ラルシュかなの家の「音」 土本 恵里子 (どもと えりこ)
ラルシュかなの家の「音」
それは部屋にあふれるほど置かれている楽器からの「音」だけでなく
入り口に置かれた仲間たちの自由な造形物
階段に飾られた仲間たちの鮮やかな絵
花が好きな仲間がみんなへ摘んできたコップにさされた草花
窓ガラスに字を書くのが好きな仲間が描いた楽しい文字
壁いっぱいに塗られたペンキ画
汗を流して草取り耕された敷地に広がる自然農の田畑
そこに力強く育ち実る野菜と稲たち
洗うという動作の中で毎回感じられる仲間たちが汗水垂らし作り上げた石鹸たち
ほかにも何があるだろう…
毎日の中で一瞬一瞬感じ過ぎていく贅沢な景色は、私の心を揺さぶる鼓動の「音」になって入ってくる。
そんな中にいさせてもらえることで月日が重なるほど満たされ、そろそろ十ヵ月になる。
音階ではなく入ってくる「音」が溢れていると感じた時、なぜそう感じるのかなとふと思った。
そこには、すでに仲間とアシスタント両方があたたかく存在する空気があった。
何が出来上がるかの完成に正解はなく、それらに心躍らせ見守るアシスタントのきもちが溢れ出ていて、こちらをリラックスさせてくれる優しい音楽を聴いているみたいに…。
それを「愛」だとかに表現したら簡単だけれども、もっと奥も幅も広く深くて、心地よく空気を揺らす波動の空間だった。
そこへ本当に聞こえてくる仲間たちの「音」が混ざり、音は増してゆく。
水が大好きでトイレを何度も流す水の音
突然はじまる言い合いに飛び交う言葉たち
さっきまで取っ組み合っていたのに隣に座って笑顔でお喋りがはじまる会話
同じ言葉を繰り返しノリノリのリズムで聴こえてくる単語
本当はやりたいけど「イヤー」と笑顔で伝える大きな声
毎日同じ麦茶を一口飲む度に全力で伝えてくれる「おいしー」の響き
イライラしている仲間に怒っていたかと思うと「ゆっくりしなね」と最後に聞こえる一言。
物から感じとれる「音」と、雑音から感じとれる「音」の波動に共振できる心地よさが、かなの家には放たれている。
そんな中で毎日を過ごしていると、楽しすぎて自分の鼓動が高鳴っていることに、たびたび気づいてしまう、無邪気に遊んでいた子供の頃を思い出せる瞬間。
そんなワクワクさせる鼓動のドキドキも私には歓びの「音」となっている。
ここはテーブルを囲み、顔を合わせ毎日一緒にご飯をいただける。
誰かがふざければ、口の中の食べ物が吹き出る程大笑いし、特に話すこともなければ、穏やかに各々の食がすすみ静かな時が流れる。
五、六人が向かい合い、この何もない静けさに無「音」の心地よさが広がる。
なぜこんなにも自分にとって心地よい空間なのだろう?そんな問いを自分にした時を思い出す…
アシスタントとして所属させてもらって間もない頃、神道である私にとってキリスト教の「祈る」がその文化で暮らしてきていない私には、手は組んでみるものの心からお祈りしている仲間の横で違和感のある自分の心と、真似事でしかない自分の姿に申し訳ない気持ちと大好きな仲間とに壁を感じたのを覚えている。
それは仲間との間に共振できない無「音」の寂しさだった。
行事や話し合いに度々出てくる「分かち合い」これも馴染みがなく「分かち合う」とは幼少期に近所にいた宣教師の方からイエス様のお話を聞いたことがあった記憶を思い出し、パンを分け与える?ことなのか?食べ物を分け合うという比喩であるのかそのひとつとして捉えていた。
与えることが富から貧へ。
そこに境目すらないものだが優と劣に感じてしまい、正直自分では良さを見出せずにいた。
数カ月過ぎ、そんな自問も忘れかけていた頃、コーヒーを飲みながらみんなで「喧嘩」をテーマに分かち合う会があった。
テーマが喧嘩だけに、私の中の日常の汚く認めたくないところを発表、曝け出すことになった。
日常では出さない感情を吐き出してくれた仲間もいた。
お互いに安心して正直な心をさらけ出し、お互いを認め受け入れ合う。
それを仲間とアシスタントと過ごせたひとときに「分かち合い」とは「分け与える」でも「分かり合う」でもなく、お互いを認め受け入れ「分け与え合う」なのかとキリスト教である仲間とそうでない自分の間に感じる壁が消えた時間だった。
分かち合う為の受け入れる作業には、思いやりがなければできない。
お互いを認め受け入れ合う。
そこから貰える安心感。安らぎ穏やかな波動これこそが仲間からもらえる「ギフト」なのだと気づけた。
キリスト教徒ではないけれど、手と手を合わせ、神を感じ心安らぎ内なる自分にかえり、心の平穏を取り戻す。
それは、神は違えど皆同じであり、神道である私がここラルシュに違和感なく存在できる安心感。
これから先もどんな「分かち合い」の時を仲間と共に過ごすことができるのか、心地良い波動「音」に囲まれた今を幸せに感じます。
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