写楽ー江戸の夜に消ゆー【壱】
【プロローグ】
「号外!号外!!」
世紀のビッグニュースは、街に号外をもたらし、テレビでもネットでもその話題で持ちきりとなった。日本中の話題をさらったそのニュースとは
『写楽の正体が判明!!』
というものだった。浮世絵師としてあまりにも有名な写楽だが、実のところその正体は、今なお多くの謎を抱えていた。それが最近、とあるテレビ番組の開かずの扉を開けるという企画で見つかった1枚の絵が、どうやら写楽の未発表の絵ではないかといわれ、更にそこに書名がされていたことから、その人物こそが写楽なのではないかと、ニュースになったのだった。
【第1章】
彦次郎(ひこじろう)は、初めて“写楽”なる画家が描いた絵を見た時度肝を抜かれた。
本所深川の表通りにある大店薬種問屋『丸珠屋(まるたまや)』の次男坊である彦次郎は、商いをするよりも絵を描いたり連歌を嗜むのが好きな文化人で、暇を見つけては、吉原に通い遊女を描いたり、版元に顔を出しては、新作の洒落本や浮世絵を買い求めていた。
この日も、何か目新しい絵が置いてないかと立ち寄った蔦屋で、写楽の絵と出会ったのである。
何気なく手にしたはずの1枚は、目にした瞬間背筋に戦慄が走り、通りから聞こえる雑踏も、店の軒先に吊られた風鈴の涼しげな音も、かき消えていった。
「あ、あの…。この絵は、どなた様の御筆でございましょう…。」
彦次郎は、震える手で市川蝦蔵(いちかわえびぞう)の、大首絵(おおくびえ)を店主の蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)に見せた。
「あー、それは写楽という新手の絵師のものですよ。どうです?素晴らしいでしょう。」
重三郎の言葉に彦次郎は、何度も大きく頷く。
「あ、あの。写楽の絵はあと何枚お有りですか?」
彦次郎は財布の紐を緩めながら、重三郎にそう問いかける。
「写楽の絵でしたら、こちらにも何枚か…。」
重三郎はそう言って、他の役者絵を何枚か見せる。
「そ、その絵は全部で、お、おいくらになりますか?」
「そうですね。こちらは大判の絵になりますから、1枚100文になります。それが、ひい、ふう、みぃ…。10枚ありますから、全部で一貫文(いっかんもん)になります。」
「一貫文…。」
店主と彦次郎がそんなやりとりをしているのを横で見ていた他の客が「うへぇ。兄さん、こんな絵を買うつもりかい?」と割り込んでくる。
「こんな気味の悪い絵、どう見たって出来損ないだろ。悪いことは言わねーから止めときな。」
いかにも自分は目利きでござい。といった風にその客は笑いながら、店を後にした。それを聞いた彦次郎は、重三郎に向かってニッコリと笑った。
「なるほど。この絵は、人を選ぶようですね。とすれば、売れ残ってしまうこともあるやもしれません。」
そこまでいうと、彦次郎は、「んー」と考える素振りを見せた後、ぽんと出を打つ。
「全部の絵を買うことは私にも無理なので。半分の5枚を40文でどうでしょう?」
彦次郎の交渉に、今度は重三郎が「んー」と唸る。しばらく考えたのち
「分かりました。今回は特別、5枚40文でお譲りいたしましょう。」
と言うと、彦次郎は目を輝かせながら、どの5枚にするか選び始めた。
✢ ✢ ✢
彦次郎がこっそり家に帰り、部屋で買ってきた浮世絵をうっとりと眺めていると、ドタドタという足音と共に、後ろの障子戸が開く。
「彦次郎!お前さんまたフラフラとほっつき歩いていたんだってな。」
丸珠屋の主で、彦次郎の父親である源左衛門(げんざえもん)が、雷を落としに来た。
「うへぇ、おとっつぁん私は、ちゃんと商いをしてきたんですよ。金は天下の回りものというでしょ。だからほら、こうやってしっかり使って、お金を回してきたんです。しかもですよ。1枚100文だったところを、20文もお負けさせてきたんですから。」
彦次郎は、そう言って少しばかり胸を張る。彦次郎と気味の悪い浮世絵を見比べ、源左衛門はがっくりと肩を落とす。
「お前ね、こんな絵ばかり見てないで少しは帳簿でも見て商いの勉強もしておくれよ。」
「商いの勉強ったって、この家には立派な兄さんがいるじゃありませんか。」
ケラケラと笑う彦次郎の顔を見て、源左衛門がさらに何か言おうと口を開きかけた時「父さん」と呼ぶ声に、源左衛門はそちらを見る。そこに立っていたのは、彦次郎の垂れ目をキリッと切れ長にした兄の長一郎(ちょういちろう)だった。
「父さん、番頭さんが店表で探していましたよ。」
「あ、そうかそうか。ちょっと奥で長居しすぎたかな。」
そう言って、表に向かおうと踵を返した源左衛門だったが、彦次郎を振り返り「とにかく、商いの勉強もちゃんとするように」と言いおき、店へと戻っていった。
「兄さん、助かったよ。きっとあのままだと、明日の朝までお小言(こごと)が続いていたかもしれない。」
彦次郎は、情けない声で長一郎に愚痴をこぼす。長一郎は、ハハハと笑い、彦次郎が買ってきた浮世絵を手にとって見る。
「これはまた、随分と大胆な構図だね。」
「お!兄さんにもこの良さが分かりますか?そうなんです。この役者絵、これまでの浮世絵と違って役者を美化していないんです。むしろ、顔の特徴を誇張して描いている。しかもですよ。」
彦次郎の言葉に熱が帯びてきたのを察知した長一郎は、言葉を遮る。
「分かった、分かった。その話はまた今度じっくり聞くから。私はまた直ぐに店の方に戻らねば」
長一郎はそう言って、そそくさと店へと戻っていった。
写楽の絵に取り憑かれた彦次郎は、浮世絵を買うために、せっせと小遣い稼ぎをしては、足繁く蔦屋に通った。彦次郎の部屋は、あっという間に写楽の絵で埋め尽くされていつまたが、小遣い稼ぎの為の店の手伝いが功を奏したようで、源左衛門は彦次郎が家業に目覚めてくれたと思い、お小遣いまで弾んでくれた。
日中は家の手伝いをしては、お小遣いを貯め、それを握りしめて、写楽の絵を買う。そして、夜になれば一人、部屋で写楽の絵を穴が空くほど眺めていた。
相変わらず写楽の絵は、好き嫌いがはっきりするようであったが、それでも少しずつそれを買い求める人が増え、簡単には買えなくなってきていたものの、それでも蔦屋に行くたびに1枚は買い求めた。
しかし。ある日を境に、突如として写楽の絵の値がつり上がった。
「重三郎さん、なんですか!この法外な値段は!確かに写楽の絵は少しずつ人気になっているとはいえ、これはどう考えたって不当な値上げですよ。」
既に顔なじみとなっていた彦次郎は、重三郎に詰め寄った。
「彦さん、違うんだよ。私が値上げしたんじゃないんだ。これを売りに来る者が、その値段でないと他に持っていくと言って聞かなかったんだ。私としても、説得してみたんだがね。」
重三郎は、そう言って困った顔をしてみせたが、「でもね」と言葉を続けた。
「存外、不当な値上げでもないんだよ。見ておくれよ。ちょっと前まで1枚100文だった大判が、150文になったっていうのに、それでも買っていく人が後を絶たないんだ。」
そう言って、重三郎はにやりと笑った。
「で、彦さんはどうするんです?」
しばらく考えた彦次郎だったが、結局写楽の絵の魅力には敵わず、なくなく150文を支払った。
この日の夜、150文で買った絵を見ていた彦次郎は、その絵にちょっとした違和感を感じた。蝋燭の火の元で見ているからかもしれないと思い、次の日お天道様の光のもとに透かしてみたり、裏返してみたりしながら、隅々まで調べる。
「やっぱり…。」
それから彦次郎は、これまで買った写楽の絵を全て見比べながら調べてみた。すると、不思議な事に、どの絵も全て写楽らしさがあるのだが、そのどれにも少しずつ、写楽らしくない部分が混じっていたのだ。
「これは一体どういうことなのだろう?人気が出てきたとはいえ、写楽の偽物が出回っているとは考えにくい。そもそも、この絵は全て蔦屋で買っているのだから、もしこれが偽物なら、蔦屋もその片棒を担いでいる事になる…。」
彦次郎は、広げた絵の前で腕を組み頭を捻る。
「でも、そんな事をしてしまえば、版元としての信頼は地の底まで落ちてしまうから、蔦屋が偽物を売っているとは考えにくい。とすれば…。」
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