「一緒にご飯を食べよう」 佐藤 啓(さとう けい)
昨年の秋、娘が堅信式をカトリック浅草教会で受けました。
堅信式を受けるまでに司式をしてくださる晴佐久神父による堅信の勉強会があり、私も参加させて頂きました。
晴佐久神父から目から鱗なお話を沢山聞かせて頂き、自分も再度、堅信式を受けたような気持ちを新たにできる機会になりました。
自分自身の堅信式は中学生の頃に大人数で行われたことを朧げに覚えています。その頃に受けた勉強会は難しい言葉のテキストを見ながら覚えていくというテスト勉強のようなものだった気がします。
しかしながら、内容は覚えていません。今でも堅信を受けた前後で何が変わったかもよくわからずにいます。自分と同じ経験を娘がすれば、教会離れがますます進んでしまうのではと心配をしていました。
晴佐久神父が勉強会に参加しているみんなに質問をされました。
「神様がみんなに一番してほしいことは何でしょう?」
私は愛や信仰など難しい言葉を思い浮かべました。
しかし、晴佐久神父は質問の後すぐに「友達を作っていくことです」と分かりやすい言葉で答えを教えてくれました。
そしてまた、それはキリスト信者を増やしていくという事ではなくて、寂しくしている人、孤独な人の友になっていく事だと言われました。堅信は友になり、繋がりの輪を大きくする人になっていくこと。
晴佐久神父は続けて言われました。
「友達を作っていく時に使える魔法の言葉があります。それは『一緒にご飯を食べよう』です」
晴佐久神父はご自身の行なっている活動や経験から、「一緒にご飯を食べよう」と声をかけられ、一緒に食事をすることで、その人の人生が変わることがあると話してくれました。
人間と他の生き物との大きな違いは食べ物をお互いに与え合う、分かち合うことができること。人間にとってその行為は大事なことである。私はその話を聞きながら、ラルシュかなの家の知的障害のあるなかまのことを思い出しました。
私は出会った人に「一緒にご飯を食べよう」と声をかけることはほとんどありません。知らない人と関わって今ある自分の領域を壊されるのが怖く煩わしく思ってしまうからだと思います。
しかし、なかまの人達は違います。かなの家に来るお客さんに「一緒にご飯を食べてってよ!」といつも声をかけています。多くのお客さんはその言葉を聞いて本当に喜んで食事をしてくれます。かなの家の歴史の中で、その言葉を聞いて一緒に食べ人生を変えられ、なかまと生活を共にするアシスタントになった人がいることを思い出しました。
今年になって、かなの家にお客さんがまた沢山来てくれるようになりました。なかまの「また遊びに来て欲しい」という呼びかけに応え、古くからの友人が久しぶりに訪ねてきてくれました。
そして、なかまとの再会を喜んでくれました。初めて来てくれたお客さんも沢山いて、帰られる時には「また来るよ」と再会の約束をなかま達としていました。
かなの家のなかま達が、友になっていくという使徒的な働きを真っ先にしてくれていることに、驚きと尊敬の思いを持っています。
そのような、なかま達の働きに助けられ、勇気付けられ、少しずつですが、自分の心も開かれていっているように思います。魔法の言葉「一緒にご飯を食べよう」を私も使っていきたいと思います。
今、かなの家では木工作業で木の器を作っています。食卓に使われるようになったらいいなと思いながら、木を削ったり、漆を塗ったりしています。一緒に作業している江川さんは「あの人にプレゼントしたいな」「あの人に使って欲しいな」と、使う人の顔を思い浮かべながら木を彫っています。少しずつ販売も始めていく予定です。
「一緒にご飯を食べよう」を、かなの家の器を使ってできたら、してもらえたらいいなあと思っています。