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無意識レベルで「限界まで頑張るのが当たり前」だった私の半生
どうも。
2年ほど前に年収1,500万円の仕事を手放し、今は夫と子どもに溺愛されながら、自由に生きてるたっちーです ꒰ঌ(っ˘꒳˘c)໒꒱
私は、「限界まで頑張るのが当たり前」だと長いこと、無意識に思い込んでいたようで。躁うつ診断になったりしても、諦めずにいた結果、36歳ごろに念願だった年収 $100,000(約1,500万円)に昇給しました。その後、2年もせずに私はこの年収を手放すと同時に、脱サラしました。
この脱サラと前後して、私の人生は大きく変わりました。今回は、死にかけるほどに足掻き続け、無意識レベルで「限界まで頑張るのが当たり前」で、毎日のようにイライラ・カリカリしてた私の半生。つまりは脱サラする前の私の半生について書こうと思います。長くなると思いますが、読んで頂けたら嬉しいです ꒰ঌ(っ˘꒳˘c)໒꒱
今のプロフィール
同じ年と夫と、6歳の男の子と3人でアメリカ・ロサンゼルスに住み始めて3年目。無職ながらも、
ほぼほぼ毎日のように、自分の好きなことをするMY TIMEをしっかり持ちながら、子どもとの時間・夫との時間・心友との時間。どれも欲張りに取りに行き。面白がりながら、楽しんでいます (^-^)v イエイ!
具体的には、、
・ 毎日のように、気ままに好きなことをして自分満たし
・ 家事はやりたい時に、やりたい範囲だけ
・ 子どもとの時間は一緒に楽しむ時間
・ 心躍るモノや貴重な経験にお金を惜しまない
→ 数時間の経験でも $1,000(約15万円)使う
・ 気が向いた時に、時給 $30(約4,500円)で稼ぐ
こんな感じです(⸝⸝⸝´꒳`⸝⸝⸝)
今でこそ、こんな幸せな日常を手に入れられてる私ですが。数年前までの私は常に、イライラ・カリカリしてました。大して好きでもない仕事や人のことばかりを気にして、ソウウツ診断でドクターストップが出たり。3年前には、死にかけて緊急手術で一命を取り留めるような経験もしました。そして2年前からは、脳の病気(テンカン)持ちです。
どうやら、無意識レベルで「限界まで頑張るのが当たり前」だと思っていたようだし、今も少なからず思ってる説です。“o( ̄‐ ̄*) ォィォィォィ
そんな私は、2年半ほど前に、年収1,500万円を手放しました。そして、今も基本的には無職です。それでも、ほぼほぼ毎日のように、楽しく・自分らしく・幸せに生きています。脱サラ後の、ここ数年の変化の過程はこちらに書きました。
それでは、今回の本題。
脱サラするまでの私の半生について書いていきます。
小学時代:アメリカ文化と日本文化の間で苦しむ
私は、小学1年生の秋から5年生の夏まで、父親の仕事の関係でアメリカに住んでいました。
英語が全く分かなくて、先生が何を言ってるのか、分からない。もちろん、友達も出来ない。母親によると、寝言で関わりの少なかった祖父を罵り、日本で大好きだった「となりのトトロ」もみることなく、ひたすら「風の谷のナウシカ」を見続けていたそうです。
1年経ったころ、急に英語を話し始めた私。そこからの私のアメリカ生活は天国のようでした。ちょっとしたことでも、ものすごくほめられる。
30年以上経った今でも、覚えています。
英語を話すのが苦手だった母親と、デパートに買い物に行き。店員さんと母親の間で通訳をしていたら、店員さんが大きくほめてくれたことを。昨日のことのように思い出せます。
そんなホメホメ文化のアメリカから、日本に戻ったのが10歳のとき。アメリカに行った当初とは違った苦しみがありました。給食当番や生徒たちが掃除をする、ということを知らないだけで、バカ扱いされたり、変な子扱いされたり。
年齢的なものもあったと思います。時代もあったと思います。けど、当時の私には戸惑いでしかありませんでした。
私の経験上、ハッキリとバカにしてきたのは、男の子ばかりで。真正面からくるものは、こちらもハッキリと言い返したり、開き直ったりしたのですが。女の子の場合、表面的には優しくするけど、ウラではバカにしてるパターンがあり。この辺りから、女の子たちとの距離感に苦しむようになった気がします。
それでも、中学生のころ。ずっと友達でいたいからこそ、相手の悪気ない行為で傷付いたことを勇気を出して伝えてみたのですが。びっくりされて距離を置かれてしまい。同性の友達を作るのには、本当に苦戦。表面的な付き合いばかりを重ねるように。
そうやって、男子にはありのままの自分でいられるけど、女子の前では自分を押し殺してしまう。そんな二重人格のような自分が出来上がる中で、追い打ちをかけてきたのは、分かりにくい母の「愛」でした。
10代:母親に褒められたい!頑張る人生の始まり
日本に生活が移ってから、私は息苦しく感じることが少しづつ増えていきました。学校生活もですが、母親と一緒にいる時間でも、そう感じることが増えてきたのです。
エピソードはいくつかありますが、私の中で大きいものは、
父親の上司のお宅にお邪魔した後、「悪気がないのは分かってるけど、ああいうことはしちゃダメ」と言われ、「どういうこと?」と聞いても答えてもらえなかったこと。
しばらくの間、「切手」と「切符」が使い分けられず。「切手買いに行ってくるー!」と大きめの声で、駅に向かって走っていったところ、追いついた母から「恥ずかしいから大きい声で間違ったこと言わないで」と言われたこと。
「書留」を「しょりゅう」と読んだところ、「18歳にもなって、”かきとめ”を知らないの?恥ずかしい」と言われたこと。
オランダ人の友達が家に来たときに、友達が「You must be so proud of her 」と言ったら、全力否定したこと。
そんなことで??と思われるかもしれませんが、「ほめてほめて伸ばす!」が当たり前のアメリカで育ち、塾や学校では成績優秀児として褒められることが多かった私にとって、いちばん褒めてほしい母親に褒められないことはこの上ない苦しみだったのです。
さらに、褒められないならまだしも、けなされることも多く。目立つ非行に走ることはありませんでしたが、自己否定ばかりを繰り返す他校の男子学生と付き合うように。なにかにつけて、「どうせ自分なんか」「誰も俺のことを好きにならない」という彼。毎日のように泣きながら、何度も「好き」と伝える日々でした。今思うと、なにをやってたんだか、、、と思いますが。当時の私にとって、「勉強ができる私」ではなく、シンプルに「私」を求めてくれる彼を支えることが、私の生きる目的になってたのです。
20代:周りの期待に応えることが全て
大学に入学後の夏、私は今の夫と出会いました。同じクラスだったのですが、男子ばっかりで把握できてなくて。キッカケは、5人で富士急ハイランドに行った帰りに、途中からふたりになったこと。その時期、私は高校時代からの彼氏のことを重荷に感じていて。記憶にないのですが、彼氏と母親への文句を吐き出しまくったそうです。夫は後々、「ほぼ初対面で、ここまで、さらけ出す人いるんだってびっくりした」と教えてくれました。
とにかく話を聞いてもらえて嬉しかったのか。正直、あまり覚えてませんが、夏休みの間に急接近。1ヶ月ほどして付き合うことになりました。「好き」と伝えても、疑われない。毎日のように泣くどころか、毎日のように笑っていられる。パートナーシップに関しては、この時期から悩み知らずでした。
友人・対人関係についても、大学時代はラクでした。相変わらず、同性の友達を作るのには苦戦してましたが。タイミングだったり、自分の気持ちに身を任せて関わりたい時に関わればいい。そんな距離感が心地いい私だったので、同じような人とだけ関わっても孤独になることはない。そんな環境は私にとって理想的な環境でした。
一方で、就職した後は、中高時代に戻ったような気分になり、ウツウツとなることが多くなりました。大きい違いは、年齢の離れた男性ばかりなこと。話題についていけないことが多く、なにかにつけて自虐するオジサマ方。おもしろくないし、ランチは早食いしなきゃだし、、、とモヤモヤしつつも、私のワガママな配属を叶えてくれた人事の方々や本部長のために、頑張らねば!!と躍起になってました。また、対応してるお客さんがお客さんなだけに、扱う金額も大きく。社会的な影響も考えると、やる気がみなぎってくることもあり。毎日のように仕事に打ち込み、終電に間に合うべくダッシュ。ベッドに倒れ込むように眠り、電車で立ち寝しながら出勤。今思うと、なかなか超人的な生活でした。
そんな生活を2年ほど続けたころ、今の夫との結婚が決まりました。本部長に報告すると、「仕事は?」と聞かれ。本部長の中には、私がずっと目指していた「仕事と家庭の両立」という概念がないことに気付かされました。これをキッカケに、営業部からの異動を希望。約半年後、ありがたいことに別の営業部の本部へ異動となりました。
しばらくは、年齢の近いふたりと仕事ができて、大変ながらも充実してました。ただ、そのあとは若手ひとりで、本部長と営業の間を取り持つような仕事をすることになり。色々と起こり、最終的には精神を病んでドクターストップ。
仕事や会社から解放される安堵感はあったけど、ものすごく複雑な気分だった。周りの期待に応えようと、一生懸命に働いてきたのに。みんな頑張れてるのに、私は頑張れない。負けたの??みたいな敗北感。どうして?どうして?どうして???抱えきれないような大きな悲しみや怒り、孤独感。最終的に、1年半ほど休職したのち、夫の大学院留学についていく形で退社しました。
30代:絶好調な再出発!!からの、死にかける
小さいころに住んでて、楽しい・幸せな思い出が多いアメリカ。1年の予定だったこともあり、「人生の夏休み」と称して、1年間、思いっきり羽を伸ばすことに。正直なところ、お金の心配があったけど、ここは気にせず楽しもう!!という私のお気楽マインドが珍しく発揮されたおかげで、だいぶ自分らしさを取り戻せた時期。エネルギーが蓄えられたからか、その後、夫のアメリカ就職が決まった後も、カツカツな生活ながらも楽しみながら過ごしてた。
夫の収入のみで生活を続けて約半年後。夫のビザ変更にともない、私も合法的に働けることに。日米バイリンガルであることに加え、日本の銀行で営業職をしてたこともあり、ビザを得た私はすんなりと仕事がもらえました。
そこから約5年間にわたり、今までの人生におけるピークを更新し続けるような日々でした。仕事は大変だったけど、やりがいがあるし、仲間にも恵まれて、アメリカの永住権にも当選し、子どもにも恵まれた。あるとき、コーチングをされてる方と出会い、「今、この瞬間に点数をつけるなら?100点満点で」と聞かれて、「100点!!」って即答できるほどでした。
こんなに幸せでいいの?!
本当に心の底からそう思ってました。だけど、ここから一気に下降。2019年から2022年にかけて、雪だるまのごとく、モヤモヤも不幸レベルも急加速していきました。
そう、今まで先送りにしてきたこと。向き合いたくなくて、向き合わずに先送りにしてきた私の中の問題が、一気にやってきたのです。そして、私は死にかけました。2020年の11月のことでした。
今でも日付を覚えてます。2020年11月9日、月曜日。突然、ひどい頭痛と吐き気に襲われ、仕事をするためにノーパソを開こうとするも、ままならない。いつもなら効く頭痛薬も効かず。もうひとつの頭痛薬を試すも、こちらも効かないどころか、さらに気持ち悪くなる始末。ベッドに横になって休もうとしても、痛みと気持ち悪さで休めない。常にひどいわけではなかったですが、とにかく集中できない状態できず、スマホから上司にメールを打つのが精一杯でした。
それを5日続け、なんとか週末になり一安心。仕事のことを考えなくて済んだからか、頭痛も吐き気もだいぶ落ち着いた週末を過ごしたのも束の間、16日の夕方に嘔吐。ちょうど子どもと床に座っていたのですが、マーライオンのごとく嘔吐しました。
これは流石に、なにかがおかしい、すぐに医者に診てもらおう、ということで救急に駆け込みました。そこで処方された薬が効いたのと、まずは脳神経内科で診てもらったほうがいいというアドバイス、そしてなにより私がその環境にいたくなくて、その日は家に帰りました。
翌々日、予約の取れた脳神経内科へ。MRIを勧められ、一番早い日で予約(25だか26日でした)。とにかく無理をしないように過ごしました。
そして、その数日後の21日、私は自宅のリビングで横になりながら、そのまま体が動かせなくなり。今度は救急車で救急へ。CTなどの検査を受け、そのまま入院。さらに数日後の23日に、なにがあったのかはよく分かってないのですが、系列病院に転院となり、25日に意識のないまま手術を受けてました。
手術前の記憶は曖昧ですが、うっすら覚えてるのは、
担当医が私と会話をしながら驚いてたこと
”書類にサインして”と言われて、”するけど、夫にもちゃんと読んでもらって欲しい”と言いながら、なんとかサインしたこと
不思議な夢を見ていたこと
この最後の夢が終わると同時に、目が覚めて。見たことのない天井が視界に入ってきたと思ったら、「心配したんだよ!無事で良かった!」と言う女性の声が。そして、しばらくして、自分が手術を受けたことを把握したのです。
退院後、私はなるべく入院前からの計画に沿って動くようにしてました。サンクスギビングのディナーなどは出来ませんでしたが、ショッピングモールでの、クリスマスの写真撮影や家族3人でのクリスマスパーティー、正月祝いや誕生日祝い(2月と3月に集中)。
ただ、なかなかに大変でした。アメリカの医療制度や医療単語が分からないこと、保険申請や医療費との支払いの管理などなど。慣れないことが次から次への発生する中で、20ヶ月になる子どものお世話。平日はほぼほぼ保育園に預けていましたが、それでも朝・夕の世話やお昼の準備はありました。
また、子どもに寂しい思いをさせた。心にキズみたいなものを残してしまったのではないか。そんな不安にも駆られました。子どもはきっと、なにが起こってるのか分かってないだろう、、、とも思いましたが。救急車に家族3人で乗ったあと、そのまま母親(私)が1週間ほど帰ってこなかったこと。小さいながらに、寂しい思いをさせてしまったのではないか。そんな気持ちになることも多かったです。
とにかく、手術後は、前を向き続けようと必死でした。拠点を日本に移すことも考えました。医療関係者からすると、私が助かったのは、かなり奇跡的というか、幸運が重なったからのようです。私としては、意識がない間に手術が行われていたのもあり。正直なところ、目が覚めたら頭回りは楽になっていた、っていう感じなのですが。夫も、もうダメだと思った、と言っていたので、ハタから見たら、本当に危険だったのでしょう。そう思って、自分が生き続けてる意味みたいなものを考えたこともあります。
前を向いて、アメリカの真反対側に行き、脱サラもする。そんな大きな決断をした後も、愛犬のガンが発覚し、余命半年宣告を受けたり。なんとか状態が安定したと思ったら、私がてんかんやパニック発作を起こしたり。本当にここ数年は色んなことがありました。色々と模索し、苦しみましたが。最終的には、手術も愛犬の死も、てんかんもパニック発作も。自分らしい幸せを追い求めることの大切さを私に気付かせるための出来事だったのかな。と考えてます。
さいごに
今回も、長い記事になりました。
ここまで読んで頂いた方、ありがとうございます(⸝⸝⸝´꒳`⸝⸝⸝)
この記事を書こうと決めたのは、自分のこれまでの人生をしっかりと棚卸してみよう、と心を決めて、スプレッドシートを使ってライフラインチャートを作ってみたことが発端です。
作ってみて、自分の今までの人生を俯瞰できた気がします。冷静に見つめられたというか。
私はここ数年間、この「俯瞰して見る」「冷静に見つめる」が出来てなかったのかもしれません。
4年ほど前に死にかけて。3年ほど前からはてんかん持ちに。
なんで私がこんな目に遭うの?そんなふうに思い、理由を追い求めて、ムリに理由づけをしてみたり。
逆に、そんなことを考えても仕方がない。アドラーは「トラウマは存在しない」って言ってる。過去に縛られるのはやめよう、って思ったり。
チャートに落とし込んでみて、パターンがあることに気付けました。下降するときは、家庭環境が不安定だったり、人と比較していたり、不安に囚われているとき。一方で、上昇するときは、気ままに過ごしていたり、旅行にしょっちゅう行ってたり、普段から自然に触れる機会があったり、多くのエンタメやアートに触れているとき。
谷にいるときは、大抵、心身がおかしいことになってます(๑˃▽˂๑)
山にいるときは、大抵、人間関係が安定・もしくは絶好調(๑˃▽˂๑)
予想以上に発見があったので、しっかりめに振り返ってみて良かったです。
(魅力覚醒講座の最初のワークもライフライン!ここサボっちゃダメだわ!)
私はクリエイター名(アラフォー女の成幸追求記📝 by たっちー)にも含めてるように、”成功”ではなく、”成幸”を追求しています。
私の成幸追求は、まだまだ道半ばだけど。これからも、もっともっと、ありのままを認めて、好きになって。どんな自分でもいいんだよーって、自分を抱きしめながら、成幸ストーリーを作っていきます!!
そして、昔の私のように母親や周りのために自分を犠牲にしてる人や、周りの目や評価を気にして頑張ってしまう人の「ちょっと先をいってるけど、一緒に頑張れる」中高時代の先輩的な立ち位置でいれたらいいな (⸝⸝⸝´꒳`⸝⸝⸝) なんて、思ってます。
no+e は引き続き、気ままに思いつくままに記事を書いてく予定ですが。発信内容は、私のこれまでの人生・体験がもとになることが多いと思うので、今回も、しっかり目に書くことにしました。
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![アラフォー女の成幸追求記📝 by たっちー](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/132099140/profile_835b72d5fc99c242d83383e48b784188.jpeg?width=600&crop=1:1,smart)