フィールドワーカー春日部咲~『げんしけん』は文化人類学である!~
『「覚悟」を決めた笹原の明日はどっちだ!?笹原完士は大学入学を機にそれまで秘めていた「漫画・アニメ・ゲーム」への思いを分かち合えるサークルへ入ることを決意した新入生。見学で訪れた「現代視覚文化研究会」=「現視研げんしけん」の2年生・斑目の策略により根拠のないプライドを崩された笹原だったが、未だ自分がオタクであることを認められないでいた。しかし、同人ショップや即売会など、そのモデル並のルックスに反比例したオタク・高坂、そして斑目たち「現視研」のメンバーと行動をともにしていくなかで、ココロを解放していった笹原はこの道に進む覚悟!を決めていく。高坂にベタ惚れな(非オタク)春日部咲やコスプレイヤー・大野など様々な人間も加わって、今日も「現視研」を舞台にした笹原のオタクライフはゆるりと流れるのであった。』(dアニメストア「げんしけん」 あらすじより)
はじめに
『げんしけん』は、今の新しい世代のオタクたちには馴染みの薄い作品かもしれない。それもそのはず、初代の漫画は2002年~2006年の連載、テレビアニメは1期が2004年、2期が2007年である。中高生はもちろんのこと、本作のキャラクターたちと同じ、大学生の世代でもとっくのとうに過去の作品となってしまっている。ではなぜ今、『げんしけん』なのか。話は単純だ。筆者がたまたまアニメ版の3度目の視聴をしているからであり、その中で、あることに気付いたからである。本稿の執筆理由は、それ以上でも以下でもない。
『げんしけん』コミック第1巻
筆者は何に気が付いたのだろう。そう、『げんしけん』という作品は、漫画・アニメという「現代視覚文化」により描かれた「文化人類学」なのではないかということ。ネット検索では既にちらほらそのような指摘がなされているから、この視点が全く斬新なものとは残念ながら言えないし、正直なところ大した発見でもない。しかし、ブログ等の形でまとまった文章としてこのことに言及している先行研究(笑)は管見の限り見当たらないため、時代錯誤の感は否めないが論じていこうと思う。すなわち、「なぜ『げんしけん』は文化人類学なのか」を本稿は明らかにしていきたい。なお、『げんしけん2代目』を含めていないのは、当作が文化人類学の手法をとらないことによる。本稿はあくまで初代『げんしけん』の分析となる。では、いよいよ本題へ入っていこう。
未開部族「現視研」のエスノグラフィー ~フィールドワーカーとしての春日部咲~
テレビアニメ『げんしけん』DVD第1巻
文化人類学には「エスノグラフィー」という言葉がある。日本語では「民族誌」とも言うこの概念は、アフリカの未開の部族や世界の少数民族といったマイノリティな存在から、暴走族、底辺高校生、援交少女、といったアンダーグラウンドな人々など、実に様々な対象をその分析対象とする。こうした集団の文化、具体的には彼らの行動様式や習慣、集団の掟などを調査者が実際に現場へ入り観察、記述する。これがエスノグラフィーである。エスノグラフィーは、入門書を読むのもいいが、優れたエスノグラフィーを手に取って読むことで、どういった手法の研究なのかが分かるはずだ。時間のある読者は是非、生のエスノグラフィーに触れていただきたい。
では本題に入ろう。本章では、未開部族(!)としての「現視研」を文化人類学的手法により我々の前に提示するフィールドワーカー(観察者)としての春日部咲(以下、春日部)に焦点を当てて考察していきたい。
『げんしけん』のヒロインであり、本稿の主役でもある「春日部咲」
1.文化人類学的フィールドワークとはなにか
先生の男の子のイラスト
春日部がなぜ「現視研」のフィールドワーカーなのかを論じる前に、まず文化人類学的フィールドワークとはなにかを確認しておこう。文化人類学的フィールドワークとは、基本的には調査対象となる集団の「外」の人間が行う。それは、文化人類学が、西洋人の非西洋世界の「発見」という性格の強かった学問だからだ。西洋人(観察者)が非西洋人(被観察者)の文化を、西洋人の視点で、価値観で、自文化との「比較」によって描き出す。それが文化人類学の伝統的なあり方だった。しかしこうした西洋中心主義的なあり方には批判が多く(ちょうど、『げんしけん』における春日部(西洋人)がオタク(非西洋人)を自らの尺度で貶したり驚いたりするように)、近年ではその反省から被観察者への深い尊敬や尊重、そして対等性のもと、調査研究がなされている。
2.春日部咲はなぜフィールドワーカーなのか?
「フォークロア」という言葉を民俗学の用語であることを大学一年生で知っていた春日部 もしかすると専攻はそっち方面かも?
前置きが長くなった。ではここまでの説明をもとに春日部がなぜフィールドワーカーなのか具体的に論じていこう。それには3つの理由がある。
①非オタク(一般人)であること、②にもかかわらず長期間『現視研』に入り浸り、メンバーと交流を続けていること、③メンバーとの交流の中で、春日部の側もメンバーの側も変化していったこと。一つひとつ見ていこう。
①非オタク(一般人)であること
原宿の衣料品店で買い物をする春日部 オタクは服など買わない
春日部は、周知の通りオタクではない。『現視研』メンバーいわく、「一般人」である。前述のように、伝統的な文化人類学とはヨソ者たる西洋人(観察者)が非西洋人(被観察者)の中へ入るという方法を採る。西洋人(春日部)が未開部族たるオタクを観察する。まさに文化人類学の手法そのものではないだろうか。
②にもかかわらず長期間『現視研』に入り浸り、メンバーと交流をつづけていること
非オタクの一般人が、オタク・コミュニティに長期間参与し、そこのメンバーと交流をする。これはフィールドワーカーの最も大事な仕事である。彼氏である高坂の御目付役とはいえ、オタク・カルチャーに全く関心のない(それどころか、初期は嫌悪感すら抱いていた)彼女が性懲りもなく『現視研』に入り浸り(班目いわく、出席率が高い)、嫌悪感すら抱くオタクたちと長期間に渡って空間を共にするというのは、学者並みの執念と根性がなければできない芸当だ。観察屋からすると、彼女の行動は立派なフィールドワーカーである。
なんだかんだ言って『現視研』に入り浸る春日部
③メンバーとの交流の中で、春日部の側もメンバーの側も変化していったこと
社会学には「社会構築主義」(以下、構築主義)という考え方がある(文化人類学は社会学と実に近しい関係にある)。それは一言すれば、「現実というものは全て社会的に構築されている」というものである。どういうことか。「オタク」という存在がある。だがこの人物は、生まれた時からオタクだったわけではない。彼は、その特定の物事に対する並々ならぬ興味や、独特のまくし立てるような喋り方から、「彼はオタクだ」という認識を他者に持たれる。かくして、一人のオタクが社会的に構築される。これが構築主義の考え方である。
オタクと思われたくないあまり笹原を問い詰める春日部
次に確認しておかなければならないのは構築主義の中の一流派とでもいうべき「対話的構築主義」である。これが③を理解するうえで最も重要となる。一言すれば、「社会的な現実は人と人との対話によって構築されている」というものである。構築主義の説明の例では、人はオタクであるという認識を他者から持たれることでオタクとなっていた。だが、対話的構築主義は、一方的なラベリングではなく、人と人との対話を通して、現実が構築されていくという考え方である。オタクは他者から一方的にオタクだとラベリングされるのではなく、他人との対話を通してオタクとなるのである。これが対話的構築主義である。
春日部と『現視研』メンバーとの対話の中で、春日部も、『現視研』メンバーも、心情的・行動的に変化した。最初はオタクやオタク的な物を嫌悪していた春日部も、物語の進展にしたがって少しずつではあるが彼らや彼らの文化に理解を示していく。オタク・コミュニティに異端(一般人)が入ってきたことに戸惑いを感じていた『現視研』メンバーも、春日部と同じくらいの早さで、いや、彼女よりも更に鈍行(!)で、一般人を理解していく。かくして、観察者(春日部)と被観察者(現視研)の対話的構築の物語が出来上がった。この営みはフィールドワーカーそのものである。
春日部の何気ない提案でコミフェスに出店するサークル名が「げんしけん」となる。彼女が部のメンバーから認められた証でもある。
以上のように、春日部咲というキャラクターは、紛れもない文化人類学的フィールドワーカーであることが理解できたはずである。そのうえで次項では急転直下となるが、フィールドワーカー春日部のフィールドワーカーとしてあるまじき行為の数々を紹介していこう。
3.マッド・フィールドワーカー春日部
「シャーーーーー!!!!!!!シャー!シャー!シャシャシャシャー!!!!!!!!」(※台詞は不正確 とにかくこんな感じで箒を振り回して暴れていた)
春日部咲というキャラクターは、本作における文化人類学的フィールドワーカーであると述べたが、その言動はフィールドワーカーとして、いや、場合によっては人として、不適切なものが多い。上記の場面は、班目に猫耳のカチューシャをつけられ怒り狂うシーンである。彼女は『現視研』メンバーだけでなく学祭に集まったオタクをも巻き込んで暴れに暴れた。彼女の粗相には枚挙にいとまがないが、本項ではそのうちのいくつかを挙げていこう。
①暴行
初対面の笹原に些細なことで鉄拳。田中もチョップを喰らう。班目に関しては数えるのが面倒になる。
高坂についてきただけの春日部に「キミも現視研(オタク)?」と言ってしまい殴られる笹原
「学園祭でコスプレしてみない?」と訊いてチョップを喰らう田中
②オタク・バッシング
初期はオタクに対してかなり攻撃的で、罵る、嘲笑う、穢れたものを見るような目で見るなど、端的にひどいものであった。
『現視研』が廃部になることを知り、満面の笑みを浮かべる春日部
『現視研』廃部の嬉しさのあまり煽り散らかす春日部
③新人いびり
2年生に上がり、新入生が現視研に入部を希望してきた。朽木君と沢崎君という二人の男子学生だ。宇宙人のような言動の朽木君に対してはもちろんのこと、オタクにしては少しチャラ目な(女性会員目当て?)沢崎君に対しても春日部は終始威圧的態度だった。しまいには入部テストと称し、全国レベルの腕前の高坂と格ゲー対決をさせて追い払ってしまう。
空気の読めない朽木君を睨みつける春日部(これは仕方ない)
春日部の服を褒める沢崎君を冷たくあしらう春日部
入部テストとして全国レベルの腕前の高坂と格ゲー対決をさせてボコボコにされる沢崎君
④物を雑に扱う・壊す
田中の作ったロボットのプラモデルを不安定な場所に置き、机から落としてしまう。初心者の大野がやっとの思いで作ったプラモデルを触って壊す。
プラモデルを落とされて怒る田中
⑤ボヤ騒ぎ
屈指のやらかしエピソード。アニメ1期11話収録。悪意はなかったが、タバコをゴミ捨て場に落としてしまい消防・警察沙汰のボヤへ。こればかりは流石の初代会長も庇えなかった模様。
.春日部のタバコでボヤ騒ぎ 頭を抱えてカマキリのように動き回る班目がイイ感じに気持ち悪い
その他にも数々のエピソードがあるが、紙幅の関係上、このくらいにしておこう。では彼女のこうした言動のなにが問題か。むろん人として不味いというのもその通りなのだが、本項では文化人類学的フィールドワーカーとして不適切と思われる言動を全社会調査士が守るべき倫理を定めた、社会調査士認定資格機構「社会調査倫理綱領」をもとに指摘していく。①から順に説明しよう。
①暴行
インフォーマント(被調査者)に対し、暴行を加えることは、第二条「社会調査は、実施する国々の国内法規及び国際的諸法規を遵守して実施されなければならない。調査者は、故意、不注意にかかわらず社会調査に対する社会の信頼を損なうようないかなる行為もしてはならない。」に抵触しているため、フィールドワーカーとしてはご法度といえる。
ミイラのような顔で近づいてきた班目を咄嗟に殴ってしまう春日部 これは正当防衛なの……か?春日部が本当に嫌そうなのが面白い
②オタク・バッシング
インフォーマントに対し、攻撃的・差別的な言動を行うことは、第7条「調査者は、調査対象者をその性別・年齢・出自・人種・エスニシティ・障害の有無などによって差別的に取り扱ってはならない。調査票や報告書などに差別的な表現が含まれないよう注意しなければならない。調査者は、調査の過程において、調査対象者および調査員を不快にするような性的な言動や行動がなされないよう十分配慮しなければならない。」に抵触しているため、フィールドワーカーとしてはご法度といえる。
ゴミ捨て場に捨てた『現視研』部室の本の山を燃やしてやりたいと思う春日部 うっかりして後で本当に燃やしてしまうとはこの時は誰も思わなかっただろう
③新人いびり
インフォーマントに対し、攻撃的・差別的な言動を行うことは、繰り返しになるが、第7条「調査者は、調査対象者をその性別・年齢・出自・人種・エスニシティ・障害の有無などによって差別的に取り扱ってはならない。調査票や報告書などに差別的な表現が含まれないよう注意しなければならない。調査者は、調査の過程において、調査対象者および調査員を不快にするような性的な言動や行動がなされないよう十分配慮しなければならない。」に抵触しているため、フィールドワーカーとしてはご法度といえる。
楽しい新歓のはずが……(イメージ)
④物を雑に扱う・壊す
インフォーマントに対し、その所有物への接触について半ば強引に許可させたことは、第3条「調査対象者の協力は、自由意志によるものでなければならない。調査者は、調査対象者に協力を求める際、この点について誤解を招くようなことがあってはならない。」に抵触しているため、フィールドワーカーとしてはご法度といえる。
大野の初プラモを壊してしまう春日部
⑤ボヤ騒ぎ
インフォーマントに対し、多大な損失を与えることは、やはり、第2条「社会調査は、実施する国々の国内法規及び国際的諸法規を遵守して実施されなければならない。調査者は、故意、不注意にかかわらず社会調査に対する社会の信頼を損なうようないかなる行為もしてはならない。」に抵触しているため、フィールドワーカーとしてはご法度といえる。
突然の火事にデフォルメ化してうろたえる春日部 これはかわいい
以上、春日部のフィールドワーカーとして(元より人として)ご法度な言動をいくつか紹介し、解説した。文化人類学的フィールドワークが始まった20世紀初め頃の、西洋人(観察者)中心主義的な、権力性・暴力性の塊のような調査もビックリな、あまりにも大胆かつ尖鋭的な調査を、春日部咲というフィールドワーカーはやってのけた。調査倫理的に不適切なのはもちろんなのだが、それによってインフォーマントの集団の純粋性・固有性が破壊されてしまったことは、フィールドワーカーとしては失格であろう。対話的構築主義どころではない。これでは暴力的構築主義(?)である……。
だが、彼女はまだ大学生の、学問を始めたばかりの駆け出しである。今後、調査倫理を身につけ、研究法を洗練させていくことができれば、前衛的(!)文化人類学者として大成するかもしれない。彼女にはその可能性があると筆者は信じている。
未来の世界的文化人類学者、春日部咲の若かりし頃 全てはここからはじまった
おわりに
本稿は、『げんしけん』と言う作品を、文化人類学という視点から、牽強付会の自覚を持ちつつ様々読み解いてきた。すなわち、春日部咲は調査倫理上の問題を抱えつつも、文化人類学的手法を用いて未開部族『現視研』を観察する文化人類学的フィールドワーカーであり、したがって『げんしけん』は文化人類学的作品なのではないかということである。
文化人類学を学びたいのであれば、案外『げんしけん』を手に取るのもいいのかもしれない。