作家・三浦綾子さんの壮絶な人生を伝えたい
1961年に「太陽は再び没せず」で作家デビューした三浦綾子さんは、その後、「氷点」(1965年)、「塩狩峠」(1968年)、「細川ガラシャ婦人」(1975年)など多くの作品を残し、1999年10月12日に77年の生涯を閉じました。
私は三浦小説を2冊しか読んだことがありません。
作品の熱烈ファンではないのかもしれませんが、人としての三浦綾子の大ファンです。
今回は、あまり知られていない三浦綾子さんの壮絶な人生をご紹介できたらと思います。(「心に響く小さな5つの物語」Ⅱを参考に、一部を抜粋させていただきます)
☆☆☆☆☆☆☆
三浦さんの人生は難病の連続だった。
24歳で突然高熱に倒れたのが発端である。
それがその後、
13年に及ぶ肺結核との闘病の始まりだった。
当時、肺結核は死に至る病だった。
入退院の繰り返しの中で、
三浦さんは自殺未遂も起こしている。
さらに悲惨が重なる。
脊椎カリエスを併発。
ギプスベットに固定され、動かせるのは首だけで
寝返りもできず、来る日も来る日も天井を目にするのみ。
排泄も一人ではできず、すべての世話はお母さんがした。
そんな生活が4年も続いたとは想像を超える。
そこに一人の男性が現れて結婚を申し込む。
光世さんである。
その日から薄紙を剥ぐように快方に向かい、
二人は結婚する。
綾子さん37歳、光世さん35歳だった。
そして綾子さんの書いた小説『氷点』が
新聞社の懸賞小説に当選、作家への道が開ける。
しかし、その後も病魔はこの人を襲い続けた。
紫斑(しはん)病。
喉頭がん。
三大痛い病といわれる帯状疱疹が顔に斜めに発症、鼻がつぶれる。
それが治ったかと思ったら大腸がん。
そしてパーキンソン病。
次々と襲いかかる難病。
それだけで絶望し、
人生を呪っても不思議はない。
だが三浦さんは常に明るく、
ユーモアに溢れていた。
「これだけ難病に押しかけられたら、
普通の人なら精神的に参ってしまいますね」
という質問に、三浦さんは笑顔で答えた。
「神様が何か思し召しがあって
私を病気にしたんだと思います。
神様にひいきにされていると思うこともあります。
特別に目をかけられ、特別に任務を与えられたと…。
いい気なもんですねぇ(笑)」
誰の人生にも絶望的な状況はある。
だが、心が受け入れない限り、絶望はない。
同様に、誰の人生にも不幸な状況はある。
しかし、心が受け入れない限り、不幸はない。
三浦さんの生き方は
そのことを教えてくれているように思う。
三浦さんがこんな言葉を残している。
「九つまで満ち足りていて、
十のうち一つしか不満がないときでさえ、
人間はまずその不満を真っ先に口から出し、
文句をいいつづけるものなのだ。
自分を顧みてつくづくそう思う。
なぜ私たちは不満を後まわしにし、
感謝すべきことを先に言わないのだろう」
☆☆☆☆☆☆☆
いかがですか?
きっとあなたも、人としての三浦綾子ファンになったことでしょう😄
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