Happy Women's Map 広島県広島市 ヒロシマ被爆者による英語通訳・英語証言の会を創始 小倉 桂子 女史 / Founder of Hiroshima Interpreters for Peace (HIP), Ms. Keiko Ogura
「被爆者は世界中にいる。」
"Atomic bomb victims exist worldwide."
小倉 桂子 女史
Ms. Keiko Ogura
1937 -
広島県広島市 生誕
Born in hiroshima-city, Hiroshima-ken
小倉桂子女史は「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」創始者。ヒロシマ被爆者の英語通訳者・コーディネーター・英語証言者として「ヒロシマの世界化」に尽力。ヒロシマの人が自ら英語で世界に語り継ぐ取り組みを開始。
Ms. Keiko Ogura, founder of the 'Hiroshima Interpreters for Peace', dedicated herself to the global awareness of Hiroshima as an English interpreter, coordinator, and English testimonial speaker for Hiroshima survivors. She initiated efforts for people from Hiroshima to convey their stories to the world in English.
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「宝石みたいなジェリービーンズやチョコレート」
桂子は日中戦争が始まった年に広島市横堀町(現中区榎町)で菓子問屋を営む両親のもと7人兄弟姉妹の4番目として生まれます。戦況悪化とともに7歳の時に、田園風景が広がる牛田(現東区)に引っ越します。8歳になったばかりの牛田国民学校2年生のある日、父が「何か嫌な予感がする。今日は学校に行くな」と言うので独りで自宅の北側の道で遊んでいると、桂子は突然目もくらむような閃光に包まれ凄まじい爆風により吹き飛ばされ路上に叩きつけられます。近所の藁わら屋根は瞬時に燃えだし、 家の天井や屋根瓦は吹き飛ばされ、戸や窓のガラスは数百の破片となって壁や柱に突き刺っています。すぐ後に、外に出た桂子の服をねっとりとした灰色の「黒い雨」が塗らします。近くの神社の高台に向かうと、幽霊のような列が押し寄せてきます。頭髪は焼け、すすで汚れた顔は腫れあがり、血まみれで皮膚が垂れ下がった人もいます。父は地域の世話係として毎日死体処理をする中、桂子は負傷者の傷にハエがたかり卵を産み、うじが湧く様子から目をそらすことができません。半壊の家は負傷した親戚・友人・隣人など負傷者であふれ、母や姉たちが看護に追われる家の中は、吐き気を催すような血、膿うみ、泥、焼け焦げた頭髪、汚物の臭いで充満します。広島は一晩中燃え続け、遺体を焼く煙があちこちで上がり、時折においが流れて来ます。 桂子は毎日、石段を登っては広島の街を見続けます。敗戦後、米国から届く援助物資「ララ物資」はじめ父が闇市で手に入れる「宝石みたいなジェリービーンズやチョコレート」に感動、桂子は英語を学ぶために外国人教師がいる広島女学院中高へ進学します。それから原爆に遭った女性への差別を恐れて「原爆に遭ったことは誰にも言うまい」とひそかに心に決めます。キリスト教と出合い、米兵と日本女性との間に生まれ乳児院に預けられた赤ちゃんのお世話をしたり、拘置所にいる人に聖句を書いた手紙を送って励ましたり、奉仕活動に励みます。17歳で洗礼を受け、日曜学校の先生をします。
「小倉馨とロベルト・ユンク」
広島女学院大学2年目の佳子は、ドイツ出身のユダヤ系ジャーナリストのロベルト・ユンクに、知人を通じて英語が話せる若い被爆者として取材を受けます。広島市民球場を批判するユンクに、「広島には希望が必要です」と桂子は答えます。大学を卒業した桂子は父の知人に頼まれバス会社で、豪華な外国人専用観光バスで英語のガイドを務めます。その頃、ユンクの協力者として取材を支えていた小倉馨と結婚。桂子は家事育児に義父母の介護にと忙しくする中、夫・馨は原爆資料館長や市長室次長を歴任、アメリカ・ニューヨークの国連本部での原爆写真展を開催して「ヒロシマの世界化」に尽くします。桂子は夫に「自分だけ勉強して。私には何の能力もない」と思いの丈をぶつけては夜に泣きます。そんな中、43歳の時に夫が突然倒れ帰らぬ人となります。途方に暮れる桂子に、ロベルト・ユンクから電話がかかってきます「君は愛する人を突然失った悲しみが分かる、被爆者の苦しみも知っている」。ユンクは到着するなり桂子を知識人や平和運動家たちの前に座らせて通訳させます。桂子は海外のジャーナリスト・研究者・平和運動家・作家・アーティストなどから次から次へとくる連絡・調整はじめ通訳に追われるようになります。夫の遺品の手帳を頼りに「小倉馨の妻です」と電話すると誰もが快く応じてくれます。YMCAや専門学校で英語講師を務めながら合間に外国人を案内する生活する中で桂子は葛藤します。「自分のことは隠したまま、同じように隠したいと思っている被爆者たちに無理やり話をさせてきた。私はなんて罪深いことをしているんだ。」封印を解いた桂子は証言活動も始め、西ドイツのニュルンベルクで開かれた「反核国際模擬法廷」に核兵器を告発する証人として参加。続いてアメリカ・ニューヨークで開かれた第1回核被害者世界大会で自ら英語で被爆証言を行います。原爆投下を正当化する相手との修羅場をくぐり抜けながらも、欧米の暮らしに根差した反核運動に刺激を受けた桂子は、平和交流イベント「平和ピクニック」「ぺあせろべ」を実施したり「ヒロシマ案内人」養成講座に従事したりしながら「平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)」を設立、被爆の事実を広島の人が自ら英語で世界に語り継ぐ取り組みを開始します。
-平和のためのヒロシマ通訳者グループ Hiroshima Interpreters for Peace (HIP)
-広島平和記念資料館 Hiroshima Peace Memorial Museum
-中國新聞ヒロシマメディアセンター Chugoku News Hiroshima Peace Media Center
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