料理とnoteと、洋風墓地と。
料理、それは自由の宇宙だ。
味覚を含む創造物のギャラリーだ。
和洋中、沖縄、エスニック、創作。
数々のレストラン、食堂、カフェ、小料理屋、居酒屋、キッチンカー、屋台、我が家のキッチン。
食材のハーモニー、組み合わせのマジック。
写真を撮るとビジュアルは残り、その味は記憶に焼きつく。
とってはおけないライブ感は、どちらかというと音楽に近い。
食べる人と空間と場面を彩るインスタレーションだ。
味もまた形状と、表面の肌触りと、大きさの要素を持ち、似た味覚には共通の質感がある。
ブログ的で、SNS要素があり、かつ白い紙のように自由に考えや想いを描けるnoteも、ギャラリーみたいだと思う。
スクロールしながら、タイトルやサムネイルが気になったページに飛ぶ。
宇宙から、ひとつの星に着地して探索する。
身を包む大気の香りや色や温かさがある。
心地よいとき、「スキ」をおす。
いろんな人がいて、いろんな考えがあって、いろんな表現がされているのを見るのが好きだ。
そういう場所が守られている時代が好きだ。
表さずにはいられなくて命を燃やして書いている人、描いている人、歌っている人、踊っている人が好きだ。
頬を撫でるみたいに字面を味わい、抱きしめるみたいにして熟読する。
音楽には舌触りがあるし、踊りには色がある。
オーケストラはいつでも立体で、絵画からは玉のようなリズムが降ってくる。
文章を書くときは、もうほとんどダイビングのようだ。
一歩間違えば、命にかかわる。
生々しく、身体感触を伴い、刺激に満ち、やがて究極のリラックスに辿り着く。
父の眠る墓地は、政令指定都市の街はずれにある。
桜や針葉樹、季節の花々が出迎えるのも素晴らしいが、手入れされた芝生も素晴らしい。
黄緑色の絨毯は、溌剌として若々しい。
日々のこと、昔のこと、考えていることなどをぽちぽちと話しながら、母とお参りをする。
広大な敷地の区画のうちの幾つかは、洋墓の専用になっている。
その形状も、色も、刻まれた文字もさまざまで、人々の想いもさまざまであることを思わせる。
美術館を訪れるみたいに、立体作品のギャラリーのような霊園にあえて行くことはない。
でも、いつもより少し厳かで、いつもより少し静謐な気持ちで手を合わせにいく月命日、
区画と大きさ、最低限の決まりのなかで、人々が思い思いに弔いを表現していることを知る。たびたび。
整然と、しかし伸びやかに、そして真摯に祀られた墓石やお供えの花を眺める。
ほんとうに人の気持ちは自由だね、と話しながら。