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「対話を探しています」 佐藤言

  ラルシュかなの家には、たくさんの喜びもありますが同時にたくさんのぶつかり合いもあります。コミュニティ生活なのでしょうがないのですが……。

 なかまとのぶつかり合いやアシスタント同士のぶつかり合い等、ぶつかる関係はさまざまです。

 ぶつかり合いには、上下関係、男女関係、勤務について等、話しにくい内容があり、また、どちらが正しいか、どちらが力を持っているかの勝負になると、アシスタント間のぶつかり合いはとくに難しくなります。

 ぶつかるきっかけは、生活での具体的なことへの考え方の違いです。

 例えば、誕生会にお客さんがたくさん来てしまい、席が足りないからどうしよう、という場面がありました。人数制限はしっかり守ろうというアシスタント、自分が誕生会に参加しないで、代わりにお客さんに参加してもらおうというアシスタント、いや、無理してでも全員参加させようというアシスタント。三人とも正しいと思っていることを主張しました。この三人にぼくが入っていたのですが、半ば強引にぼくの意見を通したので、他の二人を否定するような形となりました。 


 数日後、一人のアシスタントから、その時の決め方や言い方について、もう一度話したいと要望がありました。なぜなら、三人とも心のどこかに納得のいかない不満や怒りを持っていたからです。また、不満は誕生会のことだけではありませんでした。もっと以前から、いろんな反感をお互いに抑えていたことを薄々感じていました。

 そこで、ルールやマニュアルを決め、解決をすぐに見つけるやり方ではなく、対話を続けることを目的とする話し合いを三人で始めました。

 一回目は、警戒しながら緊張感のある聞き合いとなりました。非難されているように感じ辛かったです。それでも、自分の意見を言えたことと、自分の意見を聞いてくれたことはよかったです。定期的にすることが対話にとって重要だと教わったので、二回、三回と続けました。

 お互いの話しを聞いていくうちに、ぶつかり合う三人の怒りの根元には、共通する傷があることに気づきました。

 共通する傷とは子供の頃、存在を受け入れてもらわなかった経験を持っていたこと。そして、愛されようとするため、認められようとするためにがんばるのですが、うまくいかずに挫折して、自分の人生が壊れるまでに至ったこと。

 壊れた傷を持ち続けながら、今こうしてラルシュかなの家で出会い、傷を見直さなければならない場面に直面し、恥やプライドを乗り越え、何とか対話を探しているのです。
 
 この対話という言葉にあこがれを持っています。AA(アルコール依存症の自助グループ)でのわかちあい、べてるの家(北海道浦河町にある精神障害等をかかえた当事者の共同体)の三度の飯よりミーティング、フィンランドのオープンダイアローグ、アイヌのウコチャランケ(お互いに目的のため言葉を降ろす)、ハワイのホ・オポノポノなど、一人ひとりを聞き合う素朴な対話への考え方があり、対話方法が実践されていることが希望です。

 ダメな存在と思っていた自分自身が、なかまやアシスタントから信頼され、愛され、「大丈夫、心配しないで。そのままのあなたでいいよ」というメッセージをラルシュ生活でもらいました。

 このメッセージは、ぼくにとってのラルシュの贈り物であり霊性です。

 壊れて、役に立たないと思っていたぼくの小さな物語にはしっかり命の価値があることを伝えてくれました。

 ラルシュの使命の一つは、お互いに小さな物語を聞き合って、自分自身の人生に価値があると気がつくように助け合うことだと思っています。

 なぜなら、ぼくがそのプロセスをラルシュで経験し、救われたからです。失敗、挫折、恥ずかしい、壊れたと思っていたぼくの人生が、傷を含めて価値があるものだと考えられるようになったからです。

 金継ぎという、日本の技術を知りました。

 壊れてしまった器のひび(傷)を漆で接合し、そのひびの上に金粉を塗り、再び美しさを見出す日本独自の修理方法です。傷の接合部分に使う漆は、木を傷つけて出た樹液です。
 傷を受けた経験が、他人の傷を癒し、傷を含めた器が美しくなるという感性です。競争し成功することに大きな価値のある日本に、このような美意識があることが、とてもうれしく思います。

 障がいを持ち、傷を受けたなかまと、障がいはなくとも傷を受けたアシスタントがラルシュかなの家にいます。

 ひとりで金継ぎはできません。

 お互いに直し合い、傷を含めた命に美しさを見出すには、無力なひとりの物語を、お互いに聞き合う対話が必要だと感じています。

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