愛について
愛ってなんだろう。わたしは、夫のことを愛している、と、思う。同時に、憎らしくて憎らしくてたまらない。離婚すればいいじゃん、と何度も考えたし、友人にも言われる。でも、離婚して全て終わりでもない。いや、終わるんだろうか。あんなこと言われた、こんなことされた、あるいは何もしてくれなかった。嫌な思い出の一つ一つも、離婚すれば全て水に流せて、あとはキラキラとした思い出ばかり残るんだろうか。
そんなとき、たまたま仏教での愛の捉え方を知った。仏教で愛は「加虐性のある煩悩」。愛が深まれば深まるほど、憎らしくてたまらなくなる。ーーその瞬間、腑に落ちた。わたしは、夫を愛している。与え、奪いたくなる、この気持ちは、確かに愛だったのだ。
そして慈悲。仏教で目指すべき心は、慈悲。ただ無償で分け隔てなく与えるもの。わたしにとって、慈悲に一番近い存在は、二人の子どもだろう。この腹で育み、満ち足りるまで乳を与え、清潔を保ち、食事を作り、成長を見守る。約束を守らなかったり、喧嘩しても翌日にはけろりと仲直りする。わたしは死ぬまでに、夫と夫の家族に慈悲の心を持つことはできるのだろうか。
そんなとき、わたしに甲状腺異常が見つかった。癌の可能性もあるといわれ、紹介状を書いてもらって、大きな病院に行く。血液検査をし、エコーをとり、数週間結果を待っている間、帰国して以来ぶりに、タヒチに住む知り合いの日本人からメールが来た。いわく、義母とスーパーで会って、わたしが甲状腺癌だと聞いた、と。心配しています。子供達は学校でうまくいっていますか?わたしも体調がすぐれず、云々カンヌン。その長文メールを見て、わたしの身体は文字通りワナワナと震えた。検査の結果がわかるまで、不安にさせるだけだからと、わたしは自分の両親にさえ自分の甲状腺異常について伝えていなかった。にもかかわらず、夫はわたしの身体のことを義母に勝手に言った。さらに、義母はスーパーで会っただけの私の知人に、さも重症のように話した。ーーなぜ?義母の気持ちがわからなくて、イライラする。
大前提として、わたしの身体はわたしのプライバシーだ。震える手で、深呼吸し、夫にラインをする。速攻、謝罪ラインが届く。夫の言い分は「わたしのことが心配で、遠くに住む誰かに相談したかった」ーーは?違うだろう。遠くに住む誰か、じゃなく、お前は自分のママに言いたかったんだろう?そして、自分が心配されたかった。心配されて、お前は安心しただろう。しかし、わたしの不安は何一つ減りはしないし、心配を装ったムカつくメールをもらって、さらにストレスが溜まっただけだ。「お母さんも心配している」それこそ余計なお世話だ。わたしの病気のことは、わたしが言いたい人に言いたいタイミングで、自分の言葉で直接言う。そうじゃない人には心配なんかされたくもない。そもそも、義母はわたしに直接連絡し、心配の言葉を直接伝えることもできるのに、それらを一切せず、スーパーで些細な噂話の一つにされたことが心底腹立たしい。
…あぁ、どうしよう、また、愛が深まった。夫はただただ謝る。だが別居していて、夫は直接わたしに会って謝罪や弁解をしようとはしない。わたしは夫が悪いことをしたから、自分の怒りをぶつけているんだろうか。謝るってなんだろう。謝られた方は、許さないといけない。それがどんなに残酷なことか。謝ったんだから、許せと言う。わたしは謝ってほしいわけではない。その時の、辛いわたしの気持ちを理解してほしい。自分のこととして受け止めて欲しい。今回だけではない、その瞬間のわたしの寂しさ、孤独、キツさ、しんどさ、その全てをわかって欲しい。
夫が義母に勝手にわたしのプライバシーを言い、義母が勝手にわたしのプライバシーを第三者に言ったその件は、うどんを一杯奢ってもらって水に流してあげた。わたしが「うどんを奢ってくれたら水に流す」という提案をしなければ、再び夫はわたしから逃げて逃げて逃げ続けたことだろう。わたしに直接謝罪することさえも頑なに拒否していたのだから。
病院で、甲状腺異常が良性のものだと告げられた翌日、わたしに胃がんが見つかった。
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