シスターの述懐

 シスター・アン粟津は車窓を物凄いスピードで流れ去る夕暮れの田園風景をぼんやり眺めていた。あと二時間もすれば修道院に着いてしまう。帰りを待ち構えているであろうフジモリ院長に、さきほどの面会の様子を報告しなければならないと思うと気が重かった。
 このところずっと、今日のように複雑で憂鬱な、それでいて興奮してわくわくする高揚感が入り混ざる妙な気分にとらわれている。予定よりずいぶん遅れているから、もう夕方の食事には間に合わない。特別な出張の特典として許される駅弁と日本茶を駅のホームで買い、膝の上に乗せているが、東京駅を出てからなにも口にできなかった。
 いつもなら発車を待ちきれなくて、おいしく味わっているはずなのに、今はさっぱり食欲がわいてこない。食事を諦め、折り目がきれいなままの包装紙を掛け直し、紐で結んでバッグにしまいこんだ。シスターはいつもよく尽くしてくれる修道女のマリーにあげるつもりだった。
 なぜ、あの男だったのか。シスター・アン粟津もまた、真中と同じ問いを繰り返し考えている。


 老作家との面会場面を反芻してみる。現れた男の顔は事前に描いていたイメージとかなり違っていた。あまりに外れていたので、ただびっくりしてしまい、しばらく彼を見つめていたほどだ。確かに声は大きく、年齢の割には生気に溢れ、どちらかといえば精悍でタフなタイプだった。とはいえ、俗っぽい感じがあって、品のある顔立ちではない。彼女にはとてもマリア様が目をつけるような男には見えなかった。でも、気取らず、率直な話しぶりにはむしろ好感を抱いた。外見の印象とは違い、頭もカンも鋭かった。頑固なほどの意思の強さを感じた。
 あの男の本を読み、彼の誠実で真摯な心にうたれたのは、まぎれもない事実だ。シスターのまわりにも、神の名を語り、己の邪心のために利用しようとするひとたちが多すぎた。マリア様が自分の前に現れ、あの男にメダイを贈るよう指示された理由のひとつなのかもしれない。
 マリア様は私にお役目を与えてくれた。院長ではなく、ましてや大司教でも司教でもないただのシスターであるこの私に。とても畏れおおく光栄なことだと、彼女は思った。シスターはずっとイエス様をあがめ讃え、マリア様への敬愛にすべてを捧げ尽くしてきた。それはこれからも決して変わることはない。たとえ身分の高いひとたちの意図や指示に反していたとしても。                 
 夢の中のマリア様は、
(本を読みなさい。それを書いたひとに、わたしのメダイを贈りなさい)と言われたが、そのことを伝えなさいとは指示されなかった。真中に会い、フジモリ院長やタムラ副院長の指示に反してマリア様の言葉を彼にそのまま伝えたのは、シスター自身の判断だった。
 列車の窓の外の景色が漆黒の闇に包まれ、点々と淡い光が家々に灯り始めた。シスターは旧式の腕時計を取り出し、時間を確認する。七時半をまわっていた。あと五十分で到着する。彼女はその金色に輝く腕時計のガラスを指で撫でまわしながら、ふと皮バンドの両端をハサミでカットした日のことを思い出した。
 この時計は十年ほど前に別れた彼が、自分の腕時計を別れの記念にと彼女にくれたものだ。信仰に一生を捧げることを決めて数カ月間も迷い悩み、ついに決断した夜はやはり十二月で、こんな夜だった。なんとなく修道女にこんな金色の腕時計はふさわしくないと、ハサミで時計のバンドの両端を切り放し、いつもスカートのポケットに入れている。未練とは違い、決別と決心の証なのである。
「聖母マリアとはいったい何者なのか」
 ストレートにそう聞かれても、答えようがない。彼女にとって、マリア様ははじめからキリストの生母であり、敬虔な祈りの対象である。その経歴など考えたこともなかったからである。いくらシスターらしからぬ本を読むとはいっても、悪意あるひとたちの書いたキリスト教関係の本などを読むつもりはない。キリスト教にかかわることは、すべてが聖書だけなのだ。
 久しぶりに東京へ出て豪華なシティホテルのラウンジで、自分から会いたいと呼び出した男性と向かい合ったことが、忘れかけていたあの日の記憶を蘇らせたのかもしれない。それともあまりに無信仰で神をないがしろにして平気な男のあからさまなもの言いに、心を掻き乱されてしまったのだろうか。


 シスターは真中が言った、「あなたの神様はわたしにもよくそのような洒落たことをされる」というセリフを思い起こした。マリア様を平気で茶化せる大胆さにはただただ呆れてしまう。「神など信じていないから聖書を読む気にもならない」という言葉も、聞きたくなかった。
 きっとフジモリ院長はもちろん、タムラ副院長までもが顔色を変え、その男はきっと悪魔だとわめき、聖書を読み、いつもの祈りを三倍は捧げなさいと命じるに決まっている。そんなサタンの使いにメダイを贈れだなどとマリア様がお命じになるはずがない。あなたが見たマリア様が本当はサタンの化身だと言い出す可能性さえあると、シスターは恐れていた。
 現に、六月のあの夜のことを告げたとき、院長は渋い顔をつくり、副院長はあからさまに疑わしい目で、審問を何度も繰り返した。シスターは連日連夜にわたって、証言にウソや矛盾がないかを念入りに確かめられている。
フジモリ院長は言葉の端々に、
「マリア様が現れるなら、なぜわたしではないのか」と暗にほのめかして嫉妬した。副院長はこの修道院でわざわざあなたを選んだのは偽りの悪魔の誘惑に違いないと思い込み、ことごとく疑っていた。
 罰に課せられるであろう謹慎や謝罪の祈りなどはこわくない。しかし、自分の見たマリア様が幻覚だと否定され、あんなにはっきり聞いた言葉までがウソだと思われることに耐えられる自信がなかった。
 シスター・アン粟津は目をつぶると心を静め、どうあの二人に報告すればよいかを考えることにした。ひとつ深呼吸をして、ネックレスチェーンのトップにつけている不思議のメダイを握りしめた。それはあの男に贈った安価なものでなく、かつてパリで造られた銅板にマリア像が刻印されたメダイだった。シスターがシスター・アン粟津と名乗ることを許されたときに与えられたそのメダイは、ずっしりと重い。銅のひんやりとした感触が、彼女に安堵感をもたらしてくれた。

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