次の世代へ
少し前の記事で、私は友達のお母さんの病気を知らされたことを書いた。
6月の半ば過ぎから、私は足のむくみのケアにあるときは毎日、朝晩、ある時は一日おき、ある時はまた朝晩。それを繰り返し彼らの家に行っていた。
持病のめまいが始まってからやめた車の運転を再開し、殆ど意地に近いような状態で、私は通っていた。
いや彼女が回復することに、意地になっていたのだ。
彼女は、とても厳しく、でもとても深い愛情にあふれた人で、正義感の塊のようなくらいまっすぐで、おしゃれさん。
私はそんな彼女が大好きだった。少し自分の母親にも似ているところがある、というのも彼女を好きな要因だったかもしれない。
8月17日、夜の10時過ぎに、彼女は亡くなった。
そのころ私は調べ物をデスクでしていた。自分の携帯のテキストの着信音が鳴り開くと、友人からのメッセージ。
「母が、亡くなりました・・・・・多分」
私は多分、の言葉にしがみついた。多分、であって欲しい、そう願いながら。
何度も打ち返そうと、文字を打つけれど、言葉になっていない。焦る気持ちが返信を遅らせてしまった。と同時に、終末看護ケアの人の連絡などで忙しいかも、と思い、現実的になり、しばらく返信を待った。
涙が止まらなかった。
この10日ほど前、私は彼女に最後にあった。というのも、息子さんが外国から帰国したため、自粛生活をするために、私はもう訪問することは許されなかったのだ。だから、その最後の日に、最後のマッサージをしに、行った。
その時すでに彼女は殆どの時間を寝て過ごしていた。最後のトリートメントを終えて、2回目はランチの後にね。とベッドルームを後にした。
その時、ふとちゃんと話すべきじゃないか、と思った自分がいたけれど、私は「あえて」寝室には戻らなかった。結局家を出るときも、寝ている彼女を起こすことはしたくなくて、またね、も言わず家を後にした。
それが後悔となって心にあふれてきた。ちゃんとありがとうを言えただろうか。ちゃんと、大好きだという事を伝えただろうか。
いたたまれなくなり、私は車に乗り、小雨の降る中、彼女の家に行った。
運転していて、ふと、突然行くことは失礼と気づき、車を路肩に止めテキストを送った。家に入れないことも、わかっていた。けれど、友人が心配だった。顔を見れば安心できる。そしてお母さんの魂がまだ家の周りを飛んでいるんじゃないか、と思い、とてもとても会いたくなった。
「え??来るの??え??夜の運転大丈夫??」
これが彼女からの返信だった。
時計の針はもう12時を回っていた。
家の前に車を止めると、友人が出てきた。
「ハナ、なんかさ、涙が出ないんだけど」
から笑いする、友人。亡くなった時から今までの話、そして今しないといけないことの話をしてくれた。
「私はひどい娘なのかなあ、涙が出ない。ホント怖いくらいでないのよ」
真面目にソーシャルディスタンスを守る私たち。これがなければ、ハグをして泣けたのかもしれない。一方の私は、連絡のあった時から、止まらない涙を拭き続けたせいか、泣きはらした目で、化粧もせず、髪の毛も、無造作にお団子にしただけだ。
「ひどくないよ。今は現実が慌ただしくて、涙の出る暇がないし、気がぴーーーーんって張ってるんだよ」
自分の父が亡くなった時もそうだった。涙が出たのは葬儀を終え、仕事に戻り、職場のデスクで、漫画のように見事に積みあがった書類を片付けた日の夜だった。
そう、悲しすぎると、現実を受け止められないと、涙って出ないものだ。
「大丈夫?」
今思うとバカな質問だと思う。
「ハナこそ、かなり危険だよ」と笑う友人。
「沈没してるかも」と笑い返した。
その時ふと、左腕をつかまれた気がした。ぎゅっと。一度だけ、お母さんのトイレに支えて付きそったことがあった。その時彼女が握りしめたときの力と全く同じものだった。
生きようと頑張っていた友人の母。病院もさじを投げ、神のみぞ知る、というような状況だった、この2か月。いや、友人にしたら6か月。
毎日インターネットやら、自分の知識やら。夜中までリサーチをして。マッサージオイルを調合して。友人とテキストし合って、そんな日々だった。
またね、が言えなかったこと。後悔したけれど、今はもう後悔はない。
冷静になって、今思うことは、私は「スローグッバイ」を彼女としたような気がする。暖かで静かで、優しい時間を送らせてもらったことが私には十分すぎるくらいだった。その時間が私にはとても大事なもので、それだけで全てだと今は思えるのだ。さよならすることは大事なことではない。
きっといつか会えると思うから。
そして彼女は今みんなのところに遊びに言っているのだ。
あの夜、左腕をつかまれた感覚以来何も感じることも気になることもない。
そう、私とのさよならは、あれで終わり。もう進みなさいと言われているようだ。
彼女が亡くなって1か月半。涙が止まらない時間もある。友人も元気になりつつも、不思議な体験をしながらお母さんを感じつつ、少しずつではあるけれど、前進している。そしてお母さんに似てきたなあ、と私は第三者として思うのだ。こんなに強かったっけ??と笑いながら言う私に「自分でもなんか口調が母に似てきた気がしてきてね」と笑い返す友人。
今では娘ちゃんが彼女の心の支えになり、運転し始めた車で、ドライブに連れて行ってくれるようだ。
友人のお母さんに教えてもらったことが沢山あった。
残りの人生をどう生きるべきか、彼女が示してくれたような気がする。
いつも行くと、「ハナーーー!」とベッドから手を振って待ってくれていた彼女。友人が、「今日は何時にハナは来るの?って朝からうるさいのよーー」
いつも待ってくれていた。「今日の夜は来れないの?」と聞かれることもあった。
セラピスト冥利に尽きるとはこのことだ。
生きているという気持ちにさせてくれたお母さん。残りの人生この気持ちを忘れずに生きていこうと思う。そして私もきちんと自分の子供に、世代交代をしていこうと思う。彼女が友人にしっかりしていったように。
今はただただ、彼女が痛みがなく、幸せな時間だけが流れる場所で暮らしていることを願うばかり。そしてありがとう、とまたね、を伝えたいと、心から思う毎日だ。