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想像現実 00

平成が令和に変わる前後20年くらいで仮想空間のあり方が大きく変わっていった。VR(virtual reality)に始まり、AR(Augmented Reality)、MR(Mixed Reality)と新しい考え方・技術が生まれ、SF小説やマンガの中の世界のように現実以外の仮想空間へ世界がどんどん拡張されていった。ただ、それはどこかの誰かの作ったコンテンツや情報を見るということにおいて、モニターで見るTV番組や映画、ニュース、SNSの見方が変わったにすぎなく、楽しみ方の選択肢や便利度は増えても必ずしも、生活になくてはならないものではなかった。ビジネスユースに関しては遠隔操作の制度をあげるだのシュミレーションに便利という観点からいまだ研究開発は進めれているが、個人ユーザーに関しては遊園地の人気アトラクションを超えるようなものはなかなか登場していない。名前がニュースを彩るほど一般に浸透しているとは言いがたかった。スタートするニュースは多いが結果や成果が報道されることは少なかった。
そんなときマセマティック社という企業が新しい端末を発表した。どこかの企業や大学の研究機関が、そういったテクノロジーを開発しているとの情報もいっさいなく、突然発表されたその端末は、これまでのものとは全く違っていた。額につけるタイプの「YWY00」というその端末はまさに革新的だった。装着した人間の思い描く映像を形にする。誰かの創造した映像ではなく自分の頭の中にある映像を具現化して見せてくれる、亡くなった人、死んだペット、別れた恋人、忘れられない景色を目の前に展開してくれる夢のような装置。その技術はIR(Imagined reality)と呼ばれた。けれど世の中には想像力のない人間が殊の外多いこともわかった、明確な映像を思い描ける人に渡らなかったこともあり、装置の発表時は嘲笑を浴びるようなものだった。公的機関のお墨付きのないその技術は、痩せるトレーニングマシンのような扱いで怪しいトンデモ商品としてこのまま埋もれていくかと思われた、発表したマセマティック社もそれほどプロモーションに力を入れていないように見えた。それでもイメージを明確にもてる人々の口コミもあり少しずつ浸透していき、ベットから起き上がることのできない患者や想像力を仕事にしているクリエイターなどに絶対的な支持を受けはじめた。IRはソフトウエアがオープンソース(誰でも無償で改良、再配布が可能)ということもあり、描いた映像を録画して書き出したり、それを共有するサービスが出回りそのあたりから市場は拡大しつづけた。そして「YWY00」から2年後に発売された「YWY01」では、ある程度のイメージを思い描けば、AIが詳細は補完してくれるというイージーモードという機能が装備されさらに爆発的に広まっていった。まさに夢に出てくる人物のように、ちょっとぼやけていて朧げだけどその人ということはわかるといったものを、比較的簡単にイメージできたのでハードルが一気に下がったのだ。さらに価格が下がったこともありその出荷数は毎年倍に増えていった。

そして世の中は変わってしまった。

その後数年で人々は大まかに二つの分類に分けられることになった。想像力のある人間、想像力のない人間。より詳細なイメージを構築できるプロ用機器「YWY-X」が発表されると映像制作、図面描きその他のクリエイティブな仕事やそれ以外でも以前はクリエイティブと思われていなかった作業、ラインの構築、プレゼンテーション、デモンストレーション、シュミレーションなども想像力が重要であることがわかりはじめた。そこまで単純ではないが、ざっくり想像力のない人間は下層の単純労働に、想像力のある人間は上層の仕事へというふうに傾き始めた。ただ想像力を仕事に生かす場合、思い込みと想像力は違うということを理解できない輩が多い。アーティスト以外の思い込みは大抵それ以外の人の仕事を増やすか、プロジェクトを破壊することになる。それだけに正しいと言って良いかはわからないが、想像力のクオリティは重要なスキルになっていった。親はこぞって子供を想像力を伸ばすスクールに入れ始める。俗にいう想像力格差社会というやつだ。とにかく社会は大きく変わってしまった。個人ユースのIRは自分の世界にハマる、いわゆる引きこもりを増やして社会問題にもなっている。自分の理想や思い出の世界からなかなか離れたがらない奴が増えたってことだ。人々の生活の中にIRが少しずつ広まって、思い描くイメージは時にその人間の深層真理を描き出してしまうことから、イメージの引力に捕まってしまう、または大きく影響を受けてしまう場合もある。良かれ悪かれ剥き身の心で向き合うような覚悟が必要な場合もあるってことだ。物事には常に良い面と悪い面がある。コインの裏表のように。

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