『ギターの先生⑯』
第16練習 ミドリと憑依と大作戦
相棒の『アギオ』の弦を付け替える作業も板についてきて、NEWTUBEの動画に頼らなくても上手くできるようになった。
とんでもない大冒険。
3曲を引っ提げて、バンドとして素人の主婦が初ライブを行うのだ。
勤め先のパン屋の店長は、ワタシよりも興奮気味にライブのポスターをデカデカと店先のガラス窓に貼ってくれた。
あと1カ月に迫り、毎日のギター練習に精を出す日々が続き、寝不足と指の痙攣と手首の筋肉痛で少し疲れが出始めている。
やはりこの疲れが取れずにいる現状を体感し、この青春が30年若い時だったらと心から思うのである。
「小林さん、がんばってくださいね。とっても楽しみにしていますから」
屈託のない店長とよっちゃんの笑顔に、肘をさすりながらも頑張らざるを得ない。
それでもこの疲れに、なんだか浮かれているワタシもいる。
同じパン屋のパート、同じ駅前の景色、同じ商店街、同じギター教室、同じカラオケボックス、同じお弁当作り、同じ毎日。
同じようで決して同じではないことに、ワタシが一番気づいているのだ。
昨日弾けなかった部分が今日はうまく弾けるようになって、みんなに褒められるとそれだけで舞い上がった。
脚光を浴びることに怯えていたワタシが、もしかしたら目立ちたがり屋だったのではないかと新たな自分を再発見して苦笑いした。
「コメコ、無理し過ぎないようにね」
ミドリと、久しぶりに2人きりでカラオケボックスの089号室にいる。
最近では平日でもお店が忙しくなってしまったらしくて、店長とバイト君がフィギュアスケート選手のようにクルクルと動き回っている。
今頃料金の安さと料理の上手さが地域の学生たちに浸透してきたらしく、子どもたちが学校帰りにわんさか押し寄せている。
それはまるで学園祭のようだった。
マキオはというとお店が学生の楽器購入シーズンでで立て込んでいるので手伝いをしていて夜にならないと来られない。
そしておんぷとメッチョと殿村君も遅れてくるらしい。
「ここで会ったのって、もう何年も前な気がするね」
初めての時の背筋が凍った感覚。あれは本当に今までで味わったことのない恐怖だった。
「そうだよね。でも、ああしか出られなくて。今でも鳥肌立つでしょ?」
そう言われてみればミドリを見ると寒気がするのは今もそう。
気にしなくなっただけで、鳥肌が立って背筋が凍るのは改善されない。
「悪いね。俺にもどうにもできないみたい。オバケ的な出方の合図、らしいから。伝統?みたいな」
ミドリはずっとギターを奏でたまま、ワタシと珍しく視線を合わさないようにしている。
ミドリは目を合わせない。
最初こそ話していたが、まるでひとりぼっち(見た目的にはそうなのだが)でカラオケボックスでギターを練習している状態のワタシだった。
「ライブ、楽しみね」
沈黙のあと、たまらずにそう呼びかけた。
天井からぶら下がって曲がかかってくれるのを待っている止まったままのミラーボールは、今のワタシみたいだ。
ミドリは小さく頷いたが、なんだかさみしそうな、切ない顔をしてうつむいた。
「でもさ」
やっと視線が合った。
ワタシに見せたそのミドリの顔は、おんぷが保育園で楽しく友達と遊んでいるお迎えまでの時間、他の友達にお迎えが来てしまって、帰らなくてはならなくなった時に見せる顔に似ていた。
名残惜しい、もっとみんなと遊んでいたいと願うような表情。
自分にも帰る場所があって、友達にも帰る場所があって、それはわかっているのだけれど、もう少しだけ遊びたいなあ。
欲張りかなあ?って、言いたげな表情。
「そのライブが終わったら、もし俺が成仏しちゃったら。もう、みんなに会えない?」
ミドリの初めての弱音だった。
抱きしめてあげたいと思った。でも、触れられない。
オバケというのはこういう時、どう励ましてあげればいいのか見当もつかない。
姿が見えるだけで、こちらから何かを与えてあげることができない。
走馬灯のように、ミドリとのこの何か月かの出来事が思い出されて急に寂しさがこみ上げてきた。
返す言葉が見つからないワタシは、ミドリを憐れんだように見つめるだけしかできない。
「はは、困るよね。そんなこと言われたって。ありがとう大丈夫。さあ、ギター一緒にがんばるよー」
自分で切ない気持ちを打ち消すように、ミドリはギターを持ちあげてワタシにわざと元気に言った。
念願のライブではあるけれど、たしかにミドリとは永遠のサヨナラになってしまうのかもしれない。
確かに成仏させることだけを念頭に置いていたけれど、それだけがミドリのためになることなのか?ミドリも参加させてあげることはできないのか?
なんとか一緒にどうにかできないのか?
その時ふと記憶の引き出しが開いた。
ワタシが子どもだった頃に片方の目を瞑りながら見た怪奇番組。そこで出てきて覚えているワードだった。
『憑依』。
それは霊が人間などにのりうつること。字面はとっても怖いけれど、もしかしたら今回に限っては良い方向で使えるかもしれない。
「あのさ。『憑依』って言葉、ミドリは知ってる?」
「もし可能であれば、ミドリがワタシの体に憑依してみるってことはできないのかしら」
大発見したみたいな顔でミドリがギターをソファーに置いた。
「なるほど」
「やったことないし、本当にそんなことできるのかどうかもわからないけれど、やってみる価値はあると思うの」
それからワタシとミドリは、真剣に『憑依』について考えた。
まず、やろうと思ってできることなのか。
「俺がコメコの口から入るって感じかなあ」
「え、なんかキモイ」
想像すると、すべての構図がいたたまれない。
「じゃあ、俺の体をコメコにかぶせる、とか」
「え、着ぐるみ的な?もしくは二人羽織的な?」
そんなことが本当に起こりうることなのか、偶然の産物なのか、ぶつかった拍子に2人が一体化するとか。
「ごめーん。遅れたー」
おんぷとメッチョと殿村君が三羽烏のように並んでやってきた。
なんだか手に紙袋を下げている。
「何、ママ踊り踊ってどした?」
ミドリと話をしている時、傍から見るとワタシは踊りを踊っているように見えるらしい。
思っている以上に身振り手振りが激しいようだ。
それをよそに、メッチョと殿村君が袋からドーナツを取り出し呑気に食べだした。
「ママもどう?」
言われるがままにドーナツを口に入れる。
「あれ、甘くないこのドーナツ」
「やだ。パン屋で働いてるくせに。これ、ベーグルだよママ」
なんでも今日は、おんぷの学校近くのベーグル屋が10周年を迎え、感謝を込めて100円均一をやっていたのだそうだ。
そういうことか。
ドーナツだと思ったらベーグルだった。
ワタシだと思ったらミドリだった。
思い込むというのは結構大事なことなのかもしれない。
特に、ミドリがワタシになりたいと思い込むことが。
マキオもやって来た夜7時。
ワタシたちは(受験生3人は帰して)バンド練習のため『ミケランジェロ』に向かう。
今月のみ、ミケランジェロは店の定休日に練習させてくれることになったのだ。
いつもはカラオケボックスの外までミドリが憑いてこられないが、今回は初めて実験してみることにする。
「ミドリ、どうしてもワタシになりたいって、今一生懸命強く死ぬほど思い込んでみて」
ミドリは真剣な面持ちで頷いた。
カラオケボックスを出る。
ポイン。
多分パパかおんぷからの連絡だろう。
「今日は練習がんばって💪」
パパからだった。夕飯はおんぷの分も作ってくれるのだそうだ。
夜空には新月。
なんだか急に寒い風が吹く。
ミドリは果たして、ワタシの体にうまく入り込めるのだろうか