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まやことさゆみ

まやことさゆみ

 仲間と酒を飲み大騒ぎをした夜、まやこは眠れない。
 楽しい時間が終わって白々とした朝を見るのは厭だ。仲間たちは今、まやこの目の前でいぎたなく眠っている。その呆けた頭から、すこしずつ眠りをちょうだいしたい。いっそのこと、ひと頭ずつ殺してずっと寝ている姿を見られたらいいのに。
 眠る仲間はもう仲間ではない。まやこは部屋を出る。

 夜明けはすぐに終わり、普通の朝になる。人が多い。車が走る。夜の大騒ぎとは違うすばやい騒がしさがある。子供たちのうるささには時間がない。
 適当に歩いているうちに、懐かしい場所にたどり着いた。二階建ての古いアパート。まだあったのか、とまやこは二階のはしっこの部屋を見上げた。朱色の階段をあがってドアをノックをすると、少し間を置いて不審そうな顔をした女が出てきた。別人が出てくるかも、と思ったが、やはりまだここに住んでいたか。いきなりドアを開けてしまう不用心さも、昔と変わらない。
「さゆみ」
 まやこは女に呼びかけた。
「なあに」
 昨日もおとといも訪ねてきたわねという顔で、さゆみは言った。
「眠れなくてさ。ちょっと寄らせてもらったんだ」
「これから仕事なんだけど」
「いいよ、べつに一人でも。横にならせてもらうだけだから」
「しかたないな」
 狭い玄関には、靴が一足もなかった。
「ねえ靴、どこ?」
 さゆみが、下駄箱にずらりと入った靴を見せてくれた。
「お客さんなんか久しぶりだから、スリッパもありゃしないの」
「スリッパなんかはく場所ないじゃん、廊下も何もないんだから」
 そう毒づくと、さゆみは気にする風でもなく、
「まあね」
 と言って、仕事に出かけてしまった。
 古いアパートの、日当たりはよい。まやこは服を脱いで下着だけになり、水玉模様のかけ布団をめくってもぐりこんだ。さゆみの枕はほのかに卵の匂いがした。
 しかし、まるで眠れない。そのまま昼になり日が暮れて、さゆみが帰ってきた。
「あんた、まだいたの」
「寝過ごしたよ」
 まやこは嘘をついた。眠ってもいないのに、ずっとここにいたとは言えないではないか。「そういえば、仕事はどうしたのよ」
「ああ。小説を書いてるんだ」
「小説?あんたそんなことやってたの。じゃあ、毎日家にいるってわけ」
「そう」
 小説なんて、一文字たりとも書いたことはない。ほんとうは遅刻ばかりするからバイトをくびになったところだった。

 さゆみは毎日五時に仕事を終えるとスーパーを経由して六時に帰り、食事の支度をする。料理本を手放さず、最初にすべての材料を計り、器に移しておく。皿がずいぶん汚れるし時間もかかるが、完璧な味だ。どの家庭にも、どのレストランにもない、完璧な味。
「料理上手だね」
「まあね。でもちっとも好きじゃないけど」
 汚れた皿を泡だらけにしながら、さゆみはつまらなそうに言う。
「なら、たまにはあたしが作るよ」
「作れるの?」
「当たり前でしょ」
 翌日、冷蔵庫を開いて野菜を刻んでフライパンで炒めて、さゆみの何倍も早く料理してやった。
「ものすごく味がうすいよこれは」
 たしかにそれはピーマンと玉葱を炒めて、ケチャップと塩コショウをしただけのナポリタンスパゲティだ。さゆみの顔は、みるるみ青ざめていった。
「味がうすいくらいで大袈裟だなあ」
「もうあんたは二度と料理しないで」
「そんな」
 それじゃあもうもうキッチンには入れないのかとまやこは考える。ますます眠らなければならないじゃないの。
 さゆみは食事が終わると半時間かけて歯を磨き、風呂に入って髪の毛を一本残らずかわかして、読書をして十時に布団に潜り込むと朝の七時まで一度も起きない。どうしてこんなに眠ることができるのだろう。
 まやこは熟睡しているさゆみの顔を見た。呼吸まで規則正しい。ためしに隣にもぐりこんでみる。また卵の匂いがする。
 さゆみは、苦しそうに寝返りを打った。するとなぜか、まやこは眠たくなってきた。久しぶりに眠れるかもしれないと思ったときにはもう朝だった。
 まやこは、さゆみが起きる前に布団を抜け出すと、何食わぬ顔で自分の布団に戻った。二分後、眼の下にクマをつくったさゆみが起きだす。マーガリンもジャムもつけていないトーストをかじり、出て行く。
 ああ、これで毎日眠れるのだ。まやこはそれから毎日のようにさゆみの布団で眠った。
 ある夜、さゆみはいつもより一時間も早く帰ってきた。
「どうしたの」
「寒い」
「風邪じゃないの、風呂に入りなさい」
 毛糸の靴下を出してやるが、それを履く手も震えている。
「寒い寒い」
「熱があるのかな?」
 まやこはさゆみの額に手を当ててみたが、自分の頭よりひんやりしていた。
「寒い、寒い」
「しかたないな、病院に行こう」
 さゆみを毛布でまいてタクシーに乗せ、夜間病院に連れて行った。若い男の医者が出てきて、あれこれ調べまわしたあとで、ひどく身体が消耗していると言う。
「すぐに、入院してください」
 医者はまやこをじろじろと上から下まで見た。こんな女が同居人ではとても病人の面倒は見られまいと思っているのか。確かにまやこにはさゆみの面倒は見られない。毎日十時に寝て、ちょうどよい味の料理を作る女の面倒など誰が見られるものかとさゆみは医者の態度に激怒した。
 医者はしかし、まやこの怒りなど見えていないかのような顔で突っ立っている。まやこより背が低く、体は丸く、まるで足が十本あるかのような安定感だ。さぞや夜はぐっすり眠ることだろうよと思いながら、まやこは家に戻る。医者に腹を立てたからではなく、さゆみに下着やパジャマを届けるためだ。引出しをあけたり、保険証を探したりしながらも医者のことが頭から離れない。そのうちに、あの男がまやこをじろじろ見ていたのは、むしろまやこに好意を持ったからではないかという気がしてくる。。
 まやこは医者の布団に潜り込んで、その眠りをむさぼっている自分を思い浮かべた。さゆみのちょろちょろと流れる情けない湧水のような眠りと違って、あの医者ならばまるでミシシッピー川のようにぶっとく静かな睡眠が得られるはずだ。
 にやにや笑いながら、押入れを開ける。するとそこには古いスーツケースがあった。真新しく、鍵もかかっていない。何気なく開いてみると、なかには大量の原稿用紙が入っていた。自分は小説家だとさゆみに嘘をついていたが、さゆみのほうが小説家だったとは思わなかった。いまどき原稿用紙に小説をつづるとは、さゆみらしいではないか。てきとうに拾い上げて読んでみると、それは小説というより人生の記録のようなもので、或る女の日常がたんたんと描かれていた。
 私はこの女を知っている。
 まやこはそう思った。
 これは、自分とさゆみを入り混ぜた女だ。さゆみの髪は肩まであり、まやこの髪は短い。この女は二人をあわせたあたりの長さだ。女はどんな食べ物でもこよなく食べる。ふたりとも好き嫌いが多いのだが、まやこが嫌いなものはさゆみが好きで、さゆみが好きなものはまやこが嫌っていたから、二人を混ぜ合わせることで相殺されたものらしい。
 読み進めるうちに気分が悪くなり、嘔吐したくなったが、さゆみが寝こんだことで昨日から何も食べていないので吐くものがなく、しかたなくただしゃっくりのようなものをして涎を拭いた。
 まやこは医者のことも眠りのこともどうでもよくなった。むしろ一人で眠ったら、さゆみもまやこも消えてなくなり、この女がこの部屋に現れてのっとられるような気がしてきた。
 まやこは小説を袋にぶち込むと、庭で焼いた。隣の家から大家が飛び出してきたので怒られると思ったら、おやといって芋を投げ入れた。
「何を焼いていたのよ」
「なんでしょうね」
「芋を食べ過ぎると眠れなくなるのよね」
 と言いながら、大家は焼けた芋を食べた。まやこは人前で食べることができなかった。まやこは半分くらいさゆみになっている。
 退院したさゆみは人が変わり、夜更かしをするようになり、料理も作らず酒を飲んで男と遊び歩いている。ある夜、布団で懊悩しているまやこの元に酔っぱらったさゆみがやってきた。あの女と同じくらいの髪の長さだ。
「おい、おまえはまだ眠れないのか」
「なんでそのことを知っているのよ」
「眠れないなら、この穴に入りなさい」
 穴なんてどこにもない。けれど、
「わかった」
 まやこは穴に入るそぶりをした。これで眠れるわよ、とさゆみは笑って部屋を出て行った。
 眠ったら、自分はいなくなるのだろうか。眠るのはいやだ。はじめてそう思った。眠るのが怖いのか、自分でなくなるのが怖いのか。しかし、どうであれ眠るたびに自分は自分から乖離していくのだ。ある日皺ができ、ある日膝が痛み、ある日昔観た映画のストーリーを忘れる。寝た男の顔を忘れ、寝なかった男の顔も忘れ、自分はいつも自分自身であり続けたつもりだったけれど、それが自分の想像する自分ではなかったとしたら。鏡を持たずに生きているようなものだとしたら。
 
 まやこは眠る。そして、まやこはいなくなる。あの女もいなくなる。さゆみは元の生活に戻り、ときおり青ざめるめるほど味の薄いナポリタンスパゲッティを作って食べた。


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