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【短篇小説】 夜明けの引越し屋

 半額まで値切った引っ越しが、何度もキャンセルがあってようやく日程が決まったのはいいんだけど、開始は朝の七時になりますって言われたときはさすがの俺もあせった。焼き菓子を持ってアパートの住人全員にお詫びがてら配ったりして、結局高くついたよ。

 真夜中に抜き足差し足で荷造りを済ませると、なにもなくなった部屋の壁に寄りかかって、約束の時間を待つことにした。すぐに眠りがやってくると思ったのに、かわりに押し寄せてきたのはこの部屋で過ごした歳月だった。
 不動産屋から鍵だけ預かってひとり部屋を探したこと、カーテンを買い忘れて眩しくて眠れなかった日、テレビも暖房もない冬がどんなにわびしかったか、はじめて彼女を連れてきた夜、最後に彼女が出ていったあの日の夕暮れ。そして今、ひとりこうして壁にもたれている自分。それは、思い出なんて悠長なもんじゃなかった。やけにくっきりとした記憶が、濃密に高速に頭の中を駆け抜けていって、まるで眠れなかった。
 
 腕時計を見ると、約束の時間まであと一時間だった。どこかで、エンジンの音が聞こえてくるのを、はじめは気にもとめなかった。
 
 カーテンを取り外した窓から通りを見おろす。雨もよいの空はまだ薄暗い。さっきのエンジン音が大きくなった。見れば、トラックが重たそうに走って来るところだ。
 もしかすると、あれが引越屋の車だろうか?
 約束の時間にはかなり早いけれど、よほどあとがつかえているのかな。俺は立ち上がると、さっきまでの感傷を振り切るように、「いい加減背中も痛くなってたし、こっちは早ければ早いほど助かるよ」と独り言をいった。
 トラックから、グレーの作業服を来た二人の男たちがトラックから降りてくる。俺が静かにドアを開けると、男たちは軽く会釈をしただけで、靴を脱いでマットを広げ、するすると荷物を積み込みはじめた。

「ずいぶん早く終わっちゃいましたね」
 こんなに早く終わってしまって、次の予定は狂わないんだろうかと心配する俺をよそに、二人のうちの一人がトラックのドアを開けて、乗るように促してきた。
「俺も乗っていいんですか?」
 契約のときにトラックには同乗させてもらえないと聞いていたのだが、二人は当然という顔をしている。
「よかったです。ひとりで移動するのってなんか淋しいかなって思ってたから」
 運転席と助手席にはさまれた真ん中の小さな椅子に乗り込みながらそう言うと、男たちはそろって頷いた。助手席に座っているほうが、俺の寝不足顔を見てポットからコーヒーを注いで差し出してくれる。
「なんだか至れり尽くせりですね」
 毎日歩いていた道が、橋が、家々がどんどん遠ざかっていく。もう二度とここに来ることはないだろう。そう思っていたら、運転席からとんとんと、肩を叩かれた。
「もう着いたんすか?」
 俺が縮こまった身体を伸ばしている間に、男たちはさっさと荷物を運びはじめた。出るときも早かったけど、荷物を入れるのはもっと早くて俺の出る幕なんか一ミリもなかった。代金を払ってお礼を言ってから、俺は気になっていたことを聞いてみた。
「到着の時間がずいぶん早かったですけど、あとがつかえてるんですか?」
 すると、運転席のほうが答えた。
「いいえ、約束どおりです」
「え?」
「すべて、流れるままですよ」助手席が微笑んだ。

 ふたりの男たちを乗せたトラックが、風のように走り去って行くのを見ながら、俺はどうしてさっき二人に「淋しい」なんて言ったんだろうと思った。
 しばらくぽかんとその場に突っ立っていたけれど、いつまでそうしていても仕方がない。これから新しい生活が始まるんだ。カーテンは新しいのを買ってあるし、今はまだ夏だけど、暖房だってあると思いながら意気揚々と新しい部屋に足を踏み入れた瞬間、強烈な違和感を覚えた。

 この部屋は、前とそっくりじゃないか。

 確かに同じようなアパートの同じような間取りの部屋を借りたけれど、それは会社から近いところを選んだから予算的しかたなくそうなっただけで、いくら日本中同じような賃貸物件ばっかりだからって、こんなに同じな訳がない。内見のときに俺はたしかにこの目で見て、ああなにもないとがらんとして淋しいなって思ったくらいには広かった。それが、あの二人が家具を置いたせいか部屋はもう誰かが暮らしているみたいに見える。驚いたことにカーテンまでつけてあって、テレビもつなげてあって、冷蔵庫もブーンと唸っている。
 どこか違うはずだ。そうだ、窓の形が違うよな?こんな出窓じゃなくて…。あれ?前の部屋の窓はどんな形だった?思い出せない。さっきそっくりだって思ったばかりなのに、わからない。

 気がつくと俺は部屋を飛び出していた。トラックはもうとっくに見えない。考えてみたら、いろんなことが変だった。時間は早過ぎたし、トラックに乗せてくたし、きっとあのコーヒーになにか入っていたんだ。俺は幻覚を見せられているんだ。
 あいつらは絶対に俺が契約した引越屋じゃない。そう言えば、本当の引越屋はどうしたんだろうか?俺がいなくなっていて、怒っているだろうか?違約金とか払わされるんだろうか?
 そのときスマホがメールを着信する音がした。本当の引越屋からだった。本日はありがとうございました。またなにかございましたら、いつでもご用命下さいだと?
 
 こんなのは嫌だ。カーテンをつけかえてやる。あたらしい箪笥を買ってやる。いっそのこと、引っ越してやる。でも、それでもまた同じ暮らしになったらどうしたらいい?俺はもう、彼女の顔すら思い出せない。忘れようとしたから、あの部屋をなかったことにしたから、こんなことになったんだろうか。
 
 これが俺の新しい暮らしなのか。今はもう、俺が淋しいのかどうか、俺自身わからないんだ。


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