クソデカ劣等感。

 僕は劣等感がデカイ。
 どれくらいデカイかというと、北海道ぐらいでかい。いや、北米大陸くらいデカイ。なんなら、ユーラシア大陸ぐらいあれかもしれない。
 なぜデカイのか。それは世の中の人々の多くが、僕が悩むところで悩まないし、僕が立ち止まるところで立ち止まらないし、僕が恐怖で絶望するところで絶望しないからだ。
 僕が七転八倒して苦しみ抜いていることを、平然と、当たり前に、やっている姿を見て、クソデカい劣等感はムクムクと育ってしまう。
 中学校の頃、歩いていてなぜ地面が崩れて地下深くあっつあつのマントルの中に落ちてしまう恐怖をなぜ誰も感じていないのかが不思議だった。
 高校の頃、女の子と当然のように付き合っている男子を見て、とてもじゃないがそんなの無理だと思った。拒絶されるのが怖すぎて、話す時は上っ面のことしか言えない。「あなたのことが好き」なんて言葉怖すぎてとてもじゃないが言えなかった。高校の時の恐怖感は「名前を言ってはいけないあの人の名」を口にするくらいだった。
 そして大学。彼女ができない。というか、社交不安がひどすぎてそもそも友達ができない。2年次の今はマシになったが、1年次は本当にダメだった。我ながら、よく大学やめなかったと思う。
 以上のことからわかるように僕はありえないくらいネガティブ思考の持ち主でチキン野郎である。大鍋に入れてもダシは取れないが。
 その結果というか当然の帰結として、今でもそうなのだが日常生活万般に自信がない。その原因がずっとわからなかった。
 そんな時、ある人に僕がいかにコミュ障で自信がないのか、ということをつらつらと言っていたのだが、その時に言われた言葉で気づかされた。わいは少なくとも「普通」に話しているようには見えるらしい。だから、むしろ問題は劣等感なのではないのか、と言われたのだ。
 劣等感。
 それはあまりにも使い古された言葉で、逆に盲点だった。その言葉に全ての真実が詰まっていると考えているわけじゃない。でも、その言葉は時間が経つほど、モヤモヤを言い表しているように思った。
 たぶん僕の「劣等感」という言葉の周辺には、コミュ障とかネガティブ思考とか社交不安とか恐怖とかそういうものが薄暗い雲のように取り巻いているのだろう。正直いまいち整理できてもいない。
 けれど、少なくとも逃げるつもりもないし、立ち向かうつもりでいる。現に行動にも起こしているし。
 だから今は取り敢えず宣言だけしておく。次はコミュ障について書く。
 
 


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