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Happy Women's Map 福島県会津若松市 リーダーシップを発揮した近代女性の先駆者 新島 八重 女史 / Japan's Pioneer of Women's Leadership, Ms. Yae Nijima

-同志社大学 / Doshisha University

「美徳を以て飾とせよ」
"Adorn yourself with virtue."

新島八重 女史
Ms. Yae Neesima 
1845 - 1932
福島県会津若松市
Born in Aizuwakamatsu-city, Fukushima-ken

新島八重女史は幕末・明治時代に女性砲術師、女性教育者、従軍看護婦、女性茶人として活躍、新しいライフスタイルを実践しながらリーダーシップを発揮した近代女性の先駆者です。
Ms.Yae Neeshima is a pioneer of modern women in the late Edo and Meiji periods, actively engaging in various roles such as female artillery officer, female educator, military nurse, and female tea practitioner. She practiced a new lifestyle and made significant leadership. 

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「女砲兵隊」
 八重は会津藩の砲術師範を勤める父・山本権八と母・佐久にもとに生まれ、裁縫よりも家芸の砲術に興味を示します。父はじめ兄・覚馬から洋式砲術の操作法を学び、八重は13歳になる頃には四斗俵(約60キロ)を持ち上げして22貫(約80キロ)の体に鍛えあげ、裁縫場に通っても稽古が終わるやいなら自宅に戻って射撃稽古に明け暮れ、元込式7連発スペンサー銃を操作できるまでになります。まもなく兄が江戸から招いた優秀な洋学者で藩校日新館の教授を務める川崎尚之助と結婚します。オランダ語の原書を読んで機械や弾薬の製造まで手掛ける夫・尚之助について八重はさらに砲術を学びます。やがて郷里会津は鳥羽・伏見の戦いでの敗北を機に新政府軍から『逆賊』として扱われ、戦火は会津各地から鶴ヶ城に広がり籠城戦となります。大砲隊を指揮する夫・尚之助に続いて八重も断髪・男装して会津若松城に籠城、自らスペンサー銃を持って奮戦します。城内の砲兵隊として最前線の北出丸に銃を据え、土砂を詰めたよろいびつを並べて、肉薄してくる官軍を日々撃退します。しかしながら同盟諸藩とともに会津も降伏します。

「女学長」
 敗戦後、八重は捕虜となった夫と生き別れ、夫の教え子で米沢藩士・内藤新一郎の世話で1年ほど米沢で母・佐久と兄嫁・うらとその子供たちと過ごします。あるとき薩摩屋敷に捕らわれている兄の噂話を耳にした八重は、京都府顧問となっていた兄・山本覚馬からの手紙を頼って上洛します。八重は兄の勧めで英語と聖書を学び始め、靴に履き替え、京都に新設された新英学校及女紅場の権舎長・教導試補として働きはじめます。八重は機織りや礼法・習字などを教えながら、京都府知事・槇村正直のもとに乗り込んで学校運営に関して頻繁に交渉に行きます。あるとき、アメリカン・ボードの宣教師ゴードン夫妻のもとを訪ねた八重は靴磨きをするアメリカ帰りの宣教師・新島襄と出会います。やがて兄のもとに寄宿してキリスト教主義の学校建設(後の同志社大学)に奔走する新島襄に賛同した八重は洗礼を受けキリスト教式の結婚式を挙げます。八重は西洋料理を覚え、洋装に靴を履き、「八重さん」「襄」と呼び合って常に連れ添って、クリスチャンホームを実践します。「日本ともつかず、西洋ともつかず、いはゆる鵺(ぬえ)」「亦癪(しゃく)にさはる」男子学生らの批判をものともせずに、八重は私塾デイヴィス邸での女子塾、同志社分校女紅場、同志社女学校、京都府看病婦学校と同志社病院の創設にも携わります。

「女茶人と看護婦」
 夫・襄が急逝すると八重は体調を崩し寝込みますが、やがて日本赤十字社の正社員となります。日清戦争が始まった年、日赤京都支部と京都看病婦学校から看護婦40 名を率いて広島第三予備病院に行き4ヶ月間の救護活動を行います。看護婦取締役として、怪我人の看護ならびに看護婦の地位向上にも努めます。その後、八重は日赤の補習科で看護を学び、 看護学修業証を得て看護学校の助教師を務めます。日露戦争時には、再び各地の病院を精力的に慰問、大阪陸軍予備病院で2ヶ月間救護活動を行います。 これらの功績によって勲七等宝冠章ならびに勲六等宝冠章が授与されます。八重は女紅場で茶道教授・円能斎の母である伊藤幾久寿と知り合ってから茶道に親しみ、49歳で茶道裏千家に入門、若い女性たちに茶道を教授し始めます。さらに京都府立第一高等女学校と京都市立第一女学校に八重は「茶義科」を開設。教授に圓能斎と幾久寿を迎えます。それまで男性中心だった茶道は、女子教育の一環として復活します。86歳で逝去するまで女子教育また社会奉仕に活発に活動を続けました。

-會津藩校 日新館 Aizu-Nisshinkan 
-同志社大学 Doshisha University

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