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「共に踊り、共に生きる」                 平石 祐哉 (ひらいし ゆうや)

かなの家で仕事をしていると、踊る機会が多いです。

 月に1回の誕生会やかなの家まつりでは、なかまが音楽に合わせて踊りを踊ることがあり、アシスタントもなかまに招かれて踊ることがあります。
 過去に行っていたダンス大会では、なかまもアシスタントも1人で好きな曲に合わせて踊り、チームに分かれて勝敗を競いました。その時は私も恥ずかしながらはっぱ隊の「YATTA!」を踊りました。

 昨年の10月には盆踊り大会を行い、「炭坑節」や「マツケンサンバ」に合わせて、自由に盆踊りを行いました。
 今年の11月に行われたかなの家まつりでは、ラテン音楽で踊る「ズンバ」の先生が来てくれて、皆でズンバを踊りました。なかまもアシスタントもお客さんも皆混じって踊ることで、高揚感と一体感が得られました。
 
 いろいろな踊りを自由に踊っていると、「人間は今までの長い歴史の中で、ずっと踊ってきたのだろうなあ」と思うことがあります。

 旧約聖書でも人々が踊るシーンがあります。

 出エジプト記では、「アロンの姉である女預言者ミリアムが小太鼓を手に取ると、他の女たちも小太鼓を手に持ち、踊りながら彼女の後に続いた」という一文があり、ミリアムと共に女性たちが踊りながら出てくる一幕があります。

 「サムエル記 上」には「この男はかの地の王、ダビデではありませんか。この男についてみんなが踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌ったのです。」といった文章があり、人々が踊りながらサウルやダビデ王を讃えていたようです(現代から見ると物騒な讃え方ですが…)。

 「詩編」には「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました」という文章があり、これはラルシュに滞在していた司祭ヘンリ・ナウエンが書いた『嘆きは踊りに変わる』の題名の由来ともなっています。

 「哀歌」には「わたしたちの心は楽しむことを忘れ/踊りは喪の嘆きに変わった」という表現があります。

 「コヘレトの言葉」には「泣くに時があり、笑うに時がある。/嘆くに時があり、踊るに時がある」という一節があり、当時から人々が嘆いたり踊ったりしてきたことが窺われます。

 イエス・キリストが来られる前から、ユダヤの人々は祈るだけではなく、踊ってもきた。旧約聖書の神様とは「嘆きを踊りに変える」神様でもあったわけです。

 人類学者ロビン・ダンバーが書いた『人類進化の謎を解き明かす』(インターシフト)では、トランス状態を重んじる原始的なシャーマニズムが、やがてユダヤ・キリスト教や仏教のような教理宗教へと発展していったと説かれています。本書の中ではアフリカ南部に伝わるシャーマニズムについて、以下のような印象的な一節があります。

 「アフリカ南部のサン人のあいだでは、肥大化した共同体内の関係が口喧嘩のために悪化しはじめるとトランス状態での踊りが起きることが多い。トランス状態で踊ると共同体に平穏が戻る。それはまるで人間関係を損なった不正や侮辱にかかわる毒をもつ記憶を、石板からきれいにぬぐい去ってくれるかのごとくなのだ」

 口喧嘩のために悪化した共同体。それをトランス状態で皆が踊ると、共同体に平和が戻る。

 トランス状態での踊りは、共同体の争いを調和するような役割を担っていったのでしょう。現代では宗教自体が争いの種だと言われるようになったのは皮肉ですが、宗教の原初にあるようなトランス状態の踊りは、調和をもたらすものであったようです。

 そうやって考えていくと、踊りというのは人間にとっても共同体にとっても、決して軽視できない重要性を持っているのではないでしょうか。

 とはいえ、大の大人が踊っていると、バカみたいではないか……そういった思いが私にもあります。けれども、この「(一見)バカみたい」な部分も私たちの生にとって必要なものかもしれません。

 作家の橘玲は『バカと無知―人間、この不都合な生きもの―』の中で「進化心理学では、知能の目的は自己正当化だとされる」と書いています。人間の知能も、知能によって生み出される言葉は重要なものでありますが、自己正当化のために争いを引き起こすことも多いと思います。お互い自分を正当化するため、口喧嘩をした覚えは多くの人にあるはずです。

 売り言葉に買い言葉、自分を正当化する言葉が争いを生み出します。例えばキリスト教の歴史を見た時、宗派同士の争いや神学論争で人間の知能同士の争いが起き、多くの命が奪われてきました。

 「(一見)バカみたいなこと」をすることで、知能が持つ自己正当化から離れることができる。そう考えると、かなの家で披露される踊りが持つ「バカみたい」な側面も意義があるように思えてなりません。

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