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志を立てた真剣勝負の先にある人間としての努めとは

松下幸之助 一日一話
11月25日 人間としての努め

命をかける--それは偉大なことです。命をかける思いがあるならば、ものに取り組む態度というものがおのずと真剣になる。したがって、ものの考え方が一新し、創意工夫ということも、次つぎに生まれてきます。お互いの命が、生きて働くからです。

そうすると、そこから私たち人間が繁栄していく方法というものが、無限にわき出てくると言えるのではないでしょうか。この無限にひそんでいるものを一つ一つ捜し求めていくのが、人間の姿であり、私たちお互いの、人間としての勤めであると思います。もうこれでいい、けっしてそう考えてはならない。それは人間の勤めを怠る人だと私は思います。

https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/founders-quotes.html より

松下翁の仰る「命をかける」とはどういうことなのでしょうか。単純に自分の命を犠牲にして仕事なり物事に打ち込むということではないと私は考えます。現実問題として、民間企業の中に自分の命を犠牲にして仕事をする人を受け入れることが出来る職場はないに等しく、治安や国防に携わる警察官や自衛官、消防官、海上保安官などの限られた業種における危険業務のみであると言えます。

仮に、民間企業の中で自分の命を犠牲にして仕事に打ち込むならば、小賢しい人間たちに良いように使われて無駄死にするだけではないでしょうか。逆に、自分の命を犠牲にしてまで仕事をしようと腹の座った人間であればあるほど、周囲にいる表面的で薄っぺらい人たちを目の当たりにすることで失望し、仕事に対するやる気を失ってしまうのではないでしょうか。

改めて松下翁の仰る「命をかける」という言葉にある真意を考えるならば、そこには「志をたてる」、そして「真剣勝負をする」という意味が強い言葉であると私は考えます。

先ず、「志をたてる」ことについて松下翁は以下のように述べています。

 志を立てよう。本気になって、真剣に志を立てよう。生命をかけるほどの思いで志を立てよう。志を立てれば、事はもはや半ばは達せられたといってよい。
 志を立てるのに、老いも若きもない。そして志あるところ、老いも若きも道は必ずひらけるのである。
 今までのさまざまの道程において、いくたびか志を立て、いくたびか道を見失い、また挫折したこともあったであろう。しかし道がない、道がひらけぬというのは、その志になお弱きものがあったからではなかろうか。つまり、何か事をなしたいというその思いに、いま一つ欠けるところがあったからではなかろうか。
 過ぎ去ったことは、もはや言うまい。かえらぬ月日にグチはもらすまい。そして、今まで他に頼り、他をアテにする心があったとしたならば、いさぎよくこれを払拭しよう。大事なことは、みずからの志である。みずからの態度である。千万人といえども我ゆかんの烈々たる勇気である。実行力である。
 志を立てよう。自分のためにも、他人のためにも、そしておたがいの国、日本のためにも。
(松下幸之助著「道をひらく」より)

「志」とは「十」に「一」に「心」と書きますが、この「十」は理想を達成するために巻き込むことになる人々、「一」は人々を巻き込む熱意あるリーダー、或いはリーダーシップを意味します。つまり、「志」とは理想を掲げてリーダーシップを発揮し出来るだけ多くの人々を巻き込み引っ張っていくことであると私は定義しています。この理想というものが「世のため人のためになること」ではない場合、多くの人々を巻き込むことは出来ません。世のため人のためではなく、自分一人の為の理想でしかない場合は「野心」としかならず、抜本的に異なることに注意が必要です。


次に、「真剣勝負をする」ことについて松下翁は以下のように述べています。

 剣道で、面に小手、胴を着けて竹刀で試合をしている間は、いくら真剣にやっているようでも、まだまだ心にスキがある。打たれても死なないし、血も出ないからである。しかしこれが木刀で試合するとなれば、いささか緊張せざるを得ない。打たれれば気絶もするし、ケガもする。死ぬこともある。まして真剣勝負ともなれば、一閃が直ちに生命にかかわる。勝つこともあれば、また負けることもあるなどと呑気なことをいっていられない。勝つか負けるかどちらか一つ。負ければ生命がとぶ。真剣になるとはこんな姿をいうのである。
 人生は真剣勝負である。だからどんな小さな事にでも、生命をかけて真剣にやらなければならない。もちろん窮屈になる必要はすこしもない。しかし、長い人生ときには失敗することもあるなどと呑気にかまえていられない。これは失敗したときの慰めのことばで、はじめからこんな気がまえでいいわけがない。真剣になるかならないか、その度合によってその人の人生はきまる。
 大切な一生である。尊い人生である。今からでも決しておそくはない。おたがいに心を新たにして、真剣勝負のつもりで、日々にのぞみたいものである。
(松下幸之助著「道をひらく」より)

更には、「真剣勝負をする」からこそ「一生懸命」となりそこからあらゆる物事に対する「なぜ、なぜ」という疑問が生まれてくることについて松下翁は以下のように述べています。

 こどもの心は素直である。だからわからぬことがあればすぐに問う。”なぜ、なぜ” と。
  こどもは一生懸命である。熱心である。だから与えられた答を、自分でも懸命に考える。考えて納得がゆかなければ、どこまでも問いかえす。"なぜ、なぜ" と。
 こどもの心には私心がない。とらわれがない。いいものはいいし、わるいものはわるい。だから思わぬものごとの本質をつくことがしばしばある。こどもはこうして成長する。"なぜ" と問うて、それを教えられて、その教えを素直に自分で考えて、さらに ”なぜ" と問いかえして、そして日一日と成長してゆくのである。
 大人もまた同じである。日に新たであるためには、いつも "なぜ" と問わねばならぬ。そしてその答を、自分でも考え、また他にも教えを求める。素直で私心なく、熱心で一生懸命ならば、 "なぜ" と問うタネは随処にある。それを見失って、きょうはきのうの如く、あすもきょうの如く、十年一日の如き形式に堕したとき、その人の進歩はとまる。社会の進歩もとまる。
 繁栄は "なぜ" と問うところから生まれてくるのである。
(松下幸之助著「道をひらく」より)

「なぜ、なぜ」と真剣に一生懸命であるからこそ「私たち人間が繁栄していく方法」という正解のない問いに対する答えが、無限にわき出てくると言えるのではないでしょうか。私たち人間が生きる地球を含めた宇宙というものは絶えず無限の進化発展を続けていると言われていますが、自然の摂理から考えるのであればその宇宙の一部である人間も同様に進化発展が求められており、進化発展に繋がる行動をし続けるということが理にかなった人間としての努めであるとも言えます。つまりは「もうこれでいい」と現状維持を考えた場合、人間の繁栄も終わってしまうことになるのだと私は考えます。


中山兮智是(なかやま・ともゆき) / nakayanさん
JDMRI 日本経営デザイン研究所CEO兼MBAデザイナー
1978年東京都生まれ。建築設計事務所にてデザインの基礎を学んだ後、05年からフリーランスデザイナーとして活動。大学には行かず16年大学院にてMBA取得。これまでに100社以上での実務経験を持つ。
お問合せ先 : nakayama@jdmri.jp

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