写楽ー江戸の夜に消ゆー【結】
【第四章】
虫の音がやかましい蝉の声から、涼し気にリーンリーンと鳴く秋の虫の音に変わるころ、彦次郎は雲尾藩に戻り、写楽絵の制作に取り組んでいた。彦次郎は、家にいる間は源左衛門に商いのイロハをしっかりと教わり、また、浮世絵の題材となるようにと、両国や吉原に出かけては、その場の光景を目に焼き付けた。
そして家に帰ると、誰にも気付かれないように、ふすまを閉め切り灯を落とした部屋で密かに紙を広げ、筆を取った。最初の頃はその筆先は何度も線を描き直していたが、毎日のように描き続けたことで、日中見てきた喧騒の一瞬を、まるで封じ込めるかのような生き生きとした線を生み出せるようになっていた。
三期目の写楽の絵は、そうやって彦次郎が描き溜めた下絵を土台として作られていった。
「景信様。絵が仕上がったので、重三郎さんのところに持っていこうと思っています。」
彦次郎は、自分が一から描いた浮世絵を景信に差し出した。絵筆を握るたび、誰にも見せずに描いていたこの絵が日の目を見ることに、胸が高鳴る一方で、何者でもない自分の絵が、よりにもよってあの写楽として表に出る事に対する不安も膨らんでいた。
「うむ……なるほどな。」
景信は絵を受け取ると、目を細めてじっと見つめた。いつもの軽い調子ではなく、何かを慎重に見定めるような静かな眼差しだった。
「やはり、描き手が変わると絵の雰囲気というものはずいぶん異なるものだ。」
景信の声には、わずかな感嘆が滲んでいたが、その言葉の真意を測りかねた彦次郎は思わず口を開いた。
「その……あまりよくなかったでしょうか?」
景信は顔を上げ、少し驚いたように首を振った。
「いやいや、すまぬな。ただ、これまでお主の絵をこうしてじっくりと見る機会がなかっただけだ。浮世絵と言えば、どうしても三之助の筆になるものが頭に浮かんでしまっていた。それが刷り込まれておったのだよ。」
景信は心からそう思い、彦次郎の不安を和らげようと微笑みかけた。しかし、元から心の片隅に不安があった彦次郎は、その笑顔にどこか含みがあるように見えて、彦次郎の胸には小さな波紋が広がった。
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