夢の実現の道が中断されて落ち込む日々の中でも、思いは持ち続けたことで、チャンスはやって来た!
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「これからどうしよう?」と迷ったとき何かのヒントを見つけてもらえればという思いで紹介している「身近にいる普通の働く女性たち」のキャリアや人生についてのインタビューエピソード。
今回は、、進みたい道を親の反対であきらめざるを得ず、悶々としていた莉子さん(仮名)のエピソードです。40代で「これだ!」と思うものに出会い、新規業務を立ち上げたものの、異動により継続が困難になり、気持ち的に谷へ。そんな中、少しずつ見えてきた希望の光とは?
―――今回、ライフヒストリーや人生曲線を書いてみていかがでしたか?
実は、ついこの前まで一番落ちていたのですが、やっと少し持ち直してきたところなんです。40代までに時々ある谷は、友人が亡くなったことが影響しています。小中学時代、高校時代、大学時代と、それぞれの時期に一番仲が良かった友人が、20代、30代、40代で事故、病気、自ら命を絶つなどで亡くなっていて…。その時もショックだったけれど、年を取った時に、一緒に若い時代を振り返り、懐かしむ相手が居なくなってしまったのは寂しいです。
自分の将来を考えて右往左往(10代:大学進学に関わる悩み
―――大学は薬学部に進まれたのですね?
高校はいわゆる進学校でした。当時、憧れていた職業に就くために志望校を設定したら、担任から「せっかくこの高校に来たのに、志望が低すぎる」と否定されてしまい、次なる夢も持てぬまま、漠然と勉強していました。そんな時、生物の授業で人体のことを学ぶ機会があり、初めて「もっと深く知りたい!」と興味を持つことができました。これまでのような点数を取ることではなく、初めて純粋に学ぶ楽しさを感じることができたのです。人体について学ぶことは、将来的に自分や家族のためにも役立つと思い、医学部に進みたいと思うようになりました。母親とはとても関係がよく、学校であったことをよく話していたので、私が進みたい道を見つけたことをとても喜んでくれました。しかし、父親からは「女の幸せは結婚」「医学部に行ったら嫁の貰い手がいなくなる」と猛反対されたんです。母と一緒に説得を試みたのですが、最終的に「医学部なら授業料は出さない」と言われてしまい、そうなると、当時の私にはなす術がありませんでした。
そこで、臨床薬剤師として働くことを次なる目標としたのですが、進学した大学は、新薬の研究者を輩出するところで、興味を持てないまま4年間をなんとなく過ごして就職ということになったんです。
―――お父様の考え方に対して、反発したりはしなかったのですか?
反発しましたよ。口をきかない時期もありました。その後、父とは普通に穏やかな関係になりましたが、それでもこのことに関するわだかまりは、父が10年前に亡くなるまでありました。
生活の糧のための仕事(20~30代:地道な研究の日々)
―――研究所でのお仕事はいかがでしたか?
化学系の研究部署に配属されました。当時はまだ女性にはメインの仕事は与えられない感じで、研究にちょっと芽が出始めると男性の担当に移されたこともありました。男性の異動はほとんどない中、私は化学系の中であったとはいえ異動が多かったです。そんな中、親しくさせていただいた客員研究員の方から、「すごい成果が出ているのだから、論文を書くべき。やり方を教えてあげるよ」と言われて論文を書き始め、博士号の学位取得につなげることができました。それでもそこに強い思い入れはなく、生活の糧をいただくための仕事としてやっているという感じでした。
地域に居場所を作る機会を得る(40代:やっとやりたいことをみつけた)
―――その後、40代で曲線が盛り上がっていますね?
はい。やりたいことを見つけることができたんです!
当時、実家では母が父の介護をしていたのですが、買い物先や道中で知り合いと偶然会って立ち話できることが、彼女の息抜きになっている様子を見ていました。
また、40代で出産した私は、それまで近所との交流はなく、夫は仕事で毎日帰りが遅いという状況で、産後うつの辛い時期を過ごしていたのですが、地域の児童委員さんによる様々な支援や子育てサロン、産院でできたママ友との交流が大きな助けとなっていました。それでも人との交流や会話にとても飢えていたため、赤ちゃんをベビーカーに乗せて近所を歩き回り、誰かに声を掛けられるのを待っていました。多くのママ友も、人との交流を求めていて、近所のドラッグストアのレジの人と言葉を交わすために、日参して不要なものを買っているという話もありました。
このような経験から、育児中のママや、介護が必要な家族を抱えている人にとって、人と交流することが大きな救いとなるのではないか、ということに気づくことができました。近所の人々が交流できる機会や居場所を作ることが、多くの人にとって即効性のある助けになるのではないか、と思いついたのです。「これを仕事として進めることができたなら、社会への影響は大きい。医師になるよりも、もっと多くの人たちの助けになることができる!そうか!そのために私はこの会社に来る運命だったんだ!」それは私にとって雷に打たれたような衝撃を覚えるものでした。
復職して、当時の化学系の上司にそのような話をしたところ、社会システム研究の上の方につなげて下さって、そこから、グループ各社が参加する検討会に参加させてもらえたんです。メンバーの方々と議論を重ね、リーダーと共に大学のサロンに参加し、先生方や異業種の方々との交流もできました。そして皆さんのご協力によって、私がやりたいと思っていることをテーマにして、複数の大学とうちの研究所で共同研究をやらせていただけました。苦労も多くありましたが、様々な人が集う居場所が研究対象にした地域に生まれ、人との会話や交流を求めている方々の助けになっていることが確認できたときは、本当に嬉しかったです。
―――その後アップダウンがあるようですが?
私に共感してくれていた上司が異動してしまったのです。このような内容の研究は、うちの会社では異質なものだったので、後ろ盾となる上司が異動し、私も異動となって、これまでの研究をまとめることも許されず、参加してきた外部の方たちとの勉強会にも参加できず、失意のどん底に突き落とされた感じでした。新しく与えられたテーマに私は社会的な必要性を感じられず、本当に苦しくて人生が終わったが如くに感じました。でも、母から「やりたいことができた3年半があっただけでもよしとしなさいよ」との言葉があり、そうかもしれないな…と思うように努めました。
落ち込んでいても、思いを伝えることができ始めた(50代:試練の日々の中で見えてきた光)
―――その後は?
社外で知り合った方々からは、「やりたい気持ちを持って、アンテナを立てておけば、いつかまたチャンスが来るよ」、「助けてくれる人はきっと現れるよ」と、力づけてもらったのですが、「それって成功した人だから言えることだ。私のところにはきっと来ない。」と思っていました。その後さらに専門外の部署への異動があって、やりたいことがやれないだけでなく、「やれることは何もない」状況に苦しみました。
―――でも、少し持ち直してきている?
はい。新しい上司に、これまでの経緯と思いを伝えたところ、大変理解のある方で、「共同研究の内容をちゃんとまとめた方がいい」と支援をしてくださったのです。それで、研究をまとめて、業界の研究会で発表する機会を得ることができました。すると、参加者から良い反応があって、別途発表する機会を2つも頂くことができました。今の上司はそれに対しても応援してくれました。
そのことによって、本業とされることにも前向きに取り組もうと思えるようになりました。自分には無理なテーマでも、これまでたくさんの部署を渡り歩いてきたことによる人脈があり、これはAさんに教えを請おう、これはBさんに協力していただこうと、動けるようになりました。
また、どん底にいる時期、仕事としてできなくても、せめて課外活動として関わりたいと、市が主催する交流会に参加しました。そこで自分の思いを話すことによって、市役所の方に興味を持っていただくことができました。今は、職員の方々や共感を持ってくれた社員と一緒に、居場所づくりをやりたいねと、情報交換や議論の場を持てるようになりました。
高齢になったときに過ごせる場を全国的に作っていきたい(今後について)
―――これから先についてはどう考えていますか?
やはり希望としては、自分が高齢で一人暮らしになったときにも助かるような居場所を全国的に作っていきたいというのがあります。それを社会システムとして日本に根付かせたい。思いを共有できる人たちとつながって、一緒に実践していきたいと思っています。ついこの前までは、少し先のことさえも考えられない状態だったので、ここまで考えられるように気持ちが回復したことは、本当にうれしいです。
―――やりたいことを実現するために、違う会社に行くという選択肢は考えましたか?
いいえ。社会システムの研究には数年携わっただけなので、転職するほどのスキルがないと思ったし、周りに転職する人もあまりいなかったので…。でも、今回得たチャンスを生かして今の会社でスキルを身につけて、定年後もこういう仕事で働いていきたいと考えています。たとえ仕事として関わることが困難でも、居場所づくりは、定年退職後に自分が暮らす地域の中で活かすこともできると思っています。
思いを持ち続ければ、チャンスはまたやって来る(女性たちへのメッセージ)
―――今、迷っている女性たちに何かアドバイスやメッセージがありますか?
私には来ないと思っていた「チャンス」と「助けてくれる人」は果たして現れました。それは、知り合いに言われたように「やりたい気持ちをもって、アンテナを立てておく」ということに加え、「小さなことでも良いから動いてみる」ことをしたからだと思います。どん底に落ちているときは無理ですが、自分の思いを伝えたり、関係しそうな人と繋がるような行動をとってみることが、良い方向につながりました。
「私にも来たのだから大丈夫!あきらめないで!あなたにもきっと来ますよ!」
―――インタビューに参加してみていかがでしたか?
タイミング的に結構きついときのインタビューでしたが、苦しい思いを吐き出せる良い機会となりました。でも、あまりにも救いのない話だなと思って、少し光が見えてきた状態で追加のインタビューをお願いしました。読者の方に少しでもご参考にしていただけそうな記事にしていただければ、嬉しいです。私も、他の方のお話、様々な経験を積まれた人生の先輩の話を読んで、その時に応じた羅針盤を見つけたいです。
(*文中の写真はイメージです)
インタビュアーズコメント
なにより、この先の人生を通して実現したいライフワークをみつけたことが素晴らしい。お母さまの介護体験、自身やママ友の育児体験を介して見つけた莉子さんの夢。その実現に向けて、思いを伝えることでその思いを共有できる人と繋がっていく。そんな力があればこそ、実際に地域の交流の場をつくり、社外の人たちの支援を得ることもできたのでしょう。私には来ないと思っていたチャンスが来た!だから、あなたにもきっと来ますよ! 諦めたときもあった莉子さんの言葉だからこそ、ここからを信じて進んで行けそうです。
【L100】自分たちラボ からのお知らせ
ライフデザイン研究会【L100】自分たちラボでは、働く女性に対するインタビューを行っています。詳細は『働く女性の人生カタログ』~プロローグ~をご覧ください。
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