ちいさい秋 林 健二(はやし けんじ)
四年ぶりにラルシュリトリートが再開されました。夏空に青い富士を見上げる山中湖、その畔に建つ山中雪の聖母修道院でこの九月初めの二泊三日、各地から懐かしい人や初めての人が訪れました。
かなの家からは八名の「なかま」の人と十六名の「アシスタント」が参加しました。
ドミニコ修道会の渡辺裕成神父が司式するごミサでは、カトリックの方はご聖体を拝領し、ほかの方々は神父様から祝福を受けました。典礼の間、かなの家の創立メンバーであった加藤正さんが懸命に祈っている姿に惹かれました。この期間中彼をサポートしていた理事長の小松大三さんに尋ねると、久しぶりに出会うや否や独特の手話やジェスチャーで、五年前のこの時期に亡くなった同期のなかまである田浦実さんの墓参りに行きたいと、根気強く伝えていたとのことでした。
プログラムの最初にお話しくださった日本基督教団の島しづ子牧師は、現在は沖縄の「うふざと伝道所」を拠点に活動されていますが、停滞する台風の中で飛行機のキャンセル待ちを奇跡的に得て駆けつけてくれました。今回のリトリートで沢田和夫神父のお姿を拝見することは出来ませんでしたが、島牧師はお話の中で、「いつも共同体の中で一番生きにくい人の友となり、とりなしてくれる」神父様であったと、語られています。1987年に重い障害を持つ島さんの長女陽子さんに神父様がお声をかけたことがきっかけとなり、以来このリトリートの中でお二人はカトリックとプロテスタントのお互いの伝統を大切にしながらもその壁を越えて、苦しんでいる人、弱い立場にいる人の友となることに尽力されてきました。
朝のお祈りではいつものように、テゼの集まりの植松功さんとボランティアスタッフの奏でる楽曲に合わせて、知的ハンディーを持つ人も持たない人も共に歌い、祈り、短い沈黙の時を過ごしました。 麻痺などの障害により音量の調節が難しい仲間の声で祈りの言葉がかき消されても、誰も咎めることなくそのままに受け入れて下さり、平和の思いを新たにしました。
このように長年共に歩んでくださっている方々に加えて、今回初めて仏教の僧侶も参加されました。曹洞宗禅僧の澤中道全さんによる「自分自身の友達になる」というワークショップや、「五観の偈」という食べる瞑想への導入もしていただきました。宗派の違い、信仰の有る無し、障害の有る無しを問わず、価値観の違う人と共にいることにさえ意味を見出そうとするラルシュリトリートにふさわしいチャレンジと思いました。
このリトリートにつながる前身は知的障害を持つ仲間たちと、彼らと共に暮らし働くスタッフ達のための黙想会として1987、88年ごろ沢田和夫神父のご指導の下、鎌倉市津のモンタナ修道会で行われました。当時のかなの家は、主な仕事としてきた資源回収を縮小し自然せっけんの製造販売へと切り替わっていく途上でした。なかま達が自立する家の建設と、いずれも幼い子供達のいるスタッフ三家族(後には五家族)の生活のために大人たちは誰もが精一杯に働き、子供たちは廃品の山に駆けのぼり遊んでいました。茶畑が取り囲む母屋の敷地内を一日中フォークリフトのバック音がうなり、二トン、四トントラックが出入りするかたわら、大きな風呂場や、皆が集まれる祈りの家等を作る為、スタッフとなかま達の釘打つ金槌の音もこだましていました。そして、少しずつ入り始めてきた石鹸注文の電話が鳴ると、誰もが作業の手を止めて飛びつくようにして受話器を取っていた事など、今では想像することの難しい「働く風景」でした。
しかし同時に、どれだけ働いてもそれだけでは解決できない行き詰まり感が現れ、当時の私達に欠けているものを知る為にこの黙想会が必要だったのでしょう。この時に初めて体験した心の休息とやすらぎに驚きを覚えたことを、今も微かに思い出します。
その行き詰まりとは、今回のリトリートでもテーマとして取り上げられた「どのように違いを受け入れ、共に生きることの挑戦を引き受けるか」という事が、その一つかもしれません。 すなわち、「なぜ、価値観の違うものと共にいなければならないのか」ということ。
聖堂裏の雑木林に造られた腰掛に座っていると、陽射しを逃れた小鳥が欅の緑陰で囀っていました。そして夕暮れが近づくと、湖上から地を這ってくる風は涼しくなり、サトウハチローの「ちいさい秋みつけた」を口ずさみました。