ケダゴロ 「ビコーズ カズコーズ Because Kazcause」を観て

3/2(木) 静岡市清水文化会館マリナート 小ホールでコンテンポラリーダンス公演を観に行ってきた。
公演前に事前情報を特に持ってなかったわたしは、パンフレットの「作品『ビコーズカズコーズ』について」を読んで、この作品の物語の”あらすじ”を”理解”しようと努めていた。
実際にいた逃亡犯・福田和子と、アイザック・ニュートンとアインシュタイン…?二つのお話が同時進行するタイプの物語かなと何となく把握した。

逃亡中に何度も整形手術を繰り返し、いくつもの偽名を使い分けたということで、作品には何人もの福田和子役がいた。彼女をニュートンやアインシュタインが追いかけていた。様々なアクロバットな、身体能力高めの技で奇声を上げながら何人もの福田和子は逃げ回っていた。実際に逃げ回っていたときの福田和子の言葉にならない感情の内は、まさにこんなジェットコースターのような状態だったのかもしれないとわたしは思った。

なぜ追いかけているのがニュートンとアインシュタインだったのか?パンフレットにあったが、人間は孤独な重力に押しつぶされる。また、ニュートンは万有引力の法則などの発見をした。そんな実績を持つ人物〔重力〕が、福田和子を追いかける。というような比ゆ的な意味もあったのではないか。福田和子は逃亡を続けると同時に、自分のなかの孤独とも戦っていたのかもしれない。
舞台は部屋とその天井によじ登ったり、ぶら下がったりすることが多かった。これも、重力を表現しているのではないかと思った。

音楽について。公演前プレトークで昭和の時代からの(日本の)歌謡曲のヒット作には、ヒットの法則なるものがある。つまり、気持ちよく聴くことができるコード進行や歌い方がある。そういうDNAをわたしたちは持っている。そうすると、新しいサウンドに耳を傾けづらくなる。
”分かりやすさ”をなにごとにも求めがちな現代で、分からなさを提示する。それは、立ち止まって日常の当たり前を問うことである。ということをおっしゃっていた。
上演中、懐かしの昭和歌謡と思われる曲をBGMに、”早く逃げて!”などの大声とともに、曲に全く乗っていない逃亡劇が繰り広げられる。また、曲のメロディーにちょうどよく乗ってきた♪と思ったところで、突然プツリと曲が止まり、新たな展開が繰り広げられる。そんな物語性を全く無視した”分からなさ”に〔よくわからないけどとにかく〕引き込まれた。

最後、全員の福田和子が部屋の上に逃げ、間一髪で捕まらなかった。逃げ終わった後、ニュートンとアインシュタインが部屋に入ってくる。上から福田和子たちがカラフルな下着を吊るす。
ジェンダー問題について、このところ本格的に関心を持ち始めたわたしとしては、この演出みたいなものはとても興味深かった。

劇場の非日常感とともに、帰路についた。


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