罪と恥、唯一神と世間。
日本だけでなく世界中で新型コロナウイルスが猛威を振るい、昨年2020年の前半では株式市場がいったん急落。しかしその後、金融緩和による資金が流れ込んだのか、株価は再び上昇したようです。
ただ、実体経済は(中国などの一部の国を除いて)ほとんどの国が苦しいはず。たとえ資金流入があったとしても、実体経済と株式市場の落差が、私のアタマでは今ひとつ理解できません。
そこで「新訳 バブルの歴史」エドワード・チャンセラー/著 長尾慎太郎/監訳 パンローリング社(原題 Devil Take the Hindmost : A History of Financial Speculation)を読んでみました。
古代ローマ、オランダ、イギリスやアメリカ、20世紀後半の日本も含めて、バブルの歴史が描かれています。
それで今の状況を完全に理解できたのか、というと、まだまだ分かるような分からないような・・・
されど思わぬ収穫もありました。
第9章 カミカゼ資本主義 1980年代の日本のバブル経済
を読んでいて、興味深い記述があったのです。
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悪事が公になると日本人が感じるのは罪の意識ではなく、恥だった。
<中略>
資本主義の欧米モデルは個人主義を重視する。たとえ一人ひとりの行動が個人の利益を追求するものであっても、それが無数に集まれば「見えざる手」によって社会全体の利益になるということである。
-----------------------------------(Kindle本 5981ページより)
見えざる手、というのは「神の見えざる手」ということでしょう。
一人ひとりが個人の利益を追求し、それが無数に集まれば「神の見えざる手」によって社会全体の利益になる。
・・というプロテスタント的な価値観は、日本社会ではなじみが薄いかもしれません。
また、欧米ないしキリスト教における罪の意識とは、
「唯一神に対する」罪なのでしょう。
それに対して、日本における恥の意識は
「世間に対する」恥であるように思えます。
日本の場合、八百万の神々(やおよろずのかみがみ)という言葉があるように、唯一神の風土ではありません。神々は豊かな恵みをもたらし、ときに恐るべき災害をもたらす。日本人の伝統的な神々への態度は「畏敬」というべきものでしょう。
神々を畏れ敬いつつ、狩猟採集・農耕、そして工業と「世間」で力を合わせて災害の多い風土を生き抜いてきた。
唯一神への原罪という意識はあまりなく、世間への恥は意識してしまう。
世間とやらは、わずらわしいコトも多い。けれど、とくに災害時は一人の力だけでは対処しきれません。世間への恥は、生存にも響いてきちゃいます。
魚にとって水が当たり前であるように、日本人にとって日本社会はごく当たり前に存在しています。だからこそ、あまり深く考えなかったりする。
国富論のアダム・スミスを生んだ国の著者のおかげで「神の見えざる手」というキーワードから補助線を引き、日本人である私が日本についてより深く理解する助けになりました。
株価のバブルについては、まだまだ理解が浅いのですが・・・
母国である日本の理解を深めたことが、思わぬ収穫でございました。