誰が聖母マリアを葬ったのか 中


第5章 イエスとマリア

 この年の六月頃、真中はマリアのもたらす奇跡について書こうと決心していた。彼女の意思でノンフィクション作家を選んだからには、「書かれることを望んでいる」のだろうし、書くべきテーマを失っていた作家にとっても、それが自然のなりゆきに思えたのだ。
 そのためには、「いったい彼女はどのようなひとだったのか」を知らなければならない。ヨセフという大工の夫がいたらしいのだが、彼女の経歴はあやふやで、どこで生まれ、いくつでキリストを生み、いかにして迫害や追及の手を逃れていたのか。ほとんど正確な記録が伝えられていないのである。
 ましてや彼女が母として、「どうイエス・キリストを育てたのか」の説明など、どこにも残っていない。息子の不幸な死に際して、嘆き悲しんだに違いない彼女の姿も、息子の死後、どんな想いで暮らし、何歳で亡くなったのかについてもだ。
 聖書でさえ、イエスの生母である彼女の実像にはあまり触れていないのだ。ときおり、その存在だけがひょっこり現れるにすぎない。
キリスト教の教典である以上、神の子であるキリストの言動が主であり、生母の記述が少ないのも無理はないかもしれない。それにしても、彼女に関する情報の少なさは異常である。彼女の描かれ方もまたぞんざいな扱いを受けている。
「悪いけど興味がないんだ」ある聖書の研究家はこう言って、そそくさと電話を切った。
 聖書は例えばこう伝えている。
 十二歳になったイエスが両親に連れられ、「過越祭(すぎこしさい)」というお祭りに参加するため、エルサレムに行ったときのこと。参拝を終えたマリアとヨセフは帰ろうとしたが、イエスの姿が見えない。はじめは心配していなかったが、イエスはいつまで経っても帰ってこない。さすがに心配した両親がエルサレムの神殿に引き返すと、学者たちに囲まれて論議をしている我が子を見つけて驚く。
「どうしてこんなことをしたの。お父さんとお母さんはとっても心配したのよ」マリアが尋ねる。するとイエスは不思議そうに言う。
「僕がここにいるのは当たり前のことではないですか。だってここがお父さんの家だもの」
 マリアとヨセフは、我が子が何のことを言っているのか理解できなかった。イエスは両親と故郷に戻り、神に見守られながら人間の世界で成長する。マリアはこの日の出来事はずっと胸のうちにしまっておいた。
 この十二歳のエピソード以降、イエスの青少年期をうかがい知る記述はない。三〇歳を迎え洗礼者ヨハネと出会うまで、人生でもっとも多感な成長期のすべてが空白なのだ。しかも、聖書の中でのイエスは、生母のマリアを「産婦」や「婦人」などと、まるで他人のように呼んでいる。
 おかしい。どこか妙だ。わざと削除したうえで、神の子にふさわしいエピソードをことさらに強調し、生母の役割を軽んじるものだけをあえて残したのかもしれない。 ある日、大天使ガブリエルがマリアの夢に現れ、やがて男の子を身ごもること、その子は人間の子どもであると同時に、神の子であると告げるくだりをどう理解するか。それはあくまで信仰上の問題であり、真中にはどうでもよかった。解明しなければならないのは、イエス・キリストではなく、マリア本人のことである。彼女が母親として彼の悲劇をどう考えていたか、その本心なのだ。
 彼女の実像を知らなければ、自分の身に起きている奇跡の謎は解明できないし、作品の執筆も不可能だった。
 せめて彼女の真の容姿だけでも知りたい。真中は名画といわれる絵画から、そのヒントを得ようと考え、数十点もの作品を集めてみた。どれもピンとこない。大半が幼いキリストと共に描かれている。名画の中の彼女は、どれもこれも真中のイメージとは違っていた。なかには、聖母の崇高さや優美さすらなく、不気味でグロテスクなものさえあった。
 真実の顔をと言ってみたところで、マリアは二千年も前の女性である。当時の状況を考えると、本物の顔や姿を描いた肖像画が存在するはずがない。
 そこで真中は今までに得た自分なりのイメージに合う顔を絵画の彼女に求めたのだ。ただ崇高で高貴なだけでもない、優雅さや優美さだけではない彼女の真の姿。人間臭く、ウイットに富んだ知性溢れる容姿を捜していたのである。
 どの名画も、キリスト教が確立してから何百年もあとになって、信仰心に篤い画家たちの手で描かれたものばかりだった。神の子を抱くという意識が強く、彼女の表情は宗教的な意味合いを持ちすぎていた。
 彼女の顔を知りたい。その願いが頓挫し、あきらめかけていたとき、第四の奇跡が起きたのである。
 まず、白亜の立像を神秘的な逆光に浮かび上がらせ、真中に強い印象を与えた。その上で、資料館の二階へと導く手法は、名古屋の徳川博物館と同じである。さらに今回は、誰ともわからぬ無名な画家の描いた作品を使い、またも真中を驚かせた。
 マリアは決して実際の姿を現そうとしない。夢の中でさえ。その姿を、いわゆる名画ではなく、粗末な絵画で示す粋なやり方を演出した。あらためて彼女のセンスに感心し、その絵の中から自分を見つめる
「意思が強く、毅然とした知性溢れる逞しい顔」を真中はその目に焼きつけた。
 真中は思う。聖母マリアは伝えられるような、ただ優美で慈愛に満ち、高潔で崇高な女性ではない。だからこそ、彼女は我が子イエス・キリストを度重なる迫害の手から守り、神の子として育てあげ、世に送り出すことができたのだ。

 「あなたは事実を
  しっかりと見つめ
  その真実を知ることです」


ここから先は

16,944字

¥ 150

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?