Happy Women's Map 朝鮮王朝 武雄焼・有田焼の開祖 百婆仙 女史 / The Pioneering of Takeo-ware and Arita-ware, Ms. Pekpason
百婆仙
(萬了(法名・戒名)、妙泰(道号)、道婆(法号)、道婆(位号))
Ms. Hyakubasen / Pekpason
(Manryo (Dharma name/preceptual name), Myotai (Dogo name), Doba (Dharma name), Doba (Initial name))
1560 - 1656
朝鮮王朝 慶尚南道金海郡 生誕
Born in Gimhae-gun, Gyeongsangnam-do, Joseon Dynasty
百婆仙 女史は日本初の女性陶芸家で、有田焼草創期に陶工集団を率いた女性リーダーです。文禄の役(壬辰倭乱)に夫・宗伝とともに「日本の宝」の陶工首領として、武雄領主・後藤家信に連行され武雄領内で陶器ならびに磁器を焼き始め、夫の死後は陶工集団を統率して有田に移住して磁器生産を指揮しました。
Ms. Pekpason was Japan's first female potter artist and a pioneering female leader who led a group of potters during the formative years of Arita ware. During the Bunroku War (Keicho Invasion), she, along with her husband Soden, was recognized as a leading potter, deemed a "national treasure," and brought to the domain of Lord Goto Ujimoto in Takeo. There, she began firing pottery and porcelain. After her husband's passing, she continued to lead the group of potters, eventually relocating to Arita to focus on porcelain production.
「女性沙器匠」
妙泰は夫・宗伝に従って朝鮮慶尚南道の金海から、文禄の役(壬辰倭乱)の引き揚げ船に同乗して日本の武雄に渡ります。秀吉の死によりようやく帰国できる諸大名は、長い間の異郷での滞陣・自領民の徴兵狩り出し・食糧財貨の供出などで苦境に陥った領財政を立て直すべく、競って高麗の優れた技術者を連行します。武雄領主・後藤家信も帰陣の際に陶工の一団を連れ帰ります。その首領が妙泰と宋伝の沙器匠夫婦です。二人は従軍僧で広福寺住職の別宗和尚に帰依、一族30人と共に日本に渡ります。広福寺の門前の宿舎に旅装を解いた一行は翌日から陶土を探し求めて武雄一体を踏査。数年後ようやく皿屋の谷に窯をつくり、最初に焼いた抹茶茶碗を領主・家信に、香炉を別宗和尚に贈ります。2人は日本姓・深海に改名。資金ならびに土地を与えられ、武内町の内田・黒牟田などに移住して窯を築構します。やがて帰化した陶工たち900人を束ねるようになります。
「女性陶工リーダー」
妙泰は夫・宗伝とともに、茶碗・土瓶・大小の皿・徳利・壺・瓶・甕・鉢はじめさまざまな作品を個性的に手掛けます。ひも状の粘土を輪積みし内側と外側から叩いて締めて蹴りろくろを回しながら成形したら(叩き技法)、表面を彫って色のちがう粘土を嵌めこんでメリハリある模様をつけたり(象嵌)、白泥をハケで塗って模様を描いたり(刷毛目)、その上から鉄また銅を原料とする釉薬(鉄釉また銅釉)を塗って含有率と焼成の具合で黄・青磁・黒・柿また緑・赤の色合いまた質感を施します。妙泰と夫・宗伝は高麗で手掛けていた精白透明な磁器の製作にも取り掛かります。武雄の土は磁器の原料となる長石・珪石の含有量が少く、うわ薬を完全に溶かし美しい磁肌をこしらえようと高温で燃焼すると、素地が炎に耐えられず変形します。反対に、素地のひずみをなくして完全な形を整えるために火加減を弱めると、うわ薬が完全に解けずに透明度が鈍くなります。
「炎の女神」
妙泰と夫・宗伝の精進20年余り過ぎた頃、有田町で鍋島直茂が朝鮮から連れ帰った焼物頭・李参平が陶石を見つけて沸き立つ中、夫・宗伝が逝去します。妙泰は動揺する陶工たちを励まし、武雄領主・茂綱と交渉し、住み慣れた武内町から有田郷の稗古場・天神森に移転します。陶工集団960人を率いて新しい土地で白磁器の焼成を指揮します。登窯を築くための山間の丘を探し、運んだ陶石を水碓(唐臼)で細かく砕くための渓流を探し、窯の構造設計と焼成技術を駆使して、温度調節・燃焼効率・温度分布・酸化還元を操り、原料成分の溶融変化を見極めます。妙泰が60歳の頃、ようやく透き通るような乳白色で、叩くと金属的な音がする白磁器の焼成に成功します。妙泰はじめ陶工達は中国原産の希少な呉須(酸化コバルトを含む鉱物)の淡い藍色調で、春風に揺らぐ柳並木・野を掛ける兎・秋の野菊・池の端にたたずむ鷺・飛び交う山鳥など、郷里の山里の風景はじめ四季折々の風物また草花・禽獣を描きます。やがて高麗の半農反工の諸職人ならびに土着の諸細工人が有田に押し寄せ、需要と供給の不調和、山林の乱伐、朝鮮陶工と土着の陶工・農民との感情対立が深刻となります。妙泰は朝鮮と日本双方の社会でリーダーシップを発揮しながら、2男7女を育て96歳で永眠。次第に陶磁器生産は男性中心の労働となる中、有田焼の生産現場では、絵付けなどを中心に女性職人が消えることはありませんでした。
-報恩寺『萬了妙泰道婆之塔』
-株式会社新海商店
-ギャラリー百婆仙
-佐賀県立 九州陶磁文化館
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