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人間は考える葦である。

最近は、YouTubeで勉強ができる時代になり、私は、アバタローさんの本の要約を見ている。簡単に情報が手に入ることはいいことでもあり、悪いことでもあると思っています。その情報をうまく使うことができて初めて、いいと言えるのではないかと思っている。

本題にはいく。

結論は、3つ。「自我は、ほとんどの場面でいらない」「不幸になるから気晴らしが必要だが、自分自身について思考を深める時間は必要」「正しく、考えることが人間としての価値」

正しく考えることが人間の価値である。
正しくとは、終わりがあることを知り、その上で今あるべき姿、生き方を考えること。

自分しか愛さず、自分しか尊敬しないことが最大の自己愛。
その中心にあるもの「自我」

自我というものは憎むべきものなのだ。なぜなら、自分を全ての物事の中心にしようとしてしまうし、他人を従わせようとしてしまうからだ。
面白いことに、誰かに親切なことをすることも他人によく思われたいと思う、虚栄心でこれも他者にいいように思われたいと意識してしまう自我なのだ。

私もそれを体験した出来事があった。
お付き合いしていた時の話だ。彼女がすることに私は許せないことがあった。そのことを相手に一方的に話して、納得させようとした。しかしそれは、自分を中心にしてることだった。相手の、価値観、してはいけないボーダーラインと、自分の価値観、ボーダーラインは全く違う。だから、それは正しいやり方ではなかった。

これを踏まえた上で、結局どっちなんだと思った。私は考えた上で、自我を持つべき時、いらない時を使い分けることができたら、それが正解なのかなと思った。

他者に認められたい心。
「人間みな、虚栄心を持っている。誰かに褒められたい、認められたい」


人間は、いつでも不幸を感じてしまう生き物。だから部屋でじっとしていると嫌な事ばかりを考えてしまう。
その結果、気晴らしが生まれたのだ。「ギャンブル」「旅行」「趣味」など様々なもの。
真の幸福とは、「金」「食べ物」ではなく、不幸だと思うことが無くなることだ。

人は、有名になりたいと思うし、多くに人に褒められたいと思う。一方で、自分の周りの5人ぐらいに褒められたり、認められることでも十分に幸せになれるのだ。
好奇心も、虚栄心から来ているのだ。誰かに褒められたい、話したい気持ちがないのに、死の危険がある、航海などしないし、誰も食べたことのない食べ物を食べない。
なので、人類が進歩して行くために、虚栄心は必要な部分である。

これを踏まえた上で、気晴らしだけをやっていてもダメだということ。
確かに不幸を感じる瞬間は圧倒的に減るかも知れない。
しかし、自分のことにたいして、思考を深めることも大事なのだ。

これも体験したことがある、毎日バイトがあった時があった。大したことをしてるわけではないのに、忙しく、充実感を感じ、不安になったり、不幸になることがなかった。
逆に、1日何もないから、家から出ないでゆっくりしようと思うと、「家でも没頭できる趣味がある場合の人は例外かもしれない」彼女、友達何してるかな?とか彼女の返信が遅かったら不安、不幸になる。どっちも感じたことがあるからこそ、この内容にとても納得できた。

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