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「一緒にいることの不思議」             佐藤 言(さとう げん)

ラルシュかなの家のアシスタントから「障がいのあるなかまは優しい」と聞くことがあります。

 障がいのあるなかまのすばらしさを言っていますが、この言葉にはアシスタントとの比較があります。なかまは優しいけどアシスタントはあまり優しくないという意味も込められています。

 ただ、けっして、かなの家のアシスタントが優しくないのというのではなく、なかまとの違いが顕著になると説明したほうがいいかもしれません。

 私は子供の頃からかなの家で知的障がいのある人と育ってきました。知的障がいのあるなかまは効率的ではなく、お金をたくさん稼ぐことができません。

 なかまからプレゼントを買ってもらったことはなく、勉強やスポーツを教わったこともないです。実際に生計を立ててくれたのは親やかなの家を作ってきたアシスタントです。

 ところが、私自身不思議なくらい、なかまに大きな恩を感じています。どうしてなのか、うまく言葉にできないでいましたが、そこに効率主義の世の中では評価されないなかまの賜物が隠されていると思います。

 私が子供の頃、親は忙しかったのですが、なかまは私と一緒にいてくれる時間が多かったです。なかまは忙しくないので一緒にいてくれました。それでいて、気の利いたことも言わないですし、しないです。

 一緒にいることの不思議さをスピリチュアリティの世界から学びます。聖書ではマリアとマルタの物語、マインドフルネスではBeingとDoing。目的のためではなく、ただ坐るという只管打坐(しかんたざ)。どれもゆだねて、ただ在ることを大切にしているようです。

 ネガティブな状況からすぐに反応しないで、自分自身の違和感、不安にとどまることの大切さ「ネガティブ・ケイパビリティ」も最近聞くようになりました。

 何もしない時間って無駄に感じます。まるで役に立たない時間のようです。役立たずと思われないように責め立てられる感覚を持って私は行動しています。

 「無駄」「役に立たない」という言葉の恐ろしい力。

 とくにコロナ禍では不安や焦りからくる人間関係の難しさに翻弄されました。とても苦しかったです。解決できない、周りからの要望に応えられない状況に私は長い間います。何もできないことはとても辛いです。

 おそらく、なかまの人たちはそんな状況に、ただいることが多いのだと思います。なかまの優しさは表面的ではなく、そんな状況をただ生きていて、それでしかないのだと思います。

 愛することは「在ること」と聞きました。司祭、禅僧の方々と対話しながら、スピリチュアリティとは「いのちの存在の意味を丁寧に感じること」と私は考えるようになりました。

何もしないBeingが優しさのヒントとして。
 
 そして、それを生きるしかないなかまの存在が表面的ではない、物質的ではない、頭ではない、霊的に愛する生き方をしているのではないかと。

 ピエロック一座というサーカスが静岡に来ました。手作りの人形、カラクリ装置の舞台、時にはうまくいかず失敗することもある物語です。

 「無駄なことこそ美しい」と座長のピエロックさんは物語を通して語ったのでした。

 恐ろしいと思っていた「無駄」という言葉に抗わず、逆に美しいという。なかまの賜物を伝えるためのインスピレーションを受けました。

 美佳さんというなかまがいます。自分だけで食事、移動、入浴はできず多くの支援を必要としています。美佳さんは人に寄り添うことが好きな人です。

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