いろんな出会いや経験がつながって見つけた新しい道
誰にでも、「これからどうしよう?」と迷うことがあるのではないでしょうか。そんなとき、「他の人はどうしているのかな?」と思いませんか?
【L100】自分たちラボでは、「身近にいる普通の働く女性たち」のキャリアや人生についてのインタビューからヒントを探してみることにしました。
今回のお話は、「企業人からご遺族の心のケア人へ」と転身されたナオさん(仮名)のお話です。
#ライフデザイン #インタビュー #働く女性 #外資系企業 #早期退職 #親の見送り #50代の転職 #起業
「上を目指すか、辞めるか」という厳しい外資系企業文化の中で、自分を活かせる場所を見つけながら、なんとか生き残ってこられたと振り返るナオさん。気がつけば20余年、そんな環境の中で勤務と介護、そして心理士としての勉強を続けられた要因はどのようなものだったのでしょうか?そして早期退職後、現在の仕事を始めるに至った考え方とは?
―――今回、ライフヒストリーや人生曲線を書いてみていかがでしたか?
そのときどきに思い悩みながらも、よくぞ乗り越えてきたなあと。結構ぐじゃぐじゃですよね。曲線が、下がっているところは、今思い起しても本当にきつかったなあと思いますけど、それこそが必要な経験だった、今の自分に出会うための時間だったんだとも思うことができました。と同時に嬉しかったことも思い起こせて、元気が出たように思います。
大学編入学受験に失敗してなぜか外資系企業へ
20代半ば~:考えもしなかった異文化下で働くことに)
―――最初のターニングポイントは?
外資系企業で働くことになったことですかね。実は、最初の就職後、大学の編入学を志したんです。幼いときから憧れていた大学で、卒業した大学での専攻(統計学)とは異なる勉強(生涯教育)をし直したいと思って、辞職を決断しました。結果は、見事玉砕!面接で、女性として勉強より結婚や出産をどう考えているかと聞かれて、なんかプツンと切れちゃいました(笑)。ところが、受験勉強期間に生活費のために契約社員として働いていた外資系企業からの誘いがあり、流されるままに就職することに。その後の文化も言語も違う組織での経験は険しいものでしたが、今に至るまで、自身の生き方にすごく影響をもたらしていると思います。
―――その企業では、どんな仕事を?
出社初日に、「あなたの上司は、日本語は話せません」と言われて、もうびっくりでした。意思疎通がうまくできないこともあって、初めの数か月は、悔しくて泣きながら帰っていました。とにかく言いたいことを言えるようにならなくちゃと、早朝出社して英語の勉強をしました。
仕事はというと、いわゆる「OJT(On the Job Training)」そのもので、例えば、ある物質の測定法の開発を仕事として渡されると、必要な機器の購入から測定法の確立まで、だれの指示を受けることなく自ら考えて動かなくてはならない。あるいは、課題を見つけてプロジェクトを創出する。それまで、仕事って、指示と説明を受けて経験を積んでいくものと考えていたので、唖然としました。でもやるしかない。いい意味での若気の至りと負けん気でしたね。要するに、イニシアティブとかリーダーシップとかが求められるわけです。そんなこと意識したことはなかったので、この会社に入っていなかったら、今の私は多分いないと思います。もちろん、英語で仕事をする自分の姿なんて、想像すらすることなかったです。
「そのうち」がやってくる保障はない
30代:震災被災と1ヶ月の入院
―――30代で、曲線が数回大きく落ち込んでいますが?
まず離婚があって、そして阪神淡路大震災。その数年後には、1か月の入院。これこそ、大殺界かと思いましたね。離婚も相当に堪えましたけど、命の問題ではなかった。一方で、震災と病気はまさに命と向き合った。遺言状を書いたのはこのときが初めてでした。書きながら、「そのうちいつか」の「そのうち」が常に在る保障などない、「いつ何が起こるかわからない」ということを痛感しました。「そのうちいつか」ではなくて、「ほんとにやる気なら今!」という意識変革っていうのかな。それでまず、仕事をしながらでは厳しいと無理を承知で、心理士の資格取得のための学校へ行き始めました。大学はあきらめても、学びたい気持ちは残っていたんだと思います。
仕事の面では、震災前、上司のパワハラとかもあって、「いっそのこと会社を辞めるか、それとも他部門への転属希望を出すか」を考えていたんです。そうしたら、震災後に上司が変わって、「転職も含めて1か月自由によく考えて、今の部署でがんばろうと思ってくれるなら、新しいポジションは用意しているよ」と言ってくれて。ただ、そのポジションの説明はしてくれなかった。きっと、今の部署に残るなら、その覚悟のほどを試されたのだと思います。震災直後で転職も社内異動も難しい中、結局、残ることで腹を括りました。結果的にそのポジションがめちゃくちゃ自分にあっていたんです。体力、気力的にかなりきつかったけれど、自分からどんどんやりたいと思えたし、仕事内容にもやりがいがあって、社内での評価も上がって。何かひとつでも、認められる専門性を持てると、わからないこともどんどん聞けるようにもなって、ますます知識や経験の幅が広がり、周りからの信頼もアップしたように思います。
仕事と介護を両立させながら
40代:両親の介護と見送り
―――40代後半で曲線が下がっていますね
両親を立て続けに見送りました。海外も含めて出張の多い仕事をしながら、同時期に倒れた両親のケアは、時間的、体力的、そして迫ってくる最期のときへの精神的なきつさがありました。病室にパソコンを持ち込んで、時差を利用しながら仕事と介護の両立に努めました。このときのために、社内で鍛えられたロジカルシンキングと心理士としての知識が必要だったのかも知れないと思えました。
一方で、仕事をしていることで、介護から離れられる時間があること、そして、経済的な不安を軽減できることに救われていました。特に、両親を見送った後、帰る場所としての職場の存在は、通常の生活に戻っていくために必要だったと思います。だから、両立がきついと思ったときも、会社から言われない限りは、自分から辞職しないでいようと思っていました。
海外勤務か早期退職か
50代後半:早期退職の決断、そしてさまようことに
―――仕事できついこともあったのに20年以上がんばってこられたのは?
運もあったと思います(笑)。10年を超えた頃の大リストラでは、多分、私が偉くなり過ぎていなかったことで残れたと思っています。もう一つ二つ上のポジションにいたら切られていた。そういう運、不運があって、なんとか残れたって感じ。それと、そのときの上司との相性。毎年、仕事の成果と今後のキャリアプランについての上司との面談で、より上を目指さす姿勢がないとネガティブにとられるし、成果が思わしくないと肩たたきになるし。だけれども、その評価や判断をするのは上司なわけですよ。やっぱり一緒に働きたい奴だと思われないとね。
いろいろ辛いことや厳しいことはあったけれど、その度に、救いみたいな波が逆からも来てくれて、うまい具合にその波に乗っていっていたら20年を超えました、という感じ。成果は自己責任だけど、自分で企画して行動するスタイルで進められることもポジティブに捉えて、社外のセミナーやコンソーシアムにも積極的に参加していきました。結局、そういうスタイルが、私の性格に合っていて、仕事だけど私自身も学べて楽しめた。ポジションが上がっていって、自己采配の範囲が広がったことも幸いしたと思います。
―――その後、退職したのは?
担当ブランドの主拠点が日本から他国へ移ることになり、海外勤務か、国内転属か退職かを選択することになったんです。それらの選択肢の中では、他国での仕事に関心があったんですけど、その頃耳に支障があって、飛行機を頻繁に利用しなくてはならない海外勤務は厳しいと判断して退職を選択しました。
しかし、50代での転職は思っていたより厳しくて、専門学校の講師、文科省のプロジェクト、シンクタンク、などなど、周りの方々から勧めてもらえる機会はすべてチャレンジする精神でいろんな経験をしました。そうやってさまよい続けながら「私だからこそできることはなんなのか」と自問自答を繰り返していました。同時に、自分らしくいるためには、働くことが必要であると再認識しました。やっぱり、ビジネスに関わっていたいんだと気づけたことは、自分でも発見でした。
―――それで、コミュニティサロンを?
いわゆる心理士としてではなく、ご遺族や病と向き合っているご家族やご本人に関わる「スピリチュアルケア師」としての道を歩むことにしました。「私らしさ」を考えたときに、独特な感性やコミュニケーションスタイルが認められることが多かったなあと思い至って。それなら、どこかに所属するのではなくて、自分でやってみようかなと。で、自分の持っているものを総動員して(スピリチュアルケアの)サロンを立ち上げました。
今できることを今できる形で
今後について
―――これから先についてはどう考えていますか?
自身が立ち上げたサロンの活動も含め、死と向き合うこととの共生を継続していく生き方が、わたしのライフワークとなっていくのではないかと思っています。不安もありますが、定年のない活動なので、その時々でできることを細く長くやっていければと思います。
―――大切にしている言葉などはありますか?
「今ここ、今このとき」ということかな。今の時代、1秒先のことさえわからない。だから、生きていることそのものが奇跡だと思っているんです。その中にある幸せを感じて活きて生きたい。生き方、活き方、息方(気功)を大切にしていくことが、逝き方につながる、と思っています。
いつかそれまでの経験や出会いがつながる
女性たちへのメッセージ
―――今、迷っている女性たちに何かアドバイスやメッセージがありますか?
「どんなに小さなことでも、なにか今の自分にできることを見つけて動いてみると、なにかが変わるよ」と言いたいです。そして、「自分が動けないときは、SOSを発信しよう。発信しないと見つけてもらえないよ」と。私の体験をひとつお話させてもらえるなら、離婚したとき本当に辛くて、会社にも行きたくなかったんです。でも、そのときの上司が、「とにかく会社に顔出して、辛いならずっと喫茶店でもどこでも行っていていいから、とにかく出ておいで」って言ってくれたんです。籠っているのではなくて、とにかく外に出なさいということだったのだと思います。それはまさしく辛さから抜け出すためにも必要なことだったと思います。
ケアされる経験をした人は、他の人に優しくなれるし、前より強くなれているはずと思うんですよね。そして、辛かったことも含めて、いろんな経験や出会いが、不思議とつながっていくんだなあと感じられるときがいつか来るので、そのときを楽しみに!と伝えたいです。そうしたら、「きっと、きっと、大丈夫だよ!」って。
―――チャンスって、準備している人のところにしか来ないと言いますよね?
私は準備じゃなくて、アンテナを張っているかどうかだと思います。あとは直観力。「何これ?」と思うものを素通りするか、とりあえずちょっと頭のどこかにひっかけておくかの違いかな。好奇心が止まるとネットワークもアンテナの力も一気に落ちるので、そのためには元気でいないとね。元気がないときは、サロンに来てください(笑)。
―――今日、インタビューに参加してみていかがでしたか?
思っていた以上に、誰かに伝えたいと思うことがあったのかもということに気づけて照れました。いろんな質問をしてもらうことで、いろんな出来事への自身の気持ちを再確認したり、今だから気づける思いにもたどり着くこともできました。そして、せっかく気づけたその思いを、これから先、語れる機会があれば嬉しいなと。
インタビュアーコメント
【L100】自分たちラボ からのお知らせ
ライフデザイン研究会【L100】自分たちラボでは、働く女性に対するインタビューを行っています。詳細は『働く女性の人生カタログ』~プロローグ~をご覧ください。
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