イヤホンと世界の断絶
最近、イヤホンを外して生活することが増えた。
イヤホンをつけていると状態と外している状態で、世界に対しての向き合い方が変化するのではないか、というある種の確信を得たからだ。
『シン・エヴァンゲリオン』で碇ゲンドウの過去回想のシーンで、イヤホンによって外界のノイズを隔てることで、自分自身を守っていた、と述懐するシーンがある。なぜか、その言葉がやけに記憶に残っていた。物語の大枠のストーリーでなく、なぜかそんなふとしたシーンの言葉がすっと入ってくる、ということは読者諸氏もないだろうか?
僕は昔からイヤホン人間で、そういう意味では完全に碇ゲンドウと同じく、外界のノイズから、煩わしい世界からの逃避としてイヤホンをつけていることが多かった。豚以下の下品な声で叫びまわり、教室の後ろに陣取る騒がしい連中の声とか、快速急行の通勤電車の車輪の悲鳴や誰に向けたのかもわからないホームでの騒がしいアナウンスとか、幸せそうなカップルの会話とか、そういうものがうるさくてうるさくて仕方がなかった。正気の人間がこんなにも音を聞いていてよく頭がおかしくならないな、と田舎の出である自分は思っていた。そういう素朴な感覚は、ある意味では正しくて、またある意味では間違っていたんだと今は思う。てか繊細すぎ。自分の心が弱いんだと、まあ思う。よかれあしかれ。
だが、最近になって色々な人と話すようになってから自分は、イヤホンをつけることで機会を逃していたのではないか、と思うようになった。事実、イヤホンを外すようになってから(これは片方のイヤホンでさえも影響があるということをあらかじめ指摘しておきたい。片耳だけでも、世界への感覚は変わっているように思う。筆者は、スタバによく行くのだが片耳イヤホンの場合と、イヤホン片耳の場合を比較してみた結果、完全にコミュニケーションの質が変化したのを感じた。イヤホンをつけていると、うすぼんやりとして半透膜のようなものがコミュニケーションする際にあるように感じた。)僕は、人の顔を見ながら会話する頻度が上がった気がする。イヤホンは音声をシャットダウンするだけだと思っていたけど、もしかして違うのかもしれない。音というのは、何々の音、という風に意識が思っている以上に、いや想像なんてできないくらいの雑音があって、それを取り込むこと脳は世界をシミュレーションしているのかもしれない。それを塞ぐということは、嫌な音をシャットダウンするということ以上に、世界全体の情報のかなりの情報をシャットダウンしていることになる。つまりは、ノイズというのは人の行動にランダム性を与え、時としてその人が思っていなかった行動を引き起こしているのかもしれない。
イヤホンは自分を守ってくれるものだと考えていたが、もしかして違うんじゃないだろうか。
世界は敵だという思考を増幅させているだけなんじゃないか?
もちろんそれは時と場合による。僕のような日常万般で常にイヤホンをつけているようなイヤホン病の人にこそこの主張は理解していただきたい。