寂しさは性欲に似ている
最近、人は結局寂しさから逃げられないと感じる。
確かに友達といる時、誰かといる時は寂しさはどこかにいく。だが、ふと帰り道1人になるとひょっこりとそいつは現れて、僕の胸に居着く。
じゃあ誰かと会って満たせばいいじゃん、と思うだろう。だけど、誰彼構わず話しかけたりして、あんまり釣れない態度だと、寂しさは余計に拗れて、怒りに変わる。つまりはブチギレる。
うわっ、めんどくさ。
でもこの面倒くささ。なんだか身に覚えがないか。
うーん、なんなんだろうなあ。
そうだ。性欲に似ている。
一応紳士淑女諸君に断っておくが、僕はふざけているわけでも、助平なわけでもない。至極真面目に言っている。
僕の性別がオスであるという前提で言っているから、女性の方々の実感とはズレざるを得ないのを承知でいうと、寂しさは『男性にとっての性欲』である。
それは厄介極まりなく、突然襲い掛かり、暴力的に脳みその思考リソースを占拠する。つまりエロいことしか考えられなくなる。その時の意思決定権を脳ではなく、股間に握られている。これは全くといっていいほど比喩では なく文字通りそうなのである。
性欲に脳みそを支配されている時の脳内の一例
エロエロエロエロエロエロエロエロエロエロエロエロエロエロエロ
いやほんと。ふざけてないんだって。本当にこんな感じなんだから。
これを寂しさに変換するとこうなる。
寂しい寂しい寂しい苦じい苦じい苦じい死にそう死にそう死にそう
じゃあ、こっちは真面目なのか。重い意味があるのか。文学的に価値があり、人間の苦悩が現れていて、高尚なのだろうか。
僕はそこまで意味はないと思う。
私見だが寂しさという感情自体は、そんなに意味はなく、アラートや警報近い。つまり「今君は社会的に孤立して、死にそうだからさっさと誰かと(相手なんて誰でもいいからさあ!)一緒になった方がいいよ」という脳のアラートだと思う。アラートだから合っている場合もあるが、もちろん誤報もある。だから、結局それをどういう風に解釈して行動に移すのかは、本人にかかっている。
だが、問題はそのアラートが過剰に反応してしまったり、間違った対応をしてしまうことだ。じゃあどうしたらいいのか。それに関しては僕が以前書いた記事を読んでいただきたい。
ここで2つ疑問が浮かび上がってくる。
・人はなぜ「寂しさ」を公言することは憚るのか。
・病的なものでなく、根本的な「寂しさ」に対応する術はないのか。
そこら辺に関する考えは次回に。では。