしてください。と言います。鉄板は、表面が600度になったら、即、内側も600度になる。

杉板は焼いてあるので、雨が当たったときに湿気を吸収し、「好気性細菌」が居座るので、乾燥するときにできる「嫌気性細菌」が発生しにくくなる。湿気のあるときのバクテリアと乾燥するときのバクテリアがせめぎ合いをすると木が腐っていく。例えば、水面にある杭は、波打ち際のところが早く腐る。水中は腐らない。片方の菌しかいない場合は大丈夫。湿気の虫と乾燥の虫が喧嘩しないようにする。

嫌気性生物 (けんきせいせいぶつ)は増殖に 酸素 を必要としない生物である。 多くは 細菌 であるが、 古細菌 や 真核 微生物 の中にも存在する。 これらは主に、酸素存在下で酸素を利用できる 通性嫌気性生物 と、大気レベルの濃度の酸素に暴露することで死滅する 偏性嫌気性生物 に分けられる。

■「壁を田楽に塗る」

大きい土壁の場合、縄の編み方がしっかりしていないと、壁の重量で壁が湾曲する。それを見るには、荒壁が乾いた時点で、壁を軽く押してふわ付くかどうか見る。
特に、壁を「田楽」といって両面から塗る場合、重量が重くなる。竹や下地縄に水がまわって、緩んで下がる。この場合、下穴を掘る。竪貫の下に隙間を空けて、さらに穴を掘っておく。下がることを前提にする。これがつかえると湾曲しふあふあになる。ふあつく場合は、下地竹(間渡竹)や堅貫の足元を少し切り上げます。下を切って隙間をつける。すると、上と両横の3方でもつ。4方で受けてしまうのは基本的には間違い。
できるだけ、田楽に塗らず、片面ずつ塗る。乾いてからもう片面塗った方が早く乾く。

■「1階床組」

「畳敷き」の場合、畳下の大引きは900ピッチ以内で、根太は400~420ピッチで組む。床下地は、板厚15㎜の「杉板」を使うのが標準。「杉」は松よりやわらかいし暴れない。畳の下は、杉が一番いい。

「堂宮の屋根下地」「杉」を使う。垂木は檜でも、野地は杉です。杉のほうがもちがいいし馴染みやすい。

「フローリング床」の大引きは850ピッチにします。根太(45角)のピッチは、杉の床板の厚みが15㎜以下の場合は、捨て張り付きで300ピッチ。捨て張り無しは、200ピッチ。杉の板厚が18~20㎜の場合は、捨て張り付きで450ピッチ。捨て張り無しは、300ピッチにします。

「杉の床板」は、本実の出っ張り部分が傷む。すると外れる。昔は、足触りが良いから38㎜くらいの杉板を使っていた。今は、少なくなって15㎜とか18㎜なので根太を細かく入れます。

「根太架け」には、柱に渡り欠きをつけて大釘打ちにするか、根太架けにも薄いものでもいいので、「束」を入れます。(根太架けが一番傷む。)大引きには束があります。柱もちょっと欠いて相渡りやったらいいが、面倒なのでやらないでしょ。大釘はあんまりもたない。杉板の場合は、どうしても動くので、束をいれておきます。

床材はできるかぎり再利用します。例えば3室あって、3室とも同じ床材であれば、1室でも、再利用できる床材を集約して新旧材を使い分けます。

■「廻り縁は馬乗りに」

「廻り縁」は木裏使いでも良い。木目は、廻り縁はソバ柾(側面が柾)で、竿縁は下端を柾にします。猿頬(さるぼう)天井の場合は、下端が小さいのでソバ柾にすることはあります。

「廻り縁の仕口」は、長手を延ばし、「留め」にしないのが基本です。「馬乗り」にします。「馬追い」ともいいます。柱の出入りが揃っていないことが多いので、真ん中のところに、きっちり留めがいかない場合があるため。丸太柱のときも留めにしません。京都の町屋の場合は、昔はまったく留めにしない。怒られた。今では、機械で45度に切って留めのほうが簡単。小さい便所や洗面の場合はよいが、部屋の場合は、長手を延ばして「馬乗り」にする

「天井板をむくらすと」、天井板に廻り縁がついていくので、少し上がる。「留め」の場合は、廻り縁の下端で口が開いてしまう。「馬乗り」にしておけば、角がうまく固定されているので、天井板を張ったときに口が開かない。

廻り縁の納まり。馬乗りにする。:町屋棟梁

■「天井の吊木」

「天井のムクリ」は、部屋の短手長さに「千分の四」を乗じただけ、少し中央を上げて吊るのが基本。天井の巾木は小根太に留めず、大梁または吊木受けに留めます。吊木受けを別につける。天井の吊木が二階の床の近いところにあると、上を歩いたときに天井が動き、埃が落ちてくる。

吊木は小根太に留めない。:町家棟梁

■「天井板を張る」

町家を直すとき、天井板は今でも「無垢の板」を使います。無垢の板には、尺一(33㎝)と尺三(39㎝)という幅がありますが、できるだけ、見えるところは広く見せるのが基本。四畳半以下では、ひと目で全部が見えるので総割で張りますが、大きい部屋の場合は、できるだけ広く板を使います。隣の部屋との境から、二、三枚で最後を割り付けます。できるだけ最初は広く使う。あえて等間隔にすることもないわけです。

「天井板」は、光が入ってくる方から張っていきます。軒先は、天井裏の隙間が狭いので、最後は天井裏の広い方で逃げなさいということ。

「大和天井」は、敷目板を入れるのが理想ですが、そうでない場合は、上から前面に厚さ2.5㎜の合板で押さえます。隙間から埃が落ちやすいので。古い場合は敷目をつけるのも大変ですから、合板を張ります。合釘は長く太くします。細いと板が擦れて鳴ります。

■「床挿し」

天井の張り方によって竿の向きが決まり、その竿が床の間と直行することを「床挿し」といいます。「床挿しを嫌う」と言いますが、比較的新しい考え方で、江戸から後でしょう。昔はあまりき気にしていなかったようで、古い書院造りなどでは、普通にあります。今は、あえてはやりません。

■「見た目の美しさ」

竿の方向で重要なことは、部屋が奥に続いていれば、竿は通して張ると言うことです。続き部屋の床や天井は、できるだけ同じ板で張ります。あえて違う板を張る場合には、張り方を変えています。目がずっと通っていくのが基本になる。「目通り」と言いますが、決まり事のひとつです。連続性は建築の基本だと思います。

「杉皮張り」は奥から張るようにします。杉皮は陽が当たるとちょっと膨れます。膨れたときに手前から張ると端が全部みえる。ちょっと膨れただけでも隙間が空いて、ものすごく目立つ。奥から張ると少し暴れてもほとんどみえない。「波板」でも、「焼板」でも、外部を張るときには、必ず奥から、いわゆる目が掛かってもわからないように張ります。

1m20㎝~1m40㎝ぐらいの間が、人間の目の高さになります。細心の注意を払って、糸を張って釘を打ちます。

■「框(かまち)、まぐさ」

框やまぐさは、できるだけ長枘込栓打ちにします。できない場合は、羽子板ボルトなどで緊結します。あるいは、一方が枘差しで、もう一方を堅木大入れにして金物で緊結するという方法でも良い。
もともとは、入り口のまぐさとか框は建てる前に組んでいました。それらは、全部込栓打ちでした。京都の町屋は、間口方向に弱いので、動いてもどっかで拘束できるところをつくっておきたいのです。

■「式台」

幅の狭い式台」(玄関の板敷き部分)で板が厚い場合は、木裏使いにして、木の反りが起きないようにします。厚くて幅の狭い板は、木表使いにすると、どうしても反る。床下に湿気がまわるので、木表に使うと端が跳ねてくる。厚い板は一遍反ったら直らない。

「厚くて幅の狭い式台」は「木裏」つかいに:町家棟梁

■「飾りはつりは末口から」

丸太・角材の「名栗(なぐり)」はつりは、「末口」からはつります。丸太などに、「釿(ちょうな)」ではつった「飾りはつり」をしますが、基本は末側、細いほうからはつります。

壁留めなどは、基本的には左が末口です。また、床柱などの丸太の足元のはつりは、「たけのこ付け」といいます。丸太がちょっと反ったり、丸太の足元が畳みにかかる場合にやります。部屋の幅の十分の一が高さの基本です。今の時代、集成材は、はつれませんけど。

「たけのこ付け」:町屋棟梁

■「ツノカツギ」

「ツノカツギ」とは、「角柄」(つのがら)のことです。窓枠や、出入り口枠の小口の処理の仕方で、鴨居のほうを方立よりも少し延ばします。その延ばした部分を角といいます。
ツノカツギの切り方は、水仕舞の関係から横に延ばし、曲尺の裏目一本分(方立の見付けの約1.4倍分)を出して納めます

しかし、今時の仕事では、全部タツ(鴨居の高さより方立を縦に延ばす)に上がっています。本来タツを上げる場合は上まで通します。これは、プレハブメーカーが考えたもの。方立にケーシングのビニールで木目のついたものを貼っているために、小口から中の圧縮されたパーティクルボードが見えてしまう。だから全部タツに上げる。

書院造りの潜り戸だとかは、小口は斜めに切る。町屋や茶室の場合は、真っ直ぐに切る。

「ツノカツギ」鴨居のほうを方立よりも少し延ばします。:町屋棟梁

■「雨戸のカケザヤ」

「雨戸のカケザヤ」は、敷居から15㎜ほど上がったところにつけます。留めようがないので、正面から穴を掘って、釘でしっかり留めて埋めます。これを「タル埋め仕上げ」といいます。縁側の鴨居はそんなに大きなものではないし、おまけに杉ですから、ええ加減な留め方では留まらない。危険なので絶対に取れないようにしようと、方立の場合も柱のところにカケザヤがきますが、表から留めて埋木をします。雨戸はけっこうスパンが長いのです。
京都はガラス雨戸はけっこうあります。タル埋めは角の場合も丸の場合も有ります。樽の口の栓に似ています。

「雨戸のカケザヤ」:町屋棟梁

■「敷居と鴨居」

仕事を完成させて終えるときに「敷居を踏むんで終わる」といいます。「敷居踏んだ」って言ったら「あっこの現場終わったんやなあ」ってなります。敷居で仕事が終わってしまうので、あとは水屋や家具に入ります。

敷居と鴨居の溝は並行で、上下の位置も合っていなければなりません。目違いが無いようにすることを「カセを見る」といいます。
敷居は柱と同寸なので、柱の面で納めます。鴨居を柱の芯で納めてしまうと、目違いができやすい。建具がうまくはまらない。敷居は柱の面に合わせるので、あまり調整ができません。鴨居を敷居に合わせるのですが、鴨居を先に入れるから難しい。敷居のカセを考えて、鴨居の位置をきめないといけません。鴨居は3,4㎜くらいは動かすことができるので加減を調整しカセを無くします。

柱に暴れがあるからカセができます。柱が真っ直ぐ立っていればいいのですが、一分(3㎜)くらいのずれがありますから、鴨居で調整します。だから、鴨居は柱よりも少し狭いのです。

敷居の取り替えは松材を使用し、檜などの場合は、堅木で敷埋めをします。敷埋めに使うのは、チーク、サクラ、最近は竹もあります。溝が1.5㎜くらいのものです。敷居の溝に埋めます。鴨居が檜だったら敷居も檜にすることもありますが、基本的には檜の敷居は使わない方がいい。京町屋の場合は、鴨居が檜でも、敷居は松を使います。松は一番粘りがあって、摩擦に強い。檜の場合は、ナツメって言われている部分が建具で削れるのです。めくれていきます。檜の敷居は、五年もたたない間に敷居がモゲモゲになります。松はそんなことないです。ベイマツも。

鴨居の取り替えのとき、上部の小壁をできるだけ残します。京町家では、小壁が地震のときに結構抵抗しているんです。新しい壁にするくらいなら、古い壁を塗り直してしっかりさせた方が遙かにいいので、上の土を取らないで鴨居を入れ替えます。鴨居を入れてから補修することはできます。

■「階段、手摺り、押入」

「段鼻」(踏板の先端部分)を1~2㎜反らして勾配をつけます。少し上げます。安心して降りられます。段鼻には「滑り止め」もつけます。京町屋作事組の仕事の場合は、だいたい溝を彫ります。

「蹴込板」の上部は、中央を少し上げます。足で踏んだとき、「蹴込板」と「踏板」が中央でしっかり当たるので音が鳴らない。真ん中で効かせるんです。

「手摺り」高さは、段鼻から750㎜を標準として、使う人の高さで調整します。長さは「踊場」に300㎜以上延ばします。

「押入」は、間口1mまでは框をつけないで、棚板のものほうがいい。棚板
だけにすれば、それを外すと大きい物でも入れられる。
間口が「台目」(だいめ)(4尺7寸2分5厘)以上の場合は「框」をつけ、中段の高さは900㎜を標準として、入れる者によって調整します。框の見付けは80㎜以上です。

「枕棚」の奥行は、押入の奥行の五分の二以内とします。深くしすぎると物がだせなくなります。

※ちなみに、京間の一間は6尺3寸ですが、その四分の三を「台目(だいめ)」、二分の一を「間(まなか)」、四分の一を「小間(こまなか))」といいます。

■「壁の中塗り、上塗り」

昔は冠婚葬祭のときに壁を全部塗り替えていました。そのときは、上塗りを落とします。水ズリって、水をつけて擦って、薄く中塗りをしてから上塗りをします。前の中塗りがあって、さらに新しい中塗り、上塗りとなって、それを繰り返すので、壁が厚くなります。壁チリが無くなる場合は、もう一つ前の中塗りを落としました。

「仕切り壁の下部」は、束石の天端までで止めて、土部分に付かないようにします。付けてしまうと、下から水分が上がってくるので、必ず束石までで止める。壁土は下に溜まりやすいので、下を切ってほしいんです。京町屋では、壁留めに木を渡すことはしません。足固めがあるところだったら、そこまでしか塗らないですが、押し入れの袖壁なんかで、たいがい竹は下までいっています。その場合でも、下だけはちょっと切り上げてほしい。荒壁のところでも述べたように、「壁は三方でもたせる」。早く壁が傷むので。

「京町家の外壁の漆喰仕上の色」は、黄大津か浅葱色(あさぎいろ)が基本です。白は蔵しか使いません。

■「建具の建て合わせ」

「敷居の溝の深さ」は、半紙二枚分程度が理想だといっていますが、実際は、五厘(約1.5㎜)ないぐらいです。端へいくと、建具の「ククミ下げ」(ふくみ下げ)と鴨居との隙間がほとんどないように建て合わせをします。真ん中では、その隙間が、半紙2枚分だけ開きます。この真ん中でしか建具を外したり嵌(は)めたりすることはできません。鴨居も一間あたり3㎜、二間状は6㎜まで、むくらせるので、真ん中は少し隙間ができます。

「建て合わせ」というのは、建具の上または下に薄いもんを付けてでも、がたつかないようにするのが本来の仕事です。ですから、この「ククミ下げ」の隙間が大きく開くのは嫌われます。

鴨居と建具:町屋と棟梁

「建具の引き手」は建て合わせをしてからつけます。建て合わせをすると、高さが若干変わるので、引き手の高さを揃えるために後からつけます。ですから、引き手をはめ込む溝は上下を3㎜ほど小さく掘ってあります。

「座って引く引き手」は横長の丸。「立って引く引き手」は縦長の丸にする。

京都の場合、引き手がないものも多い。ガラス窓でも無いことがあります。引き手が高価だったんですかね。黒檀とか、柿とか。あえてつけなかったのかもしれません。

引き手の無い建具はお客様は動かさないという決まりがある。

引き手は見た目もあまり良くないし最近は同じような色にして目立たないようにします。

引き手の決まりごと:町屋と棟梁

■「畳の敷き合わせ(シミズ)」

町家では、畳に合わせて家を建てるのが基本でした。どこの畳でもきちんと納まるようにしないといけない。歪みがでて、納まらなくなる。そのような隙間のある状態のことを「シミズがある」といいます。ずれてできる隙間のこと。1㎝や1.5㎝くらいのシミズの場合が多い。角の柱が大黒柱で、壁の納まりからして、その畳寄せが斜めになってしまうことがあります。その場合は、畳寄せを少しふかして(調整して)矩を取る。つまり九十度になるようにします。

昔は、借家の場合、畳は借り手持ちでしたから、借家を移るときは畳も一緒に持って移るんです。ですから、どの町家でも畳が納まるようにつくってありました。

■「町屋の庭」

昔は、表まで庭の排水はとらなかったので、「吸い込み」っていうもんが庭にありました。吸い込みは掃除をします。石揚げて、泥を出して、ヘドロが結構あるんで、石を洗ってまた入れる。

昔は、庭に花を咲かせるのは嫌がられたんです。京都の庭は、できるだけ緑で、咲いていても小さい花で、あんまり大きな花が仰々しく庭に咲くもん違うって言われて。京都は冬が寒いですから、春に花が咲くというのは、ものすごく気が休まるんですね。だから、春に咲く花をお勧めするんです。
夏の花は、やっぱり熱いし、清楚な花って少ないですし、秋は、京都はね、どこいっても紅葉が見られるから、家では静かにしてたらええような庭にします。春が一番。

「木は庇よりも上げるな」って言います。葉っぱが樋につまるし。

京都は、庶民の家でも小さいとこでもちょっとした緑が植えられる空間がある。畳一枚分の庭しかないところでも、ちゃんと後ろに杉皮でも、焼板でも張って、ちょっとした緑を体裁良く植えてあげるだけで、家が広く見えるんで、庭はお勧めです。庭がちょっとでもあると、心にゆとりができる。

3:大工の隠し技

■「杉普請」(すぎぶしん)

最近は、床材に杉材を使います。杉板は足触りが全く温かい。ただ、やわらかいから傷が付きやすい。ですから、柿渋でも二、三回塗れば、汚れも目立たなくなりますし、耐久性も増します。

構造材にも使っています。京町家作事組で、三条の釜座の町家を直しましたが、二階の梁は全部杉です。松は高かったんでしょう。借家に近い建物は全部杉。

京都の場合は、杉が安かったから、杉が多い。側柱、足元まわりも杉が多い。大正の終わり頃から外材が入ってきたので、松を使っていますが、それ以前の建物は、普通のお家でも、杉が多いです。そのかわり、部材がひとまわり大きいです。

京都は基本的に杉普請といえます。大黒柱にもケヤキは使いません。大店でも檜です。大店では、柱は檜ですが、構造材の横架材は松です。
木の成長が全然違う。杉は30年経てば使えるけど、松は、50年以上経たないと使い物になりませんね

■「京都は北山杉」

九州の杉などは成長早く、30年くらいで大きくなります。そのくせ、霧島や薩摩などの杉で400年~500年経っているのもあるのですが、ある程度おおきくなるとそこで成長が止まる。中が細かくなってくるから。

京都の北山杉の場合は、岩盤の上に立ってるので成長が遅い。4寸の丸柱になるのに40年はかかる。1寸10年という。大きくならないぶん、つやがある。年数が経っても、あまり焼けない。それと、寒くて成長が悪いので、枝打ちをして、また枝が生長する前に、傷を修正するかめに皮を被せるのです。だから節が少ないという利点はあります。

吉野の場合は、成長が早いから、枝打ちのあと、皮を巻く(節を被せる)までに大きくなってしまって、節のところだけポコっと膨れたりします。

京都の南のほうの山城も木の産地です。ただ京都では売れないので、杉などのいいものは、広島に運んで製材し「広島の杉の板」として、こっちに戻ってくる。岡山、広島は杉の板のいいのがでます。昔から高いんです。そうやってやっと買い手がつく。

■「広葉樹」

トガ(ツガ)、ケヤキ等もありますが、大店以外には、あんまり使わない。昔からトガというのは、書院造なんかに使う材で、一般の庶民には手がでない。ベイトガが一般になってから、少し色が黒いですから、もう使わない。

■「材料の仕入れ」

材料に入荷した日付の紙を貼り、古い順に使う。木は乾燥してないと使えない。含水率が18~20%くらいで使えるようになる。理想は17%だが難しい。最近は、KD材という人工乾燥材はありますが、それでも25%ぐらいです。

天井板も古いのから順に使うと、天井を張ったときに「笑わない」(隙間が開かない)。最近は、天井でも薄く色付けるでしょ。そうしたら3ヶ月ぐらいしたら、白いところがスーッと出たりする。それが嫌いなんです。薄いので乾いているはずなのですが、束にしてしまうと水を吸い込んで、まだ戻ってしまう。

■「木の値段・等級」

木の値段は、「石」(こく)なんぼで言いました。石は1尺角の3メートルです。

普通の借家で、2.5石/坪くらい。大店の場合で3石/坪。今で言うと0.8㎥/坪ぐらい。今は普通の家で1.5㎥/坪ぐらい。
土台も無いし、ラス地も無く外部も壁貫と下地を編んで、焼き板張りますから、けっこう減ります。それくらい材料は少ないということ。

「銘木」は、今でも石(こく)で計算してます。立米6万5千円とか7万円の単価で請求が来ます。

檜の柱を50本とかまとめて注文すると、矩折(かねおれ)(隣り合う二面)のきれいなやつとか、12本ぐらいは「ヤクモン」って言って、矩折無地とか一方無地とかが混じっている。

役所の仕様書だと、無節の材を指定しているところもありますが、材の性能は変わらないと思います。見た目の問題でしょう。宮内庁の場合は、ちょっと壁を直すのも、赤身の上小節、又は小節以上が求められます。上小節なら、きれいな無地のものに近いですし。

いろんな等級があって、「二等」があって、「一等」があって、一等の少しも丸みがないのが「金角」「一等」は、上のほうに少し丸みがあったんです。「二等」は、ツラがあって丸みがある。上と下の大きさも違う。そういう材がけっこうありましたが、今は無いですね。きちんとした寸法になっている。

最近は、セメント下地の「ラス下地」なんかでも、モルダー(プレーナー)がかかってるほど。土の中に埋まるようなものにまで。昔だったら粗木。

■「寸法」

「五分板」というと厚みは四分しかなかった。「正五分」(しょうごぶ)といわないと五分なかった。「正」がつかないととの寸歩がなかった。
胴縁で36㎜×20㎜が「ホンムツ」、外壁の壁の薄い貫は「中板四分」って言いますが、幅が三寸五分しかない。学校では「㎝」で覚え、社会にでたら「寸」。五分あると思ったら四分しかない。すごく混乱する。

柱の材をいくつに割るかというので、六つ割りとか、八つ割りとか、製材の引きしろが、一分二、三厘ありますので、実寸が減って違ってくる違う。

今ではセンチでやっています。着物はくじら尺、私らは曲尺(かねじゃく)、機械屋はインチ、アメリカからの輸入材はフィート。

明治初め、京都の町家は、天井の高さが7尺(2220㎜)しかなかった。
一番前の、通し柱の高さで「丈四」(じょうし)って言って1丈四尺です。1丈(10尺)ですから「丈四」は4200㎜。ほとんど、芯々で三メートルありますし、二間ですと3930㎜という長さです。「丈四」の材料は4200㎜あり丁度良い長さ。定尺は4200㎜。

借家の表の高さは4200㎜しかない。1階の天井高が2120㎜で、厨子二階は頭を下げても頭を打つ高さ。最小限度の材料で、最大の建物をつくるという気持ちが大きかった。

■「国内産、外国産」

昔は、ベイトガ、ベイマツなどの輸入材は、太平洋をイカダ」で運んできました。何ヶ月も海の中を通ってきてるから、悪い油が抜けて、乾燥状態もよくて、すごく堅かった。「目細のベイマツ」と呼んで、目が細かくて凄く強い。2割ほど高いが全く強度が違う。

一方、日本の松は、重量をかけると、その当たったところだけは曲がるけど、他はまったくどうもない。ねばりがある。

ベイマツなんかで、KD材(人工乾燥材)で乾燥させたものは、力をいれると横にバーンと割れたり、集成材は継ぎ手のところでポンと折れたりする。

■「古材の再利用」

古木(ふるぎ)はよく使います。木造校舎が鉄筋コンクリートに建て替える時期に、材をストックして売っている店がたくさんあった。新しい家でも古木を使いました。それくらい材を大切にしていた。

火事のときは「風下三件、風上二件は潰せ」と言われていました。、潰したらまたその材を使って建てられる。燃えたら使いにくいけど。だから、昔は潰すのが当たり前だった。てったいが火消しになってるんです。どこを潰したら簡単に潰せるかわかっているから。プロなら傷めずにうまく潰す。

■「大工の隠し技」

公の仕事では、新材で無節という仕様書がありますが、古いお寺では、節のある材が使われています。法隆寺にしても、阿弥陀堂もちょっと節がありますね。節は木の枝やって、木の枝がないのは不完全だから節があってあたりまえと、言ってました。実際の仕事となると、節が嫌だから、石鹸つけて削ったりしたもんです。石鹸つけて削るときれいに削れる。

どうしても節だらけの一等で施行する場合は、あえて逆節に鉋かけるんです。普通は刃が飛んでしまいますが、石鹸をつけると逆節でスーッと削れるんです。大工はそういう隠し技をたくさん持っています。

堅木に釘を打つとき、釘のとんがってるところをほとんど真っ直ぐに平らに切って打つんです。堅いところにそのまま叩いて入れていく。とんがったままで堅木に釘を打っても、釘が曲がって入らないので先だけ切るんです。そうするとそのまま切れて入るんです。

ちょっとした洋館だったら、カシとかナラの床が多かった。幅木はカシで、小学校の講堂の床はナラのフローリングでした。そういうところに、幅の狭い木を打って後から削るんです。先に削ってないわけ。横に削っていくので、膝が青じむんです。

■「素材屋さん」

どこの山にどんな木があるというのをみんな知っていた素材屋さんというものがありました。〇〇県のどこの山に、直径何メートルのこんな木があるとか色々知ってて、その人に頼むとそんな木を探してくれる。

4:修業時代

■「木を殺す」

木は木表・木裏による反りがあり、節やあてなどもあります。年輪の違いや木取りの仕方によっても狂い方がかわってきます。枘をいれたり仕口をしくんだりするとき、角のたたない金槌で木をたたいて痩(や)せさせ、心持ち木を縮めてから入れます。何年かすると木が膨れてきて、しっかり閉まるんです。このように、木の性質や癖を見極め、適切な使い方をすることが重要で、「木を殺す」といいました。

■「八畳の間の骨縛り」一人前

「八畳の間の骨縛り」というのは、大工の一日の仕事だったんです。骨縛りとは、天井の廻り縁と竿縁を入れて、天井板を張れる状態にすることを言います。木を削って、竿縁を入れるのが一日の大工手間だとしたら、それが出来たら三時に帰ってもよかったんです。

職人は、「敷居」や「鴨居」をつくるのに、一間の場合、鴨居だったら二十丁(本)、敷居だと二十五丁つくらないと一人前にならんと言われました。

■「大工一人前米三升」手間賃

一升が1.5㎏ぐらい、三升で4.5㎏ぐらい。今の金額で米の対価にすれば、3千円余りの手間賃。大工、左官、瓦屋、樋屋の手間賃は全部同じ値段。てったいが、大工の六割。石屋だけが少し高かった。朝早起きして鑿(のみ)を火入れして研ぐので、一割ほど高かった。風呂行き銭とかのご祝儀はあった。

■「人工」

お寺をつくろうが、町家をつくろうが、茶室をつくろうが、そんなに差はなかった。一日分の一人当たりの手間のことを「一人工」といいます。一坪あたり、五人、十人、二十人、三十人、なんぼでもあります。茶室の新築では、今では坪七、八十万円の手間賃を見ています。小さいですけど。手間だけで二百人工(四百万円)

人工によって仕事のグレードが変わります。十五人の手間だったら、「二階の畳の床板まで削らないかん」とか。枘差しでも、長枘で差すか、小根をつけるか、襟輪をつけるか、込栓を打つか、鼻栓を打つかとか、グレードが変わります。

■「てったい」という仕事

てったいというのは手伝、つまりなんでもやる仕事です。今でいう「鳶土工」下手な大工より賢いという場合もありました。排水もてったいの仕事。左官や足場や建て方や揚げ前もやっていました。壁の下地を組むのも、てったいの仕事でした。今は、竹屋さんがやりますね。

■「今はなくなってきた商売」

昔は、二町内ごとに製材所がありました。丸太を担いで製材所に持っていきバーッと挽いてもらったこともあります。目立屋も無いですね。今は、替刃の時代ですから。昔は道具が高かった。

■「かぼちゃの花は咲いたか」

かぼちゃの花に似ているガス灯のこと。昔は、腕時計なくて時間がわからなかった。五時半になったらガス灯の火がつくわけです。毎日、はしごを担いでパッて火をつけてまわっている。かぼちゃの花が咲いたら、若い者は片づけをしないといけないという意味なんです。日が暮れたら帰る。でも、明日、すぐに仕事ができるようにきっちり片付けないといけないということ。

■「箸あずけ」

お客様のとこに箸を持っていくということ。つまり、食事つき。弁当を作るのが大変なとき、「あそこの現場、箸あずけになるで」って言われたら、お箸だけでいいわけです。実際には、お箸は持っていきませんけど。

■「今日のお昼は石垣に込栓やで」

「おにぎり」と「おこうこ」のこと。おにぎりが、石垣の形に似てて、込栓はおこうこです。今は半切りにするけど、昔は縦に切って、込栓のようでした。

■「終い風呂」と「くも張ろう」

仕事の速い人は「一番風呂」遅いもんは「終い風呂」と言っていました。遅くて汚いという意味です。「終い風呂」って言われたら、その現場やめさせられるで、というのがもっぱらの話。
休憩する時は「くも張ろう」と言っていました。蜘蛛の巣の蜘蛛です。
このような隠語がありました。

■「けんずい」

お客様に「けんずい」というような、三時のおやつだとか、お昼のご飯のおかずを出してもらうことは、なくなりました。三時のおうどんもありました。昔は当たり前でした。

■「ちでの道具」

私らのことを、若い衆って呼んでくれへんで、「ちで」と言われました。丁稚(でっち)の逆さまです。「でっち」というと聞こえが悪いから。
道具屋さんに道具を買いにいくと「何や、ちでの道具か」と言われました。一人前の道具と、若い衆の道具と値段が違うわけです。
(のみ)の値段は一日から二日の手間賃と同じ。
(かんな)が四日から五日
(のこ)が五日以上
仮に日当二万円としたら、
鑿が二万~四万円
鉋が十万円前後、それくらい道具は高いもんでした。

安い道具もありましたが、何回も研がないといけないし、切れやむのも早い。鋸は「甘ぼろ」と言って、刃は柔らかいけど、すぐに欠けるという、安い道具を使っていました。

■「ちでの道具は年寄りの小便や」

なんか切れが悪いという。仲間と言い合ったことがあります。

■「怪我と道具は自前もち」

大工でもどんな商売でも、手間賃の中に、道具の消耗分まで入っていました。

■「大工道具」

道具は、今でも昔と同じだけ、数多くあります。鑿(のみ)だけでも、本来百本ぐらいは必要です。隅つぼも、鉋(かんな)も自分でつくりました。
良い鉋(かんな)は大工手間の一週間以上、十四万円ぐらい。それを二万円にしたかったら自分でつくるしかない。今は、三万円もだしたら、立派な鉋あります。だから、手入れをし大事にしました。
刃を研ぐのは仕事だからその時間にやったらいいけど、道具を直すのは間にやらないかん。夜なべして道具を直す。昼間に道具を直してたら怒られる。

5:職人の四季と祭

■「法被」(はっぴ)を着る

お正月の挨拶回り。法被が着られるというのは「お前一人前やな」と言われる、ひとつの目鼻というんです。夏でも冬でも法被は着る。前があいたままですから、冬はさむいんです。

■「道具清め」と「初荷」

正月終え、仕事始めの日には「道具清め」という行事をやります。仕事場の北の部分に祭壇を作って、白布を張って、道具を置く台をこしらえ、御神酒を添えて、道具を全部台の上に並べて、親方に見てもらうわけです。そのときに、道具がきれなかったら、お前は「まだまだやな」と言って怒られます。お小言はあっても褒めてはもらえません。大工の親方がお祓いをします。そういうふうに、道具清めをしていました。

「初荷」というのがありました。正月明けの最初の納品ということです。正月前には、材木屋さんなどが初荷の注文を取りに来ていました。

■「お雛祭り」と「端午の節句」

昔の「お雛祭り」は、正月が済んだらすぐお雛さんを出して、三月三日には片付けるというものでした。「女は早いことお嫁にいかなあかんのに、いつまででもお雛さんを飾っておくもんちがう」と、三日の日の夜には片付けます。

三月過ぎると「端午の節句」四月のはじめくらいから、五月いっぱいくらいまで、鯉のぼりがたっていました。普通の家で、物干しに立てても、五メートル以上の長さの竹を立てます。四メートルの鯉が三段もきたら、下にひきずってしまうから、棹の長さが七~八メートルないと二飾れない飾れない。大工かてったいさんが立てます。一日に二軒、三軒、鯉のぼりを立てました。

■梅雨前の「衛生掃除」

六月に入りますと、伝染病対策もあって、衛生掃除というのを、町内ごとにやりました。大掃除です。畳を表に出して、床を直すのが大工の仕事でした。昔の床板は12㎜くらいしかなかった。踏み破るくらいの薄い板でした。「床をめくって、床下の点検をすることが大事なんや」と、親方に言われていました。畳の掃除も一緒にします。毎日掃除していても、干して叩いたらけっこう埃が出るんです。叩けば叩くほど出る。芸能界みたいです。

■「メンテナンス」もお出入りの仕事

梅雨時期が迫ってくると、「瓦の突き上げ」「樋の掃除」もしました。屋根の瓦がずっていると、金槌の柄で瓦を突き上げるのです。樋や排水も見ます。どの辺で傷んでいるかというのをいつも認識できるシステムが構築されていました。

■「祇園祭」

七月は祭りの月です。七月に入ったら、提灯(ちょうちん)立ての用意をしていました。祭りは二十四日ですが、けっこう早く提灯を立てました。火を入れるととてもきれいです。ただ、夏の暑いときに直さなあかんし、それも夜なべでやるもんですから。夜なべは無償なんです。残業は給料もらえますが、夜なべは一銭もでません。「夜なべ」って言うのは「夜に鍋を食べるときは、あとはタダの仕事やで」という意味なんでしょう。

■「地蔵盆」

八月になると「地蔵盆」がありました。町内単位のお祭りで、お地蔵さんを祭りながら、親睦を深める意味合いもあるものです。地蔵さんのお飾りをするお宅の表の出格子を取り外す仕事がありました。忍栓が堅くなっていて具合が悪かったりするので大工の仕事です。櫓(やぐら)もつくりました。

■「夏のしつらえ」「冬のしつらえ」

初夏(六月の初め)には襖や障子、縁側のガラス戸を外して葭土(よしど)を嵌(は)め、御簾(みす)を吊り、藤筵(とむしろ)を敷きました。
九月(九月の初め~九月の終わり)に入ると、今度は、葭土を外して、襖、障子、ガラス戸を戻し、敷物を敷きました。

■「師走の掃除」と「仕事納め」

十二月に入ると暮れの掃除も手伝いました。掃除をしたあと、油に少し墨をいれたものをつけて、堅絞りした布で拭くんです。京都の町屋の「弁柄色」は、今は黒いですけど、昔は赤い色が強かった。どうしても埃と拭き掃除で黒光りしています。

事納めの神事は、「道具納め」をします。道具清めのように並べて出したりはしませんが、道具箱を積んで、その上に御神酒とちょっとしたもんを供えて、道具に「一年間よう働いてくれた」というお例をする行事がありました。

年(ねん)空け、十三日になったら、事始めのお鏡餅を持ってきたりしていました。師匠に「事始めの挨拶」にいくのが普通でした。

■「正月を迎える準備」

行くとこ行くとこに、「恵方棚」というのがあります。いわゆる「歳徳(としとく)さん」を祭る。大概のダイドコは大和天井(梁を見せている天井)だったので、その梁に恵方棚(えほうだな)を取りつけます。正月前から小正月までの間だけ、恵方の方向に向けて、注連縄(しめなわ)を飾って供えものを供えました。今だと、恵方といえば節分の恵方巻きの丸かじりですが、本来は、正月にやる。(ひいらぎ)の枝に(いわし)の頭差して、軒にぶら下げ、鬼が入ってこないようにしました。お正月には、恵方棚の下で、主人が正月の挨拶をするのが本来。恵方棚は廻して恵方にむける。十二月になると、来年の暦が出て、翌年の恵方がわかるので「歳徳さん」の恵方を決めていました。

年末におなると、鞍掛(くらかけ)(踏み台のこと)と塵取まな板の三つを作ります。まな板も全部木でできていて、蟻桟で足がついていましたが、戦後は、足が付かないまな板になっています。お歳暮に渡すものです。

鞍掛(くらかけ)(踏み台のこと)と塵取とまな板

■「地鎮祭」

昔は、必ずやっていました。まず、「四方払い」。土地を収得するとか、潰して建て直すときに、地鎮祭の前に四方払いをします。その後で神主さんを呼んできて「地鎮祭」をします。次に「地縄張り」をします。日当はでませんでしたが、ご祝儀とおにぎり弁当が出ました。地鎮祭以外は大工がやりました。いわゆる「祓いたまえ、清めたまえ、守りたまえ、幸いたまえ」という文句ですが、神様に対し、清めてほしいと頼むお祓いなので、これは挨拶みたいなもので、覚えなさいと、おばあちゃんに言われました。

■「上棟式」

上棟式は、神主さんを呼ばず、大工の棟梁が祝い事をして、直来(なおらい)まで進めました。上棟式では、一町(約百メートル)くらい前から「木遣り」をやります。大工が歌う祝い唄です。景気づけだから「たぐり音頭」とか祝い唄を歌い練り歩きます。そのときには「金鶏鳥」「夷大黒」(えびすだいこく)(福神狂言)をやったり、ついて行ってたら、歌えるようになったのです。
直来:神道において祭典の後に神饌やお酒などを飲食する儀式

「弊串」(御幣)といわれる、棟に上げるものは、今は建てた家にしか置きませんが、大工さんと、てったいの分をふくめて三本以上作りました。
棟上げで餅をまきました。

■「荒壁つけとおはぎ」

一般の家では、下地竹を掻いて(編んで)荒壁をつけます。町家の場合、荒壁の裏返しが終わったか、荒壁をつけたときに、饅頭がでました。

蔵を直す際に、二メートル動かしてほしいといわれ、曳き家をしました。蔵の壁厚は二十~三十センチほどあって、重たすぎるので、壁下一メートル五十センチくらいの壁をみな落として、根継ぎをして、根がらみをつけてから、十畳ほどの蔵の移動をしました。
修復の際、固い土だんごを叩き付けていきます。そういうときには、ごっつい大きな「おはぎ」がでるんです。「饅頭付け」と言っていましたが、それにちなんで、お祝いに径十センチくらいのおはぎでした。

荒壁の返し塗りのときや、瓦の棟おさえ、棟被せ、大屋根の瓦の棟が収まって鬼瓦が付いたときのタイミングでお祝いをする。それが、大店の楽しみでした。

土蔵の場合、荒付け、裏返し、むら直し、戸前吊り、とこれだけお祝いします。蔵は、簡単に建てられないことと、むら直しするのに一年半とけっこう年数がかかるので、一般的に建物を建てる前に先に蔵をつくります。蔵が出来上がってから本宅にかかるわけです。それだけお金と手間をかけて、大切なものを蔵に入れるというのが、昔のやり方でした。
今では、外回りはラス張りで、入り口は金庫戸です。金庫戸のほうが、火災には強いし開け閉めもしっかりしていて良いかもしてませんが、昔のような暇(時間)をかけるようなことはもうできませんね。

■竣工式

昔は盛大にやりましたが、若い衆や職人さんはあんまり呼ばれず、呼んだのは、肝入(世話人)と親方くらい。普通の祝儀は、職人さんの一日分が目安、肝入りで三日分、棟梁で一週間分。ものをつくる手間賃は安かったのです。

6:町家は固めたらあかん

■「京町家の改修と町屋事業」

地に足をつけて今後のことも考えて改修している例もあれば、そうでない事例もあります。相手は、商業ベースで考えますから。例えば、売るときには、表構えは直すけど、中は合板張ったり、ボード張ったり、昔の住まい方を踏襲するまではいっていない。

■「構造をみる」

構造を見て、ここは抜いたらいけないなど、主体構造をあまりさわらない。
改修のときに固めないこと。タイルの下地を張る場合でも、コンパネをバーンと張ってしまわず、細くカットして、貫のようにして張る。仕上がりもコンパネを張るなら、合板の貫で留めていく。固くならずに動くほうがいいんです。そうでないと、町屋の場合、一カ所、例えば厨房が固まってしまうと、それが地震に弱い一つの要因になります。構造面をある程度は理解してないといけない。

大阪は、建て方も、仕上がりも違います。基本的な継ぎ手や仕口はあなり変わりませんが、扱い方の違いはあります。その地方の工法を考え、長年そこで培われているもので改修すべきです。その地方のいいところを伸ばして、その工法を守っていかなければ、次に残らない。

■「町屋の振動実験」

三木市のEディフェンスという大きな装置の上に、古い町家を解体してもっていきました。新町夷川の家を京都市がもらいうけたもので、壁土も瓦も古いものでした。壁も一旦ばらして、伝統的な工法で昔のように、石場建てになるように直しました。八百万円ぐらいかかりました。同時に建てた、別の新しい建物も一緒に揺らしましたけど、足元を拘束してしまったから、柱が折れて大変でした。私らの古い方は何も足元を拘束していませんから、そのまま残ったんです。やはり、足元を固めない工法のほうがいいということにはなってきました。それで建物の倒壊は防げるんですね。
ただ気になるのは、外壁の壁面がカーテンのように、うねうねと揺れることです。やはり、ちょっと問題かなと。もう少し壁が乾いていれば、この揺れを防げたのではないかと考えます。

■「町家の耐震性」

京町家は、奥行には壁がありますが、開口方向には壁が少ないのです。少しは必要だと思います。小壁であろうが、必要なところには必要です。ただ、表のヒトミ梁である程度この柱の動きを拘束することはできますが、奥の縁側のほうは、全くそれがないんで、小壁が少しでもあれば全然違う。京都の土は結構、粘り気があるんで、地震には効くと思います。

神戸の震災の調査でもそうですが、しっかりついている壁の場合は、Z型には亀裂は入りますが、そのために建物が倒壊するということはない。一部、風呂や便所をブロックで増築していたところは、ブロックが潰れているか、家が潰れているかでしたね。だから、一部を固くするというのは、一番危険やなという気はしました。

■「地盤が重要」

在来木造の場合、ある時代の建売は、質(たち)が悪いのです。阪神淡路大震災の被害事例で、倒れた建物は、釘を二本以上打つべきカ所に一本だったりしました。安易な施行でした。

京都でも、震度五弱がありましたが、中京区でも補修に行ったところは全くない。行ったのは、樫原(かたぎはら)の断層の近く、それから、花折断層のあたり、やはり、地盤の問題も大きいですね。

京都で地震といえば、秀吉の時代には大きいのがありますが、それ以後、丹後の地震の時も、京都まではきてないですね。地震の経験は、京都は無いに等しいかなと思います。地震よりも風のほうが恐いとも言います。地震は、「自分のとこだけ潰れるわけない。隣もあんねやもん」という感覚です。「まあ、その時は諦めなあしゃあないな」あんまり気にしてない人が多い。

■「耐震補強でできること」

耐震診断してもらっても、京町屋の石場建てはダメなんですわ。足が拘束されていない。筋違いがない。壁が少ない。そういうのを勘案すると、耐震補強のしようがない。鈴木 祥之(よしゆき)先生などが推奨されている「限界耐力計算」でやるといいかというと、それでも数値的には「0.5」にはならない。ある程度はもちます。というのを施主が了承された場合はやりますが、補強をするまで至らないのが現状。

阪神淡路大震災の被害調査から、古い建物は、軒桁にかかっている登り梁の仕口が「兜蟻」(かぶとあり)。兜蟻は、本来なら、ちょっとぐらい外れても落ちないように、伸びがあるのですが、震災では、それを越えて落ちているんです。古い家は、屋根の野地が竹で、その植えに土が前面にべたで塗ってあり、その上に瓦の筋葺きがしてある。それが七、八十年経って風化しているので、この梁が外れると全部落ちます。
補強の提案として、「羽子板ボルト」で両側のボルトを締める方法。

「羽子板ボルト」で両側のボルトを締める方法

■「枘と込栓」

大きな建物で、枘差しを両側からお互いに差して込栓を打ったりしますが、大体三センチぐらい入ったところで、みな割れが入る。三センチ入ったところでおれてくれれば、枘が横にいかない限りは落ちないことがわかります。

古い建物は込栓が抜けてたり、中で折れている場合もあります。また、堅木のカシやナラなどを好んで食べるヒラタキクイムシが込栓だけ食べてしまう。込栓が折れているとか割れているとかいうのが、ものすごく危険です。
込栓を叩いてみて、音が変やったら、表面からもっぺん打つんです。重ね打ちです。折れてたら、向こう側からポトンと落ちるし。それで点検します。

鳥取も宮城の地震も、遊び込栓を打ってあったところが、被害をうけました。遊び込栓は一種の飾りです。関東は、桁に鼻栓の飾りをつけたり、彫り物をします。逆に、京都は、必要なところに必要な材をつかう。

新潟県中越地震の時は、金沢工業大学の先生とも一緒に行ったんです。四十年前の建物は傷んでいない。新耐震基準(1981)以降の建物も大丈夫。その間に建てられたものが全部ダメということでした。その時期にプレハブメーカーが進出してきて、質の悪い仕事、見てくれだけを考えて、外部はモルタル、内部はプリント合板、壁は内側だけ片壁塗ってある。簡単な施行。

四十年前の古い建物は、アンカーボルトが入っていない。四十年以降アンカーボルトは入っていても、下がレンガ積みだったり、その基礎が頼りない。二十五年くらい前の建物からは、しっかりした筋違いがはいったりしているので、外壁は傷んでますが、倒壊するまでには至っていない。中途半端に真似をした建物が一番地震に弱い。

7:目にものさしをもて

■「町並を歩く」

北九州の木屋瀬(こやのせ)は長崎街道の宿場町ですが、塗籠(ぬりごめ)の土蔵造りに近い建物で、二階は全部塗り籠めで、袖壁がついているようなところです。玄関を入ると、ナカノマ、京都でいうたらダイドコにあたるところが吹き抜けになっていて、荷物を引っ張り上げられるようになっています。ほとんどのお家が、中を馬車がそのまま通り抜けられ、裏の川に出られるところもあります。町並は、二百メートル近くあります。屋根は、扠首組(さすぐみ)で蔵の構えです。

京都で町屋を見たいと来られてご案内するのですが、一軒ずつなら、新町通りでもありますが、揃っていないから「点」でしかない。京都らしい町並は意外と少ない。そのへん京都は寂しい。

■「みるのは奈良がいい」

お寺に関しては、奈良が時代的にも揃っています。新しい寺を見ようと思えば、京都でも、東西の本願寺をはじめとしていろいろありますが、ちょっと華々しい、きらびやか過ぎる場合がありますしね。奈良とはまた違います。

■「堂宮と数寄屋、家家との違い」

堂宮と、数寄屋、町家の仕事はそんあに変わらない。町屋は堂宮でいう木割りはほとんど無い。柱が基準になっていますが、柱には間崩れが結構ありますし。逆に、堂宮は、どうしても木柄が大きくなります。
木割りとは、木造建築において建物の寸法を、各部材の「比例」で表した物で、たとえば「柱の太さ」を基準にした場合、その他の部材の寸法や間隔をどういった割合にすべきか決めた物です

三宝院の垂木だったら、垂木の大きさが120*75くらい。そんな垂木が、繁垂木(間隔を詰めて並べた垂木)で入るわけですから。

民家などは、大きな登り梁がありますが、町屋や茶室の場合はあまり大きなものがない。茶室や町屋は木柄があまり大きくないので扱い易い。

民家でも堂宮でも、継ぎ手は基本的に変わりません。桔木(はねぎ)の掛け方も、小屋組の組み方も、全く町屋と変わらない。

ですから、木柄が大きいために、要領が良くないと手間がかかりすぎる。大きい材の場合には、おさえどころがあるということです。手間をかけずにスカッと見せるのが、職人の腕なのです。

■「堂宮の彫り物」

堂宮の場合、飾り物、彫り物がありますが、大工の仕事。特殊な木鼻の場合はいわゆる仏師がいますから彫らせますけど、いわゆる「虹梁の飾り」とが「懸魚の鰭」(ひれ)は、大工の仕事です。雲形にするとか、唐草にするとか、いろいろな様式さえ覚えればできます。今は、普通の小さい(ます)や巻斗ぐらいなら機械でいけます。寸法だけはきちんとださないといけません。

※巻斗:肘木 (ひじき) の上に用いる小さい斗 (ます) 。 上の肘木や桁 (けた) などを一方向のみ支えるもの。

■「経験で伝わる技」

若い人に伝えたい思いは今もずっとあります。私がわかってる範囲の言葉だけは、みんなの頭のどっかの隅っこにでも置いといてくれればと思っています。

茶室でも堂宮でも、図面はありますが、施工図はないんです。完成図か寸法はあるんですが、それをどういうふうにして留めるのかというところがないんです。堂宮にしても、仕口が沢山あって、分解している図はあるんですが、これをするのにどうしたらよいのかという方法は書かれていない。「桔木」(はねぎ)ひとつ入れるにしても、「どっから入れたら上手く桔木が留まるか」とか「どうやったら力が上手く分散するか」というような、そういうこと。

描いたものよりも、経験でしか伝わらないことの方が多い。破風の照りなんかも、絵で描くと上手く描けるんですが、実際つけてみたら、その通りに上手く良い形になるとは限らないんです。

■「勉強をして仕事に生かす」

普段から、基本的なことが頭に入ってないと、どこでその破風尻を止めるのかというのは、ものすごく難しい問題。ちょっとしてことで出来上がりがかわってくる。設計屋さんは、平面で描かれるけど、実際は下からこう見上げるわけですからね。その辺の間隔がちょっと違います。

少ない仕事を上手くこなそうと思うと、それだけの経験に裏付けられた知識が必要ですから。ちょっとでもなんかのときに聞いた覚えがあれば、あんまり極端に間違わない。逆に、描いたもんに頼りすぎて、その図面通りにつくったらああ出来たという感覚だけで終わってしまう。それは一番危険やと思うんです。自分で考える余地を残しておく必要があるわけです。

やったことのないような仕事ばかりでした。だから、朝早く起きていろんなもんをミニいったり、どのように納まっているのか、どんなかたちになっているのかというのを見て歩きました。

■「目にものさしをもて」

いろいろ見ていて「かっこのええ庇があるな」と思ったら、実際にものさしをあてて、ノートに描いたりしました。慣れたら、梁をパッと見たら、あれは何センチやというのは、わかってこないかんわけや。

それと、自分の目でどのレベルにあるかというのを押さえないといけない。
自分で見てちょっとでも下がっているかなと思ったら、そのときにすぐ測る。やっぱり二ミリ下がってたら自分の目に自信が持てますから。
あの梁は二十五センチかな、九寸かどうか測る。測ってその寸法だったら、自分の目は正しいってなる。目が寸法を覚えてくるとわかるようになる。

意識することが大切。ぼんやり見てたらそれで終わってしまう。

■「古きを知り、新しきに生かす」

図面通りにやって本当にこれでええのかなということもある。昔の基本的なもんを覚えると、ちょっとおかしいのん違うというのが、言えますから。

上手く納まってきれいに上がるかというのは職人の腕。きれいに見せるためには、寸歩的なものも、納まりの方法も、昔からある納まり方と、自分で考え出したものとを上手くミックスして、自分の仕事にしないとできないわけです。

特に、町家は、いろんな寸法がある。基本的に畳と内法の寸法は変わりませんが、それ以外の寸法は、明治の中頃過ぎまでの建物はものすごく違う。明治の終わり頃からの建物は、結構統一されています。

その時分の建物の「この感じものすごくええな」と思ったら、踏襲していって、時分の考えているものに神して、ミックスしてやるといい。すごく見た目もいいものが実現できるはずです。

縁側の二重野地。化粧野地があって、上に勾配のきつい野垂木があって、そのへんの端のケラバ、そういうところの納まりが、今の改修の図面でも上手くいってないね。破風が上にあって、その破風の下にちょっと外れて丸太の桁が載っている、その端の納まりが上手くいってない。昔の納まりはものすごくスカッとしている。

決まった納まりがあるようでいて、きちんとない場合も多い。でも、それぞれそのいいものを自分で発見して、それを身につけるってことが必要なんです。

一回でもお茶をいただいたら、冬だったら炉がどこにある、夏やったらどこ、風炉先がどこにおいてあるかというのを見ること。お茶をやるんは、それを見るためや。

■「職人の本来の仕事」

例えば、忍び返しの継ぎ手は「イスカで継ぐ」ってありますが、「忍び返し」というのは、泥棒が入ったときに潰れるようにするんです。倒れるようにするために、わざと釘を打たずに嵌めてあるだけなんです。

お社と鳥居があって、本来真っ直ぐであればレベル通りでいいんですけど、お社がちょっと低い場合は、施行的にはここで「カセ」ができるんです。高く見えるほうを少し下げて、正式な寸法は下がっていても、正面から見ると真っ直ぐに見える。それが「カセを見る」ということです。いわゆる視覚の補正です。ものすごく大切です。

■「決まりごとを伝えたい」

大工の決まりごとは、何百年前からの決まりだから、それを守らない人間は商売できない。逆木(さかぎ)は」ダメだし、少しでも上がっていたら、そちらが末になるようにする。真っ直ぐのところだったら、太陽があるから、木は東向きか南向きに末を持ってくるようになど。そういう決まり事が、けっこう大工の仕事にはあるんです。

床柱で言うと、逆木を立てるというのは、大変嫌がられました。平は杢(もく)ですけど、横は柾(まさ)なので、どちらが末でどちらが元かわからない。昔から、水につけたら、末のほうが浮いて、元のほうが下がるといいますが、床柱を水につけるなんてできません。寸法を測って、中心にモノを置いて重さを量ります。そして下がる方向が元ということで、逆木をたてないように気をつけていました。

柱の上下について、丸太のどちら側を上にするにか、のぼりはどうなるか、ツノカズラの切り方や、違い棚の高さ、花釘はこれ、と厳しく教えられました。仕事の代わりは、機械や電動工具がしてくれても決まり事はやってくれない。

木造の文化は長年の感性で育てられてきたものやから、今でもそんなに違いがないと思います。決められたことには、それなりの理由があるのだから、その決められた理由を踏襲していく。その上で変えるのなら良いけれど、それもわからずに変えるのはおかしい。きっちりとした作法として、仕事の中で活かしていかないといけないと思います。

仕事の上手、下手はあるけれど、大工の決まりごとには上手、下手がない。だから「決まりごとだけは、覚えなさい」と親方に徹底的に教わりました。

8.京町家の歴史と意匠

■「町家とは」

日本の伝統的な住宅は、大きく二つの系統に分類できます。寝殿造や書院造と呼ばれる「貴族や武士たちの住宅」と、規模も小さく素朴な材料と技術によってつくられた「一般庶民の住まいである民家」です。

「民家」はその生業(なりわい)によって呼称がことなります。農業を生業としている人達の住宅は「農家」。町に住みながら手仕事や商いをして生活している人達の住宅を「町家」といいます。

町家の特徴として、
・表通りに面して建っている。
・街路に面した表側に店舗(ミセ)や仕事場を設けている。
・高密度に住むことに対する様々な工夫がなされている。

広い敷地に建つ農家や塀に囲われた武家の住宅と大きく異なる点です。
町屋は「うなぎの寝床」と呼ばれるように奥行きが深い割に間口が狭い場合が多い。

■「京町家の校正と構造」

標準的な規模である間口三間ほどの京町家では、表の街路に面して片側に開いた入り口を入ると、奥まで続く幅一間ほどの土間があります。「トオリニワ」です。「二ワ」とは、何らかの機能を持った土間ととらえ、下足を履いて移動する部分を「二ワ」として解釈することもできる。

京町家は長屋ではなく、独立した住宅ですが、高密度に住むことが要求され、隣家との間にほとんど隙間がありません。そうすると、この「トオリニワ」は表の通りと奥の空地を結ぶ重要な役割をもった通路になります。
「トオリニワ」に添って床上部分である部屋が並びます。表通りに面した部分が「ミセ」です。

「トオリニワ」の表側の部分は「ミセ二ワ」と呼ばれ、ここまでは、通行人や商談にきた人などが入れる二ワです。次は、「ゲンカンニワ」住まいの玄関部分です。その次は「ハシリ二ワ」です。そこには、井戸や竈(かまど)ハシリと呼ばれる流し台などがあり、炊事をするための場所です。「ゲンカンニワ」と「ハシリ二ワ」との間に中戸を建てることがあります。異なる性格を持った場所であることを示す結界でもあります。奥はプライベート空間です。

「ハシリ二ワ」に面した部屋が「ダイドコ」で家族の団らんや食事に使われる茶の間です。「ダイドコ」の奥が「オクノマ」と呼ばれる座敷で、寝室や、接客の場です。便所や風呂は、「オクノマ」の更に奥に縁側続きに設けられることが多く、敷地の最奥部には、土蔵が置かれます。

「トオリニワ」は奥へ通じる通路であり、炊事という家事機能を果たすなど、多機能の用をなす二ワであることが大きな特徴です。重要な作業の場であるので常に明るさが必要になります。「トオリニワ」には天井を張らずに、屋根まで吹き抜けになっています。屋根部分の天窓や壁に高窓が開いており、日中は、いつも明かりが降り注ぎます。

「竈」(かまど)で火を使いますが、天井がありませんから、煙や熱気は天窓や高窓から逃げていきます。煙だし機能を持っていることから「火袋」ともいいます。立ち上がった炎や飛び散った火の粉が建物に燃え移ることを防ぐころにもなり、防火のための工夫でもあります。

火袋:ハシリの上部に広がる吹き抜け空間のことで、「ひぶくろ」と呼ばれる。 炊事の熱気や煙を逃がす空間であり、火事の際に周囲への延焼を防ぐため火を閉じ込める役割を持つ。 左右に開口部が取れないため、天窓を設け手元に灯りを落とした。

「トオリニワ」には天井を張らずに、屋根まで吹き抜け:町家棟梁

火袋を見上げると梁や側繋ぎにお丸太などの架構が見えます。この架構のことを「準棟纂冪」(じゅんとうさんぺき)と呼びます。寺院建築の小屋組にも準じるという意味でしょうか。全体に細く華奢(きゃしゃ)な材で出来上がっている京都の町家のなかで、この架構だけは、過剰で大げさな架構に見えます。隣が塞がっているという不自由な敷地のもとで施行するために工夫された架構なのです。

「準棟纂冪」(じゅんとうさんぺき):町家棟梁

「トオリニワ」の他にも部屋の前後に「ゲンカンニワ」(玄関庭)、「ナカニワ」(中庭)、「センザイ」(前栽)などが挿入され、通風・換気や採光を可能にしています。二ワの植栽や置かれた石の景色が生活にうるおいをもたらしてくれます。夏障子のような空気の流通を可能にする建具を建てておくと、室内に風の通り道ができ、自然のエアコンになります。古来、夏を旨としてつくられてきた京町家ならではの知恵だといえます。

京町家は、平屋と二階建に大別できます。二階建のうち、明治の後期ころからは総二階といって、二階の部分の天井が一階の部屋同様に十分な高さで建てられるようになりますが、それまでの町家は「厨子(つし)二階」でした。表側にある天井の低い二階のことを厨子二階といいます。天井が低いので、屋根裏部屋のようなものですが、物置や使用人の寝所として使用されます。

「ミセ二ワ」の上部にも天井の低い部屋ができます。ここは、木置き、木揚げと呼ばれ、薪(まき)や炭、替えのための障子を収納しました。

■「京町家の外観」

京町家の外観は軒の出が深く、軒先の高さが一定の範囲の高さに揃っており、華美な装飾は控えられ、開口部は「千本格子」や「虫籠窓」(むしこまど)で統一されています。「虫籠窓」は、厨子二階にあけられた塗り籠め(ぬりごめ)の太い格子窓のことをいいますが、本来は、目の細かい出格子を付けた窓を意味してました。文字通り虫籠(むしかご)のような窓です。
今でも、厨子二階に、虫籠のような格子の出窓を見ることがあります。

一階の表側の開口部に建てられた「千本格子」は、京町屋に独特の風情を添えています。ここは、ミセノマと表通りをつなぐ重要な部分ですが、住まいにとってプライバシーも必要です。開口部に格子を建てると、外から室内は見えにくくなります。窓を開け、明かりや風を取り入れ往来の気配を感じながらプライバシーを守り、外部からの人の侵入を防ぎます。昼間、商売をしているときは、この格子を外し、ミセノマを表通りに開放できます。

「千本格子」にも種類があります。「出格子」「平格子」という根本的な構造の違いもありますが、意匠の違いにより「米屋格子」「炭屋格子」「糸屋格子」などの職業の名が付いているのは、格子のデザインが商売の特質に合わせて工夫されてきたことを示唆しています。京町家は統一感を保ちながら様々な表情をみせます。「犬矢来」「駒寄せ」といった要素も、その形態や意匠は多様です。

ミセノマの軒下には「揚見世」(あげみせ)という縁台がしつらえており、商品を並べることができます。今では、一般に「バッタリ床机」(しょうぎ)と呼ばれる装置です。商売をしなくなると腰掛けとして利用され、不要な時は引き上げ壁面に収納されます。

犬矢来、駒寄せ、バッタリ床几   米屋格子、炭屋格子、糸屋格子(上から):町家棟梁

京町家の外観は統一されていても、全く同一ではありません。軒の出や棟の高さにも隣どおし違いがあります。京町家は長屋でなく独立した建築ですから、屋根にも妻側にはケラバをつくって雨に対するそなえをしています。近接して共存するルールが出来上がっています。

町家のデザインは、一様ではありませんが、逸脱してはいけない基準があり、それを守りながらも個性が発揮されています。

■「町家の大工」

明治のはじめには、東本願寺の再建という大工事も行われました。その折りには、周辺各地の優秀な大工たちが京都に集まってきました。外部からの新たな刺激を糧に、京の大工たちは常に切磋琢磨を重ね、技を洗練してきたともいえます。

江戸時代、京の大工は、幕府の京都御大工頭中井氏(中井役所)に支配された「二十の大工組」(京弐拾組)のいずれかに属していました。各大工組は一定の地域内に居所をもつ大工たちによって構成されており、各組の大工たちはさらに近隣大工の集まりである「向寄」(もより)とよばれる下部組織に所属していました。寺社の仕事では遠くに出かけることもありましたが、町家の仕事は大工と得意先との間で出入り関係が結ばれ、仲間定めによってその関係の変更には制限が加えられていました。

明治時代になり、新たな時代を迎え、大工の組織や立場も変化しました。中井役所による支配もなくなりますが、得意先との出入りの関係を維持した大工もいました。こうして、良き習慣の継承が京町家の伝統を守り育ててくれたのです。

幕末におおきな戦争があり、広範囲に焼き尽くされた京都の町には、実は、江戸時代以前から残る町家は多くありません。ほとんどが、明治以降に建設されたものです。

※最後に…

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

今回、何度も「伝統」と「革新」という二つの言葉が交錯しました。伝統を守ることは、そのまま残すことだけではありません。受け継ぎ、現代の課題に合わせて進化させることこそ、真の伝承ではないでしょうか。

これからも、伝統建築や文化財の魅力を掘り下げる活動を続け、未来へとつなぐお手伝いができればと思っています。どうぞこれからも一緒に、この道を歩んでいただけたら幸いです。

最後に、この本が、多くの気づきや、新たな視点を生むきっかけになったことに、心からの感謝致します。

引用:町屋棟梁 荒木正亘 2011年八月一日 第版版 学芸出版社
























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