実るほど頭を垂れる稲穂かな
おじいちゃんの口癖だった。
好きな言葉だ。
今朝のわたしは時間差で大きな愛を受け取った。
それは
『わたしは、やっぱりまだまだ何にも知らないんだな』
という気づきと愛だった。
とある友人の経験談で
『ダメな自分を受け入れた時、シフトチェンジが起き、世界の見え方が変わった。
そしてずっと前からそこにあった無償の愛を受け取り、周りの世界のあちらこちらのある(すでにある愛)に気づき感謝が溢れた。』と言う話を聞いたばかりだった。
ずっと逃げ越しだったわたしは、出来ない自分を受け入れる勇気がなかった。
大切なことだけに、やるなら自分の限界まで根を詰めて完璧に仕上げたい…みたいな変な拘りがゴールまでに始終あり、肩の力を抜くことができない。
ゆとりがなくてガチガチだと寧ろ良いパフォーマンスは提供出来ない。
長距離走に猛ダッシュし続けるみたいな意気込みにスタート前のストレッチの時点(考えただけ)でぐったりな訳である。
そしてガチガチの心では、相手や世界に委ねることができず、自分の枠を出れず、差し出されているお水すら気がつかず、平均台のような細い視野を猛ダッシュで走ろうとしている訳だから、ますます…である。
ましてや、伴走者の走るスペースなんて無い。
それは、孤独な訳である。
そんなわたしも晴れて完璧(そもそも完璧ってなんだ? それぞれの視点から全然求める完璧すら違うものであるのに)を手放す事ができたのだ。
この世は常に最高のものが、最高のタイミングで届くのだ。
だから、今できることをし、臨機応変に対応できるゆとりを持つことの方が大事なようで、結果良い現実を生むであろう。(ただし、ものごとのはじまりになる思いは、重要である)
完璧を手放し、出来ない自分を受け入れ、今できることから向き合っていこうと緩んだタイミングで、とてつもない大きな愛を受け取ったのである。
器の大きい本物に…
その世界の入り口に…
わたしは、触れたのだろう。
それは、手放したから受け取ったのではなく、手放す前からずっとあったのだ。
そして、何も知らないわたしを改めて知り、嬉しい限りである。
実るほど頭を垂れる稲穂かな…の姿を
ただある
と言う姿で見せてくれた世界、器の大きなカッコいい人たちがいると言う喜び。
自分をはじめて磨きたいと思った。(note 記事 過去からのアドバイス https://note.com/happymomo888/n/n4ae571830b89)
そして、それをわたしもあり方として、迷いなく渡せる自分になろう。
器を広げよう。
そんな希望の朝だった。