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Happy Women's Map 東京都 女性初の国連難民高等弁務官・JICA初代理事長 緒方 貞子 女史 / First Female UN High Commissioner for Refugees and First Chairperson of JICA, Ms. Sadako Ogata

国連難民高等弁務官事務所 / The UN Refugee Agency

「人間らしさに徹底せよ!」
"Be Humane!"

緒方 貞子 女史
Ms. Sadako Ogata
1927 - 2019
東京都麻布区 生誕
Born in Asabu-ku, Tokyo-to

緒方 貞子 女史は女性初の日本女性初の国連日本政府代表部公使、女性初の国連難民高等弁務官、JICAの初代理事長、日本における模擬国連活動の創始者です。難民救済と人間の安全保障のために世界中を駆け巡りました。
Ms. Sadako Ogata was the first woman in Japan to serve as the Ambassador of Japan to the United Nations, the first female UN High Commissioner for Refugees, the inaugural Chairperson of JICA (Japan International Cooperation Agency), and the founder of Model United Nations activities in Japan. She has been tirelessly working around the world for refugee relief and human security.

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「私の友達がいた国が何であんなことをするようになったのだろう」
 
貞子は外交官の家庭に育ち、米国、中国で幼少期を過ごします。4歳のとき、曽祖父・犬養毅の突然の死をサンフランシスコで知ります。「軍部はよほど悪い人たちに違いない」。身体を動かすことが大好きなおてんばで、いちばん楽しみなのは運動会。長距離は苦手でも短距離は得意中の得意。外をたくさん走り回って活発に過ごしていると、日中戦争が勃発、勝手に歩き回ることさえできなくなります。8歳の時に一家で帰国、まもなく日米戦争が始まって空襲で焼き出され、疎開先の軽井沢で終戦を迎えます。聖心女子大学入学すると、午前中に授業をすませて午後はテニスに打ちこみます。初代学長キャサリン・エリザベス・T・ブリットから女性としてリーダーシップをとるよう背中を押され、米ジョージタウン大やカリフォルニア大バークレー校の大学院で学びます。

「一体日本はどういう国だったのだろうか、どうしてああいう戦争になったのだろうか」
 戦勝国アメリカの「自由と民主主義が勝ったんだ」という自信そして非常に寛大な精神のもと、「自分の国はこうだ、あなたの国はどうですか」いろいろな国から来ているたくさんの留学生たちと見聞を広げながら、貞子は多くの人を訪ね、中国を歩き回って、満州事変に関わる政策決定過程について論文をまとめ政治学博士号を取得します。その最中に、後の日本銀行理事・緒方四十郎と結婚。夫に伴って大阪・ロンドンで子育てに奔走、しばらくして国際基督教大学の非常勤講師として外交史の教鞭をとります。1週間に1日の講義のために、家事を終えて子供を寝かしつけた後に毎日猛勉強します。ある日、市川房枝女史が突然訪ねてきて、「どうしても行ってほしい」。強い推薦により国連総会の日本政府代表団に参加、女性初の国連日本政府代表部公使に起用されます。子育て中でためらう貞子に、「みんなでやれば何とかなるから、行きなさい」父と夫も全面的にバックアップします。

「かなり人権というものは政治的なものだな」
 39歳の貞子は初めて国連総会・人権委員会に日本政府の代表団の顧問として出席。繰り返し政府間の総会に出席するなかで、いろいろな立場に置かれ、いろいろな経緯がある、いろいろな思惑が交錯する、難しい政治色の強い場で人権のことを学びます。ベトナム戦争終結前後、インドシナ三カ国(ベトナム、カンボジア、ラオス)からの大量難民がメディアで話題になる中、50歳の貞子はUNHCRのインドシナ難民経費の半分を引き受けた日本政府からカンボジア難民救済視察団長に任命され、タイ国境地方のカンボジア難民キャンプ150万人のもとを訪れます。インドシナ難民を助ける会、日本国際ボランティアセンターなど、生まれたばかりの日本の民間支援団体と一体になって難民救済事業に取り組みます。日本政府は1981年に難民条約に加入、翌年に難民認定制度が導入。難民の保護に関する国際的な主原則を受入れ財政的な支援等も行います。さらに、園田直外務大臣の主導のもと在日外国人に社会保障また保護措置を付与、教育・年金・児童付与手当て・ 健康保険などの保護的な原則と事業が始まります。

「人権と難民の保護・支援という人道との間には違いがある」
 60歳の貞子は国連総会・人権委員会の特別報告者として、ビルマ(現在のミャンマー)軍事政権に人権交渉に向かいます。1988年ソウマウン国軍最高司令官によるクーデター以来、非暴力のデモ隊数千人を殺害、数千人の活動家を逮捕・投獄して拷問、欧米の内政干渉を拒否して民主化指導者アウンサン・スーチーを軟禁、数千人の難民を近隣諸国に放出していた軍事政権を相手に、貞子は人権について話し合ってある程度の理解を勝ち取り、欧米による厳しい批判・制裁の中で日本が水・医療・植林・空港はじめミャンマーにとっての最大の援助国となり、豊富な天然資源・軍事戦略を活かしてASEAN(東南アジア諸国連合)と一体化できるような土台をつくって帰ります。日本からの拠出金ならびに日本人女性への期待が高まる中、64歳の貞子は1991年に第8代国連難民高等弁務官にアジア初・女性初として就任、さらに2度再任され10年間にわたって従事します。貞子は難民問題を抱える紛争地を防弾チョッキ・ヘルメットで積極的に訪れる「現場主義」を貫きます。

「一番大事なことは苦しんでいる人間を守り、彼らの苦しみを和らげること」
 
貞子は1年の半分は現地で過ごしながら難民たちの声に耳を傾け、さらに地域の政治的なリーダーとも交渉します。湾岸戦争では、「内政干渉だ」と反対する各国外交官を説得して回って、トルコへの入国を拒否されイラク国内にとどまるクルド人を国内避難民として支援します。ボスニア紛争では、国連安全保障理事会から厳しい批判を浴びながらも人道支援の政治利用を断固拒否、サラエボへ食料の空輸を決行します。ルワンダ内戦では、武装集団だった人々を支援することに避難を浴びながらも、 アフリカ諸国の協力による治安維持軍を組織、「和解」と「共生」のために難民の武装解除をしながらルワンダ難民を母国に強制送還します。それから貞子はボスニアならびにルワンダで女性を中心とした様々なグループの出会いの場(難民と非難民、対立する民族同士など含む)、いろいろな職業訓練の場、ならびに新しい社会作りの中心勢力として「ボスニア女性イニシアチブ」「ルワンダ女性イニシアチブ」を組織します。

「人間の安全保障と国家の安全保障」
 
アフガニスタンから難民600万人が周辺のパキスタン・イランに流出。アフガニスタン難民のための支援金が毎年減っていく中、貞子はアフガニスタンに出かけタリバンと女子教育また女性就業について交渉、パキスタンに出かけ難民の受け入れと就業支援について相談。なかなか国際的な支援が得られない中でアフガニスタンは「忘れられた国」となり、9月11日にニューヨークでテロが起こります。アフガニスタンによる攻撃が開始、相当数のタリバンが追放されてようやく難民400万人は帰っていきます。2000年に約10年間務めた国連難民高等弁務官を退任した貞子は、小泉純一郎政権下でアフガニスタン戦争後の支援政府特別代表に就任。アフガニスタンはじめにオバマ政権のアメリカまた関連諸国と話し合いを調整、2002年に東京でアフガン復興支援国際会議を開催、カルザイ暫定政権議長(後の大統領)と共同議長を務めます。「復興援助をすることによって、少しでもいい生活ができる可能性を人々に分かってもらわなければならない。」2003年に新たに発足したJICAの初代理事長に就任すると、危険訓練を受けさせた若手を防弾チョッキと防弾車とともにいち早く復興支援の現場に送り込みます。タリバン政権崩壊から3年後の2004年、アフガニスタンで初めての大統領選挙が実現。貞子は晩年もテニスに打ち込みつつ世界を駆け巡りながら92歳で逝去します。

-聖心女子大学 University of Sacred Heart, Tokyo
-国連難民高等弁務官事務所 The UN Refugee Agency
-国際協力機構 JICA
-日本模擬国連 JMUN

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