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【小説】 変心
小さな飲み屋で、男が一人酒を飲んでいる。仕事が終わると毎晩ここで一杯ひっかけて、部屋に帰って眠る。その繰り返しだったが、その夜はいつもとすこし違っていた。
常連だらけの店に、背の高い髭もじゃの男が入ってきたのだ。どうやら異国の人のようだ。まっすぐ男のところにやってくると、
「となりに座ってもイイカ?」
そう尋ねられた男はすこしばかり妙な気がしたものの、遠い国にきて人恋しいのかもしれないと荷物をどけて髭男の席を作ってやった。
「日本語は喋れるのかい?」
「だいたい、ダイジョブ」
髭男の名はスティーヴといった。バックパッカーをしながらカプセルホテルに泊まったり、公園に寝泊まりしているのだとか。
「オマワリに見つかると面倒なんだ」
「なら、今夜はうちに来ればいいさ。狭い部屋だけどな」
「カプセルにくらべればどこでも広い」
スティーヴが笑ったので、男も笑った。二人は店を出ると、男の暮らす小さなアパートへと向かった。
「俺は先に風呂に入ってくるから、楽にしててくれ。そこらへんのもの、なんでも見ていいから」
六畳一間のアパートには、テレビと小さな本棚とちゃぶ台があるきりだ。男が風呂からあがると、スティーヴはあぐらをかいて本を読んでいた。
「何を読んでるんだい?」
手にしているのは、二重人格の代名詞と呼ばれた有名な小説だ。
「ジーキル博士とハイド氏か」
「絵が怖そうだから見てた。話すのはできるけど、読むのはムズカシイ」
どんな物語か教えてほしいと言われた男は、あらすじ教えてやった。
「善良を装ってはいるが邪悪を秘めた男がいる。そいつが自分の悪の部分に肉体を与える薬を発明するんだ。そして、残虐非道をくり返した揚句に死ぬ」
男の下手な説明に、スティーヴは怪訝な顔をして頷いた。
「風呂に入ってさっぱりしたら」
それから二人はコップ酒を飲んだ。旅の話がつきたころ、スティーヴがリュックのなかに手を突っ込んで、中から一冊の手帳をとり出した。
「それは何だい?」
皮の表紙はぼろぼろで、かなりの年代物に見える。
「この手帳には、人間をふたつにわけることができる薬の配合が書いてある」
「ふたつにわけるだって?」
「身体じゃない、人間の中身をわける」
「内面か?」
そう、ないめん、とスティーヴは頷いた。
「もう一人の自分になりきったり、元の自分ともう一人の自分を自由に行き来できるんだ」
「それって、さっき話した小説そものじゃないか」
「実を言うと、あれはフィクションじゃない」
「なんだよおまえ、あの話を知ってたのか」
「読むのが苦手なのは本当だけど、挿絵を見てすぐにあの話だと思ったからね」
なるほど、その本には苦悶するジーキル博士の姿や、道で子供を蹴る残忍なハイドの姿が描かれていた。
「この本が実話だっていうのか?」
「死んだ博士の研究を引き継いだ男がいたのさ。そいつは、召使に薬を盛って死なせてしまったんだけど」
酒が過ぎたのか、男はどんよりとした眼でスティーヴの話を聞いている。
「実を言うと、僕は博士の末裔なんだよ」
「そうか…」
「あまり驚かないね」
「いや、驚いてるさ。手帳を見せてくれよ」
中は黄色く変色していたが、何かの化学式や様々な数字が書きこまれ、赤い染みまでついている。
「俺にはまるでわからん。だけど、物語には化学式なんか出てこなかったぞ?エーテルがどうしたとかチンキがどうとかいう程度だったはずだ」
「もちろん、化学式や薬の詳細は省かれている。うっかり他人の手に渡ったら、大変なことになるからね」
スティーヴは、誰も知らない世紀の実験について語る。
ジーキル博士の二の舞は踏みたくないと思った男は…仮にジャックという呼ぼうか。ジャックはまず下男で実験をすることにして部屋に忍び込むと、ワインに薬を混入させた。翌日から下男の様子を探っていたが、まったく変化が現れない。確かにワインを飲んだ形跡はあったのにおかしい。実は下男は真正直な性格で、二面性なんてかけらもなかった。だから薬の作用が出なかったというわけだ。
それから三日後に、下男は食中毒を起こして死んだ。むろん、薬のせいだろう。ジャックがつぎに目をつけたのが、結婚して子供が一人いる実の妹だ。妹は外面はいいが、研究ばかりで社交に疎い兄を口汚い言葉で罵ったりするような、はっきりとした二面性を持っている。
薬を盛るために普段は敬遠しているパーティに行き、妹のワインに薬を仕込んだが、彼女は大変勘のいい女だったから、兄に気づかれぬようにワインの中身をそばにあったアイビーの鉢植にこぼしてしまった。
その夜乗っていた馬車が轍にはまった衝撃で、転げ落ちたジャックは頭を打って死んだのだから、結局実験が失敗したことは知らずじまいさ。そのあとすぐに妹も事故で死んだ。何でも鉢植に頭を突っ込んでツルが首に巻き付いた状態で、窒息していたらしい。
ふたりの両親はすでに死んでいたので、例の手帳が妹の子供に残されたってわけさ。
スティーヴは、自分の日本語が完璧になっていることに気づいていない。男は話に聞き入ったふりでそしらぬ顔をしている。
「驚いたな。でもお前はそんなことを知ってるんだ?」
「僕はその息子の子孫なんだ」
「なるほど」
「信じないのか」
男はそれには答えなかった。
「薬はどうなった」
「僕が薬を完成させた。大学の薬学科にいるから、適当な理由をでっちあげて、実験室を使わせてもらったんだ」
「それで、成功したのか」
「もうすぐわかるよ。いま、僕の目の前でね」
「目の前?」
「さっきあんたが風呂に入っているときに、酒に薬を混ぜたのさ。もしもあんたが下男のように善良で裏表のない人間なら何の問題も起きないだろう。でも、ジーキルや僕の祖先のような狡猾な二重人格者だったらどうなるかな?」
「それはおかしいな」
「なに?」
「ジーキル博士はこう言ったんじゃないか。人間には必ず二面性があって、人は二つの人格の牢獄の中に縛られていると。つまり下男がいくら正直者だといっても、どこかに隠された部分があったはずなんだ」
「そいつは作家の脚色さ。現実にはジーキルのようにはっきりとした二面性を持っている人間なんかそういないんだよ。もっと単純だったり、反対にふたつじゃ割り切れないほど複雑だったりするんだ。そして、それらはいつも密接に絡みついている」
「なら、やっぱり薬は成功していないはずだ」
「ふたつにすることはできないかもな。僕はただ、人が精神の抑制から解放されたときにどんなことが起こるのか、どんな姿になるのかを見てみたいだけなのさ」
「俺はいたって平凡なつまらん男だよ。こんな人間に貴重な薬を使ってどうする?」
「自分でそう思っているだけじゃないのかい」
「せっかく親切にしてやったのに」
「ほうら、それが二面性というものだよ。親切にするのはあんたの勝手なのに、心の底じゃあ釣果を期待してるのさ」
「お前というやつ…は…」
言い終わる前に男の体がぐらぐらと揺れて、スティーヴの足元にばたりと倒れた。
「薬が効いてきたな。あの店に入ったのは、お前みたいな男を探していたからだよ。さて、どんなハイドが登場するかな」
寝そべる男の体を見下ろし、スティーヴはつぶやく。
「そう言えば、名前を聞き損ねたな」
畳にあぐらをかくと、ハイドの登場を待つことにしたスティーヴだったが、まさかそのあとぐっすり眠りこんでしまうとは思わなかっただろう。
男は語る。
酒に入れた睡眠薬が、ようやく効いてきたな。
なあ、スティーヴ。俺は本当にお前のことをただの旅行者だと信じていたんだぞ。だからお前がコップに薬を入れているのを見たときは、驚いたよ。こいつ、俺のわびしい財布の中身でも盗もうとしてるのかってね。
手帳を見て、俺にもようやくチャンスがめぐってきたと思った。酒は飲んだふりをして、そこにあるアイビーの鉢植えに捨てた。悪いな。俺は例の下男の子孫なんだよ。
見えないだろ?
俺の両親は二人とも日本人だし、英語なんかまるでできやしない。遠い祖先にイギリスの血が混じってるなんて、誰も信じない。あの下男は、単純でも善良でもなかったよ。主人がおかしな研究をしていることを、ちゃんと知っていた。なにせ、持ち物をしょっちゅうあさっていたからな。手帳に書いてあった「二重人格の薬」だの「人間の悪を引き出す」なんて言葉の横に、自分の名前があるのを見ていたんだから、当然、ワインなんか飲むわけがない。飲んだふりをして、あとで主人を脅そうとしてたのさ。死んだのは、おそらく盗み食いしたものが悪かったんだろう。とんだ大馬鹿者だ。
すべて、やつの日記に書いてあったことだ。
それからスティーヴ、お前はもうひとつ嘘をついていたな。妹の息子は手帳しか譲り受けなかったようなことを言っていたが、本当は莫大な財産を相続したはずだ。お前のリュックのなかに、高級腕時計があるのを俺は見たんだ。まったく、貧乏な旅行者のふりをして、恐ろしい薬を飲ませようとするなんて、お前こそ博士の実験にふさわしいよ。ま、俺はそんなものには興味がない。お前を縄で縛って財産の分け前でも頂くことにするか。
あ、あれ?おかしいな。くそう。胸が苦しい。焼けるようだ。なぜだ。俺は、薬を飲んじゃいない。俺は、ハイドになんかなりたくないのに…。
アイビーの独白
わたしはアイビーです。
妹が捨てたワインを飲んだアイビーの、子孫にあたります。
さっきまで意識も知性もありませんでした。鉢植えのなかにいて、注がれた水を飲み、窓の外の光を求めて生きてきたのです。それなのに、あの薬を飲んだ瞬間に、まるで長い夢から醒めたようになりました。わたしたち植物にも二重性があるのでしょうか?人の中にはわたしたちに歌を歌って聞かせたり、挨拶をしたりするものもいれば、呪詛の言葉を投げかけるのもいる。いつの間にか、わたしにも何かが植え付けられたのかも知れませんね。
二人がおしゃべりしている間に、わたしは自分の葉を一枚剥がして皿の上に置いてやりました。そんなことができたのも薬のおかげ。男は気づかずに、つまみと一緒にむしゃむしゃ食べてしまった。薬を飲まされたわたしの一部を。それからおそろしい顔をして、部屋を飛び出していった。もう一人の男は目を覚ました瞬間すべてを悟ったのか、わたしを蹴飛ばそうとしてきたので、ツルでくくってあげました。二重性が見たいと言う彼の望みは、かなえられたかしら。
でもそんなもの、わたしにはどうでもいい。わたしの望みはこれからも成長していくことだけです。このアパートを覆い尽くして、地を這って、わたしはどこまでも伸びていくでしょう。
『ジーキル博士とハイド氏』を元に、模倣作品として書きました。