見出し画像

お母さんのいない世界

この言葉がふと、先日頭に思い浮かんだ。

友人のお母さんが亡くなり2か月が過ぎた。月命日には花をもっていく。そしてダイニングのコーナーに作っ「お母さん」の場所。彼女の位牌が小さな箱に入ってちょこんと置かれている。彼女の友達だった陶芸家の女性に「壺」を作ってもらっているらしい。

お母さんのいない家は、キッチンは、がらんとしている。小柄な彼女が一人いないだけでも、家の中ががらんとしている。

でも、時はしっかり流れている。友人もその現実と、悲しみを行ったり来たりの日々を過ごし、時折お互いにメッセージを送り合ったりしていた。

私もいつもの心に戻りつつ。そんなある日、私のならないで有名な携帯に着信があった。子供の習い事つながりのお母さんからだった。

いつもはテキストを送ってくる彼女。少し胸騒ぎがしつつ、電話をかけなおした。

元気?と疑心暗鬼ぎみに聞いてみると、彼女のいつもの元気な声とは違い、「うん、私は元気。ハナは元気にしてた?」と。コロナの関係で、少なくなりつつある、お母さん同士の立ち話。彼女と話すのも久しぶりだった。

「ジルが先週末に亡くなったの」

突如彼女が言った言葉に、時が止まった。

ジルは子供の習い事で知り合ったお母さんでだ。ベテラン組のお母さんということもあって、いろんなことを教えてくれた。気さくで明るい、元気なお母さん。運転が大好きで、子供と大会に行って夜通し運転して帰ってくるなんてことはしょっちゅうだった。

クラスが違うけれど、駐車場で会うと、一生懸命手を振って、「ハナーー元気にしてた??」と大きな笑顔で車の窓から声をかけてくれたジル。亡くなる一週間前に、ボランティアのミーティングで会ったばかり。それも、相変わらずの元気よさで、いつもの笑顔だった。

ボランティアの中で、一番好きなお母さんだった。子供の年齢も上ということもあって、先輩ママとしてのアドバイスももらうこともあった。

彼女と一番親しくしていたお母さんが取りまとめをし、カードやギフトカード、そして食べものなどを持ち寄ることになった。

私はカードを買いに、お店に行って唖然とした。カードの「お母さん」コーナーのカードの枚数が少ないことに。「お父さん」は詰まるほどあった。

別のお店に行ってみてもそれは一緒だった。

子供が学校に行き始めてから、「お母さん」が亡くなるニュースが入ったのはジルで5人目。

「お父さん」は今のところ、ない。全くもって、ない。

みんな、働くお母さんだ。

日本で男女雇用均等法が制定されたのが1985年、施行されたのが翌年86年。私はその数年後に社会に出た。育休を取り始める女性も出始め、引継ぎやらなんやら、も経験した。

女性が社会進出することを手伝うシステムだと、私は理解している。

そういうシステムがいつつくられたのか、定かではないこの国で、女性が働くのは当たり前、の世の中で今私は子育てをしている。日本よりも、早く多分女性の社会進出が進んでいると思われる。

というのも、大型店舗の薬局やスーパーに行くと「店長」の写真があるけれど、殆ど女性が多い。責任者の写真は8割と言っていいほど、女性。

私は90年代の育休を取ったお母さんたちを見ているから、「いいとこどり」ばかりをする人たちというイメージの強かった「働くお母さん」。

ところが、実際子供が学校に入り、ボランティアに参加すると、休みを取ってきたり、しっかりと、サポートをしている。子供が熱出したっていえば休めるしぃーとずる休みをしていたお母さんどころか、休みはとことん、子供の行事に使うために残している人たちばかり。反対に「家にいるお母さん」は子供に手がかかるから、とボランティアを来ない人の多いことに私は驚いた(もちろん、子供をスリングに入れてくるお母さんたちもいた)

遠足の付き添いの9割は働くお母さんたちばかりだった。彼女たちの全てマルチにこなす姿に私はほれぼれとした。この時私は「働くお母さん」への尊敬の念が芽生えた。少なくともずるいお母さんたちではなかった。

朝から晩まで走り回るお母さんたち。習い事の合間で家に帰ることができるときは、かえって、夜ご飯の支度、もしくは兄弟がいるときは他の兄弟の送り迎えなど。

いつ寝ているんだろう、というスケジュールの中で彼女たちは生活している。それも週末の休みもなく。

昔のお父さんのようにフルで働き、家に帰れば昔のお母さんのように、家のことをこなす。もちろん、家によってはご主人のサポートもあるけれど、ほとんどのお母さんが「司令塔」で言われるがままに「なんだかわからないけど、動く」お父さんたち。

女性が社会に進出するようになって、そして結婚もとなった時、しわ寄せは女性に来ることがほとんどだなと私は思う。

もちろん、そのスケジュールに生き生きしている人や、サポートが湯水のように、もらえる人もいるだろう。けれど、私の周りは、夫婦でこなしている人が殆どだ。愚痴ることもなく、自分自身で「生き抜き」を「隙間時間」にこなす彼女たち。

少し前に何かで読んだコラムで、「社会進出だけが女性を輝かせる場ではない」というようなことを書いてあった。家にいて子育てをしていても、輝いている人はいる、と。

私もそう、思う。輝く輝かないは本人の思いであって。他人からみて輝いているかもしれないけど、体の不調を顧みず、走り回ることを輝くとは私は言えないと思う。

不器用な私にはできないし、パートで働いていた時も、生きているのか死んでいるのか、自分でもわからないような時の流れの中で、ゾンビのように、メール返信をし、ミーティングに出かけ、埴輪のようにな顔で話を聞き、結局生産性のない、日々を送っていた。それも朝から晩まで、7日間続けて。

だから、働くお母さんの「常に心身ともに緊張感みなぎる日々」に尊敬するとともに、私は彼女たちの健康を心配してしまうのだ。

お母さん、がいないこと、がどんなに大きいことか、最近考えさせられる。それは子供が何歳になったとしても、だ。そして難しい年ごろを過ごしている自分の子供の友達達も、お母さんのいない子は精神的に、つらい日々を送っているのだ。

とりとめのないこの問題。私が勝手に問題視しているだけなのはわかるけれど、でも、もう一度考えてほしい、何が一番「自分」に優しい環境なのか。

世の中のお母さんたちに元気で健康で、そしてハッピーに過ごしてほしい、と願うばかり。子供を残して逝くことは本当につらいこと。そして残された子供たちもそれ以上につらいこと。

お母さんたちに元気に生き抜いて欲しい。フレーフレーお母さんたち。

そしてお父さんたちにも、家事の参加というより、やはり家の中でも「男女雇用均等」が施行されることを私は個人的に願う。お母さんたちが足を上げて、ふぅーーっとワインなり、コーヒーなり息抜きができるように、そんな時間が持てるように、お父さんたちも頑張って欲しいと、願う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?