句点を打つ
季節はすっかり秋(冬 ? )になり、年末に向けて世の中が大きく動き出したような感じがします。
皆さん、体調いかがでしょうか。
さて、今年も流行語大賞ノミネート一覧が発表されました。
僕が気になったのは「カスハラ」という言葉。
「〜ハラ」という言葉が増えてきたこの頃、いつか誰かが記事で書いていた「マルハラ」という言葉を思い出したからだ。
今の20代の人を中心にSNSでの会話の文末に「。」をつけなくなっているらしい。
「威圧的」「冷たい」、そんな印象を受けるから「。」をつけるのは一種のハラスメントなのだという。
僕は普段、マルハラをしている側なので、ハラスメントと捉える人たちの感覚が知りたくなり、20代前半の友人に聞いてみた。
上の理由とまた違った切り口の答えが返ってきた。
「う〜ん。説明が難しいけど、「。」のある文章って何か丁寧すぎる感じですごく違和感があるな。年上の人とメールする時は読みやすくするために「。」はつけるけど、気心の知れた相手には「。」も絵文字もつけないわ。強いて言えば送信ボタンを押すのが句点の代わりかな」
世代間ギャップというより、日常会話での日本語文法自体の変化に思わず目を丸くした。
「今まで普通に使ってくれてたのにひどいやん ! 」
そんな句点の嘆きさえ聞こえてきそうである。
ちなみにその友人は外国人で日本で仕事をしている。もちろん母国で正しい日本語文法を学んできた人である。
母国でも句点はつけないというから、既にマルハラは今年、流行語大賞にノミネートした「カスハラ」よりもグローバルな「流行語」だったりするのかもしれない。
物事には始まりがあり、必ず終わりがある。
ずっとそう思って生きてきた。
句点は「ピリオドを打つ」という言葉に象徴されるように会話の「終わり」を示すもの。
もしそのような「終わり」のない会話があるとするならば、世界の見え方が変わってくる。
終わりのないコミュニケーション。
あるnoterさんの言葉を借りるなら、人と人とは「出会い、別れて、また出会う」。
確かに人との出会いってそういうところが必ずあるし、みんなそう願っているのかもしれない。
近しい人には違和感のないよう句点をつけず、目上や年上の人には失礼のないよう句点をつける。
一見、世代間ギャップのように思える「マルハラ」という言葉は、その本質ではギャップなんかないんじゃないかな。そんなことをふと考えさせられた。
ちなみに、僕の大賞予想は
● 新紙幣
● 50-50
のどちか。まぁでも後者はないかな。
はぁ、今日も2000字もいかなかったな。
本当の意味でのnote復帰はいつになることやら。
はて ?
今日も読んでくださりありがとうございました。
いや、今回はあえてこう書いてみよう。
今日も読んでくれてありがとうございました
またお会いしましょう