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「物語」に自縄自縛,作風の限界にもがく  ~劇評「物語なき、この世界。」

 ポツドールの三浦大輔は、ぎりぎりを攻めることで名を上げた劇作家・演出家だ。年齢と経験を重ねた今、彼は迷路にいるのではないか。自分が過去に作った作品が、彼自身を苦しめている、自身の作風という限界を突破できずにもがいている。三浦作・演出の新作「物語なき、この世界。」は、そんなことを感じさせた(7月13日鑑賞、渋谷・シアターコクーン)。

 舞台は、東京・新宿の歌舞伎町。さえないアラサー男性二人が偶然、高校卒業以来、再開する。一人は売れない役者(岡田将生)、もう一人は売れないミュージシャン(峯田和伸)。風俗店をはしごした二人は、路上のけんかで男(星田英利)を誤って殺してしまったかも知れない、という秘密を共有し、急速に親しくなる。役者の同棲中の恋人(内田理央)、ミュージシャンのバイトの後輩(柄本時生)も交えた逃走劇中、場末のクラブのママ(寺島しのぶ)と出会い……。

 テーマは「物語」そのもの。映画やテレビドラマや音楽の中で、都合良く展開される物語。自分自身が主人公の、自分の人生の物語。自分に物語がないと感じる者は物語を消費するため映画を見、音楽を聞くが、自身の物語では誰しも他者を脇役にすえる。物語は簡単に、作者=自分都合で書き換えられる。自分の目に見え、自分が感じたことが物語なので、同じ事実でも見る人・当事者によって筋書きは変ってくる。――という至極当たり前のことを、2時間以上(前半45分、20分休憩を挟んで、後半1時間40分)、延々と連ねる。頻出する「物語」「理屈」「事実」という単語が、考えすぎて思考が堂々巡りしてしまっている鬱屈状態の人の日記を思わせる。強い自己愛と自負心、同じくらいの自己不信と自己嫌悪を感じる。

 「物語」なんて要らない、「物語」を拒否したい、という、ただそれだけのことを言うのに、この豪華な出演陣と、大がかりな舞台機構(小さな回り舞台が二つ!、それぞれ2~3種類の異なるセットが用意されている)と、そして3時間近くもの時間を使う必要があったのだろうか。シアターコクーンの747席を満たした観客を巻き込んで。過激さで名を馳せた三浦の、自らの過去作品への言い訳めいた自問自答を延々と見せられても、「だから何なのだ」。作者の自家中毒に付き合わされているような、三浦の自己愛=マスターベーションを延々と見せつけられるような。

 若いころは発想と勢いだけで作品化できただろう。早大卒の肩書きも彼を後押ししたし、劇評家はこぞって彼の「新しさ」「新奇さ」に飛びつき、褒めそやした。だがすでにキャリアは20年以上。三浦も自らを客観視し、方法論を確立し、そして社会と切り結ぶ(=批判する)、または寝る(=迎合する、流行に乗る)ことが求められる年代だ。例えば同時代に頭角を現した岡田利規は、ダンスのような身体性の追求は極めつつも、新たな作風に挑戦し、演劇のみならず作家としても高い評価を得ている。対して三浦はどうか。作劇法に行き詰まりを感じ、演劇の虚構性を考えあぐねた先にたどり着いたのが、「そもそも、物語とは何なのか」をテーマにした今作だったように見える。

 三浦は自縄自縛に陥っている。本作は、一世を風靡した劇作家・演出家の、魂の苦悩と彷徨そのままの姿、と言えるかも知れない(8月3日まで)。

(2021,7,14、長友佐波子執筆)

「物語なき、この世界」は企画・製作:Bunkamura。東京・渋谷のBunkamuraシアターコクーンで7月11日~8月3日、京都の京都劇場で8月7~11日上演予定。

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