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303号室の名前

 百人の人がいるところで名前を呼ばれたら三人は手をあげそうな名前だった私だけれど、千人いても一万人いても、誰も手をあげない名前になった。

 結婚したのだ。

 こう話しただけで私が女だということがわかるのも、今だけなんだろうか。ともかく、結婚して名前が変わった。
 
 新しい名字は画数が多くて聞き間違えは日常茶飯事だし、印鑑の回転ラックにその名を見つけたことは一度もない。挙句、本名ですかなんて言われることもあるくらいで、自分としては君の名前に変えても一向に構わないんだけどね、と夫になる人は言った。

 どちらの家も継ぐとか名を残すなどという話はなかったから、どちらの名前を選んでも良かったのだけれど、私は初めて出会ったときからこの珍しい四文字の連なりに小学生みたいな単純な憧れを抱いていたから、ほとんど何の迷いもなくその名前を変えた。

 
 仕事で顧客名簿を見ていたら昔の名前が三つもあるのに、今の名前はひとつもなかった。区役所に届を出したときは何も感じなかったのに、この名前をを探すのは本当に大変なんだと思ったら急にさみしくなってきた。
 今までの仲間(平凡な名字の人たち)も、もう私がその名を持っていたことなんか知らず、私のことを変わった名前の人だなあと思うのだろう。

 同じ名前の人たちは、前以上に親しみを持ってくれるかもしれない。まるで同郷の人間と会ったみたいに。私は役所や銀行に行くたびに、新しい仲間が現れないかと思っていたんだけど、今は個人情報保護の観点から、名前は呼ばれないのだった。私の珍しい名前も、受付に座っているいろんな人たちの名前も、みんな番号になっていた。

 もちろん、名前で呼ばれたところで、同じ名前の人に出会える確率はものすごく低いだろう。もしかすると、これから先も彼の親戚以外には一人も会えないのかもしれない。

「そんなもんかなあ」と、妹が首を傾げた。
「だってさあ、これだけたくさんの人がいるんだから、一人くらいはいるかもしれないよ?」
 妹も結婚して名前が変わった。さみしかったかと聞いたら、覚えてないなあと言いながら何かを思い出すような顔をした。何を思い出したのかは、言わなかったけれども。

「ネットで調べてみたんだけど、彼の生まれた町に多い名前でもないし、珍しい名前のなかでもとくに珍しいみたいなの」
 そう口にしてみると、そのたった一人の人がきっとどこかにいるということが自分のなかでくっきりしてきた。会ってみたいような、それでいて会いたくないような、いったい自分はどうしてこんなことにこだわっているのかわからくなるのだった。

 その人を見つけたのは、結婚して二年が経ったころだ。

 正確に言うと、人ではなくて文字だ。家の近くを歩いていたときに、とあるアパートの郵便ポストにローマ字で記されているのを、偶然発見したのだ。

 人の家の郵便ポストなんて、よほど凝ったデザインでもない限り普通は見ない。ましてアパートの集合ポストだ。名前を見ようと思ったら、かなり近くに行ってのぞきこまないといけない。

 だからと言って、私がいつまでも仲間にこだわってあちこちの郵便ポストや表札を見てまわっていたなんて思わないで欲しい。

 職場では新しい名前の最初の二文字に「さん」をつけて呼ばれていたし(そうすると、普通の名前みたいに聞こえるのだ)、ふるい友達は昔通りあだ名か下の名前で呼んでいる。
 夫や夫の親戚は自分たちの名前を口にすることがないから、正式にその名を呼ぶのはかかりつけの歯科医師くらいだ。今では、自分の名前をことさら意識することもなく、仲間に会いたいと思っていたこと自体忘れていた。
 
 だからこれは、完全な偶然だ。
 
 そのアパートは、坂道の途中にあった。

 そのとき私は図書館に返却する本をリュックに七冊入れて、うつむき気味に黒くねとつくアスファルトの上を歩いていた。風は少しもなく、暑い日だった。七冊のうち、期限内に読み終えた本は二冊きり。届いた予約の本は夫とあわせて十三冊。
 うつむきすぎたせいでリュックがずり落ちてきて、身体を起こそうとしたとき何かが頭に当たった。当たったといってもほんの一瞬で、それはすぐに足元に滑り落ちた。青いタオルハンカチだった。
 顔を上げた目の前に、緑色の三階建てアパートがあり、そのベランダから、こちらを見おろしている女の人がいる。

「すみませーん」
 良く伸びる声でその人は、私にむかって右手を大きく振った。

「洗濯物、落としちゃってー」
 そう言われて、私はタオルハンカチに視線を戻した。水を吹くくじらの刺繍のせいか、一瞬、黒いアスファルトが海のように見えた。
「今、とりにいきまーす」
 私はとっさに、「待ってくださーい」と、言っていた。
「よかったら、私が持っていきますんで」
「いーんですか?」
「何号室ですか」

 教えてもらった部屋は三階の真ん中で、ドアを開けて待っていた彼女にくじらのハンカチを手渡すと、私は急いで階段を降りた。おそらくはにこにこ笑いながら待っていた彼女の顔を見るのが、なんだか照れくさくなったからだ。
 階段を降りている途中で、「ありがとうございましたー」と声が追いかけてきた。
 
 私がその名前を見たのは、そのすぐあとだ。

 階段を降りたさきにシルバーに光る集合ポストがあって、通り過ぎようとかすめた横目に、その名は飛び込んできた。
 時間にすると、一秒か二秒だろう。
 十数個あるポストから、よくそんな短時間にローマ字で記された文字列を見つけたものだと思う。いや、案外ローマ字だったから見つけられたのか。ふちに花模様のついたシールに、西洋の習字にあたるというカリグラフィーのような字体で、私と同じ名前が記されていた。
 なんだか、私も知らない文字列に見える。でも、やっぱり私と同じ名前。
 303号室。タオルハンカチを届けた部屋の隣の部屋だ。

 まさか、こんなにすぐ近くに仲間がいたとは思わなかった。
 それも、週に一度は歩く坂道の途中に、その人が住んでいたなんて。だけどもし、ハンカチが落ちて来なかったら、きっとその名を目にすることはなかっただろう。
 いったいどんな人が住んでいるのか?男か女か、年配なのか若い人なのか。
 それ以上何がわかるでもなく、私はそこを離れた。見上げると、タオルハンカチの部屋にはもう洗濯物は翻っていなかった。
 
 チャンスは何度もあった。
 テーブルを囲んで夫とチキンカレーを食べているときも、テレビを消した夫が今日はどうだったと話しかけてきたときも、私は同じ名前の部屋を見かけたよとは言わなかった。いつもなら、どんな些細なことでも話をするし、夫もまたそれを興味深く聞いてくれるのに、私はその話を胸にしまっておいた。

 なんだろう。あのローマ字は夫が引き継いだものではなく、私の名前ということにしておきたかったのかもしれない。いや、もちろんそれは303号室の人の名前なのだが。
 
 それから、その坂道を歩くのが習慣になった。

 タオルハンカチを干していたベランダには必ず洗濯物はひらめいていたが、彼女を見かけることはなかった。対象的に、303号室にはいつも何も干されていない。下から見える範囲で、プランターや何かを見つけることはできない。窓にはレースではなく分厚そうなカーテンがひかれ、中の様子を窺うことはできなかった。

 自分が本当に気になっているのは名前ではなく、303号室の人なのかもしれない。美しいカリグラフィー、花模様のシール。
 天気の良い日もいつもカーテンがひかれているのは、昼間仕事でいないのか、明るい光が苦手だからか。どちらにせよ、いつまでたってもその人は、私に生きている証拠を見せてはくれないのだった。

 その日は休日で、朝から雨が降っていた。
 昼になる前に止んだので、夫が散歩に行こうと言い出した。いつもなら、大きな公園か駅の方角に向かうのに、夫はなぜか、あの坂道に続く道を歩き出した。

「こっちに行くの?」
「たまにはね」
 私達は、黒いアスファルトをゆっくりと歩いた。アパートの緑色が見えてくると、夫が立ち止まった。
「あれ?」
 夫が、緑色の建物に向かって指をさした。
「こんなアパート、前からあったっけ」
 一瞬、なんと答えようか迷う自分がいたが、すぐにこともなげにあったよ、と答えていた。夫は顎に手を当てて、
「おかしいなあ。前はたしか設計事務所だったはずなのに。コンクリート打ちっぱなしのバブルの頃にはやったようなつくりの」と言った。
「そうだった?覚えてない」
 本当にそうなのかもしれない。私だって、ハンカチが落ちてくるまではあのアパートのことなんか見ていなかったし。

「この前来たときには、まだあの建物だったと思うんだけど。そんなに早く建つものかな?」

 私は緑色の建物を見上げた。夫はいつ、この道を歩いたのだろう。くじらハンカチを拾ってから、もう半年は過ぎている。
 なんにせよ、今こそ303号室のことを話すときだ。黙っているのは、何か名前にたいして含むところがあるからだろうなんて思われたくない。

「私ね、前にこのアパートに落とし物を届けたことがあるんだ。あそこから洗濯物が落ちてきて…」

 私はたった今思い出しましたという顔をして、くじらハンカチのベランダを指さした。さっきまでの雨のせいか、そこには一枚の洗濯物もない。

「女の人がね」

 そのとき、がらり、と窓が開いてクジラハンカチの部屋から男の人が出てきた。

 白い開襟シャツに、紺色のズボンを履いている。髪の毛は五分刈りで少し時代遅れな感じだ。逆光で顔ははっきりしないが、私が見ているのに気がついたのか、その人はこちらを睨み返してきたようだった。

 あわてて目をそらしたそのとき、私は自分が間違えていたことに気がついた。

 あそこは、くじらハンカチの部屋じゃない。となりの303号室だ。ということは、あの人が私と同じ名前の人?
 一瞬見えた顔は、男の人、というより男の子と言ったほうが正しいかもしれない。高校生一年か、あるいは 中学生くらい。

「あの男の子」と、夫が言った。

「私がじっと見てたから睨まれちゃった」

 いや、彼の視線は怒っていたり疑っているそれではなかった。むしろ、驚きに近い。私は棒立ちになっている夫の手を引いて、そこから逃れるように、道の端によった。

「さっきの話だけど、洗濯物を拾って届けたことがあって。三階の真ん中の部屋に。それで、今出てきた男の子は私たちと同じ苗字なんだよ」
 しどろもどろになりながら、それでも私はこの半年黙っていたとを話していた。だが、夫は黙って、アパートのほうを見ている。
「どうしたの。何見てるの」
「このアパートは変だ…」
「何が?洗濯物を届けた女の人は普通だったよ」
「そういうことじゃない」
「じゃあ、何。建物が変っていうこと」
「ちがう」
 私は少しいらついてきた。この人は、さっきから何を言っているんだろう。
 私はたしかにこの人と結婚したんだよね。まるで知らなかった人と結婚して、何でも知っているような顔をして暮らしてきたんじゃないよね。

 この人は、誰だっけ?私の名前は、なんだっけ。

 私は夫をじっと見つめた。

 それは、さっきの男の子が私を睨んだのと同じような眼つきだったかもしれない。
 
 夫はそんな私に気づかずに、集合ポストのある場所に向かった。

「ねえ、どうしたの?」
「気になるんだ」
 
 二階から、男の子が見ているような気がしたが、怖くて顔を上げられない。夫は周囲を気にすることなく、ポストを覗き込んだ。 
「ほら、この部屋だよ。俺が中学のとき、親が離婚でもめたときに母親と二人で暮らしてたんだ」
「ここに?」
「もちろんこの場所じゃないよ。生まれたところはここじゃないから。でも、そっくりなんだ何もかも。このアパートの色も、このポストも。ほら、この字体。あのころ、こんな文字を書くのがクラスで流行って、俺もかっこいいと思って一生懸命書いたんだ」
 私は、夫のそばへ近づいていき、彼が指さしている303号室のポストを並んで見た。

「隣に、声の大きな女の子が住んでたんだ。時々ベランダ越しに話をしたんだけど、いつの間にか引っ越して…。俺の親は、さんざん揉めた挙げ句に結局離婚しないで、俺はもとの家に戻ったんだけど」
「そうなんだ」
「もし離婚してたら、俺の名前も変わってたのかな」
「かもね」
「同じクラスにそんな子がいたな。途中で名前が変わった女の子。それまで名字で呼ばれていたけど、みんな下の名前で呼ぶようになった」
「あたしも知ってるよ。そんな子」
「うん」
 階段下から出ると、また雨が降りだしていた。二階にはもう、男の子はいなかった。雨から身を守るように、私と彼は肩を寄せ合って家に帰った。

 彼は気がついただろうか?

 あのとき、303号室の隣に記されていたのは、私の昔の名前だったことに。

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