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Happy Women's Map 岡山県岡山市 日本女性初オリンピックメダリスト 人見 絹枝 女史 / Japan's First Female Olympic Medalist, Ms. Kinue Hitomi

-岡山県遺跡&スポーツミュージアム / Okayama Ruins & Spoorts Museum

「私は日本を代表したのではないのだ。人見個人としてプラハに行ったのだ。」
"I did not represent Japan. I went to Prague as an individual."

人見  絹枝 女史
Ms. Kinue Hitomi
1907 - 1931
岡山県御津郡福浜村福成(現・岡山市南区福成) 生誕
Born in Okayama-city, Okayama-ken

人見 絹枝女史は日本人女性初のオリンピックメダリストです。第2回スウェーデン万国女子オリンピックで走り幅跳びと立ち幅跳びで優勝。第9回アムステルダム・オリンピックで800mで準優勝。第3回チェコ万国女子オリンピックで個人総合2位。日本の女子スポーツの啓蒙活動はじめ後進の育成さらに国際親善に尽力しました。
Ms. Kinue Hitomi is the first Japanese woman to win an Olympic medal. She won the 2nd Swedish Universal Women's Olympiad in the long jump and the standing long jump. She was runner-up in the 800m at the 9th Olympic Games in Amsterdam. She finished second in the individual all-around at the 3rd Czech World Women's Olympiad. She devoted herself to promoting women's sports in Japan, nurturing the next generation of athletes, and actively contributing to international goodwill efforts.

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「魚とり好きの算術嫌い」
 先祖代々からの農業を守りながら純朴な田園生活を続ける岡山市外の福浜村福成(現・岡山市南区福成)で、イネとイグサを栽培する裕福な自作農家に絹枝は生まれ、父・母・祖母・姉と一緒に元気いっぱいに育ちます。家の前の小川の水をせき止めて鮒・鯰・鰻とりに熱中、生意気をして大人しい姉を苦しめます。やがて教育熱心な両親のもと福浜村立福浜尋常高等小学校(現・岡山市立福浜小学校)でクラス級長を務め、仇を取る様に姉から薄暗いランプの下で1・2時間泣きながら算術を教わり、岡山県立岡山高等女学校(現・岡山県立岡山操山高校)に進学を果たします。

「テニス三昧」
 村で初めての女学校入学者となった絹枝は、あこがれの海老茶袴と皮の靴をはいて毎日片道約6 kmの道を意気揚々と徒歩通学します。テニスに打ち込むようになると、「ラケットを振り回して何になる!」祖母を筆頭に家族に反対される中、毎日授業が終わると2時から6時までコートで練習に励んで夕日と競走して走って帰宅します。女子スポーツに熱心な和気昌郎校長の指揮のもと、ペアを組んで県大会で強豪・岡山師範学校女子部を打ち負かして優勝します。ますますテニスに熱中して成績が落ちていく中、絹枝は卒業後について心配する様になります。

「陸上競技」
 女学校4年目の秋、脚気を患い修学旅行に行けない絹枝を、テニス部また陸上競技部の先生と校長先生が三つ巴になって「母校の為に」、第2回岡山県女子体育大会に出場させます。病床から無理を押して出場した絹枝は、走幅跳で4m67の日本女子最高記録で優勝してしまいます。すると、師範学校を勧める両親を説き伏せた和気校長の熱心な勧めで、絹枝は二階堂体操塾に入学することになります。竹藪に囲まれた武蔵野の広大な敷地500坪に運動場・体育館・寄宿舎で、「選手の精神が気に入らない」という塾長の二階堂トクヨから体操教師の指導を受けます。夏休みには郷里で陸上講習会を受け、第3回岡山県女子体育大会で三段跳で10m33の世界最高を記録します。

「体操教師」
 「塾にいて天分を発揮するのも結構ですが、人になるにはどうしても他人のご飯を食べなくてはだめです。1年間勤めてきなさい。」18歳で同塾を卒業して体操教師となった絹枝は、京都市立第一高等女学校(現・京都市立堀川高校)に赴任します。はじめて開かれるようになったバレーボールまたバスケットボールの女子大会に向けて熱心に指導を済ませた放課後に、走り幅跳びとやり投げの練習を日が暮れるまで続けます。まもなく、母校の「東京女子体育専門大学」認可のため、絹枝は体操の実技講師として全国はじめ台湾各地を巡回しながら、様々な陸上競技会に出場。50m競走・100m競走・三段跳で優勝、400m競走・走幅跳・砲丸投で日本記録を更新、三段跳で世界最高記録を更新します。

「スポーツ記者」
 その頃、大阪毎日新聞社運動課の木下東作部長から「1つの学校の先生になるのか日本の女子スポーツの先生になるのか」と説得され、スポーツ記者兼アスリートとなります。無理続きの記者生活で夜遅くに帰宅して11時か12時に就寝しながら、9時間睡眠をきっちりとって午後2・3時間トレーニングに励みます。関東大震災の翌年にスウェーデンのイエーテボリで第2回国際女子競技大会が開催が決定すると、木下部長はじめ大阪毎日新聞社に説得された19歳の絹枝は、シベリア鉄道に乗って監督もコーチもつかずたった一人で旅立ちます。途中下車して競技会に出場したハルビンの在留日本人80余名に「ぜひ勝って帰れ」と見送られながら、1か月かけて現地に到着。大阪毎日新聞社モスクワ特派員・黒田乙吉夫妻宅に下宿しながら競技大会に臨みます。走幅跳を5m50の世界記録で優勝、立ち幅跳びを2m47で優勝、個人総合で最高得点を挙げ最優秀選手に選ばれます。

「死の激走」
 帰国後、国内外の陸上競技大会で、50m競走・100m競走・200m競走・400m競走・立ち幅跳び・走幅跳で世界最高を記録。21歳のときに、オランダのアムステルダムオリンピックで女性の陸上競技5種目(100m競走・800m競走・走高跳・円盤投・400mリレー)が初めて認められると、 絹枝は日本女子選手として初出場。100m予選は1着で通過するも準決勝で4着となりまさかの敗退。「このままでは日本に帰れない」絹枝は、激励の電報が1本も入ってこない中、監督の反対を振り切って800m競走に出場。決勝のスタートダッシュで20mほど他選手を引き離し、ペースを落とした2周目の5位から第3コーナーで3位、第4コーナーで2位と順位を盛り返し、ラストストレートでトップのドイツのリナ・ラトケ選手にあと15mまで迫り必死に腕を振ってほとんど同時にゴールイン。次々と選手が倒れた「死の激走」で2分17秒4の日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となります。

「前途」
 「自分の体を自分の欲するままにしたことはなかった。」引退を考える絹枝は、「貴女の活躍の舞台は次々と広がっていっています。元気を出しなさい。」国際女子スポーツ連盟会長ミリヤ夫人からの手紙に励まされ、チェコ・プラハの女子オリンピック大会に後進の女子選手5名と一緒に参加することを決めます。競技者として各地に遠征する傍ら、記者として働きながら本を執筆したり、全国の女学校に募金箱を持って講演に回り大会遠征費の寄付を集めます。絹枝はマネージャー兼監督兼コーチとして、走幅跳で優勝、三種競技(100m競走、走高跳、やり投)で2位、やり投・60m競走で3位、400mリレーで4位、個人総合で2位、日本チームを参加18ヶ国中4位に導きます。さらに若い選手を引き連れてヨーロッパ各地を転戦、体調を崩しながらもポーランド・イギリス・ドイツ・ベルギー・フランスの女子対抗競技会全種目に出場します。帰途、日本での冷ややかな新聞報道や手紙などに選手達とともに深く傷つきますが、募金の御礼とスポーツ啓蒙のために各地に講演に出かける中で病臥に伏し24歳で死去。「私は日本を代表したのではないのだ。人見個人としてプラハに行ったのだ。」「前途を見よ。私の活躍すべき余地はいっぱいある」

-「スパイクの跡」(人見絹枝 著 / 平凡社 1930年)
-「ゴールに入る」(人見絹枝 著 / 成社 1932年)
-岡山県遺跡&スポーツミュージアム Okayama Ruins & Spoorts Museum
-日本体育大学 Japan Women's College of Physical Education

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